231222 日経 更新福山相关

ミュージシャン、俳優、写真家……。デビュー以来30年あまり、多彩な顔を持ち、時代を代表するアーティストとして福山雅治さんは疾走してきた。心を動かす言葉と旋律は純粋であるばかりではない自己と厳しく向き合うことによって、紡がれているらしい。

長崎から、音楽活動のために上京した18歳当時を、苦笑まじりに振り返る。

「(高校を出て)5カ月間就職したけれど『井の中の蛙(かわず)大海を知らず』のままで10代、20代を過ごすのも嫌だな、と。ロックバンドを組みたくて考えたのが、新宿のピザ屋さんのアルバイト。35年くらい前、ピザのデリバリーがはやっていて、最先端のアルバイト先なら、文化的に感度の高いやつが集まって来るはずだ、と思って」

感受性が強く、音楽活動に興味を持つ仲間もいるにはいたが、結局はみんな夢だけ、みたいな素人の甘さがあり「ハモれなかった」。うだつのあがらない日々の転機は、芸能事務所アミューズの映画俳優オーディションに合格したことだった。この時の「偶然」が、すでに伝説の一つとなっている。

「偶然」と「好意」が重なり、映画俳優への道を開く
最終面接の通知が、手違いで東京都昭島市のアパートに届かず、落ちたと思い、ドライブにでかけた。ところが車のマフラーが腐食していたらしく、横田基地の辺りではずれて爆音になった。「こりゃいかんと、マフラーを拾ってアパートに戻り、車の下にもぐっていたところに、自転車に乗った配達の方が、電報届いていますよ、とやってきたわけです」。今すぐ来て、という事務所からの連絡だった。

当時9万5千円で買った中古の「いすゞジェミニZZ/R」のマフラーが、もし落ちていなかったら……。

「『タラレバ』でいえば、いろんなことはあったでしょう。今とは違う仕事をしていた可能性もあるし。でも1回は(音楽活動を)形にしようという頑張りや、あがきはしていたはず」

運、不運にかかわらず、やがては芽吹くはずの才能だったのだろうが、周囲の好意が、希代のアーティスト誕生にあずかっていたのは確からしい。

ピザ屋を辞めた後に勤めた材木店の家族は、ご飯を食べさせ、風呂に入れてくれ、クリスマスのケーキを持たせてくれた。アミューズの担当者は、審査に来ない青年に電報を出して呼び寄せた。とにかく人にかわいがられる。

「(かわいがられる)才能やすべがあったかどうかは、当時も今もよくわからないけれど、人にかわいがられたい、とは思っているし、そう思うことは大事なんじゃないか、と。老若男女問わず、好かれるって嫌な気持ちはしません。だから僕のなかでも、好きになってもらいたかったら(自分が)まず好きになること、と決めているところがある」

オーディションに合格してからの活躍は周知の通りだが、作った歌がすぐに売れたわけではなかった。

「とにかくヒットしている楽曲を、自分なりに因数分解してみました。自分が好きかどうかとか、自分はこの曲しかやりたくないとか、自分から出てくる音楽はこれだとか、自分らしさとはこうだ、とかは全部二の次にして、ヒットチャートに入っている楽曲のコードをとって、こういうのが当たっているんだとか、歌詞、メロディー、アレンジ、それぞれ自分なりに分解して」

ヒット曲を腑(ふ)分けし、共通するキモをかっこにくるみ、という行き方だ。いいとこ取りの模倣に終わってしまいそうだが、そうはならなかった。あるとき目にしたビートルズのメンバーのインタビュー記事が、その方向で間違いない、と示唆していた。

「ビートルズも最初は、(憧れの)エルビス・プレスリーみたいなロックンロールをやりたいと思い、一生懸命作るわけです。でも、やれどもやれどもエルビスみたいなサウンドは出せず、そういう曲も作れない。だけど、結果どうなったか。エルビスになれなかったビートルズはビートルズになっていった。コピーがうまくできなかったからこそ、オリジナルになった、と」

模倣できずにはみ出す個性、磨き上げて高みを目指す
人は完全に人をコピーできない。模倣できず、元の作品からはみ出す部分が出てくれば、それが個性かもしれない。そこを究めていけば――。ビートルズという存在と自分を同一線上に並べるわけではない、と前置きしつつ「バカボンのパパじゃないけれど、これでいいのだ、と思いましたね」

オリジナルであることの難しさを知ればこそ、芸術の根幹と思われている「自己表現」に対して距離を置く。「自分を表現するって、相当難易度が高いですから」。先立つものは方法論や技術であり、ただただ自分の感情をぶつけよう、では足りない。「野球をしたことがないのにホームランを打ちたい、といっているようなもので」

方法論は得ても、それだけで作品はできない。最後は自分と向き合う、という坂が待っている。

「ソングライティングで言葉を紡ぎだし、感動を与えようとか、人に何か感じてもらいたいと思うなら、自分が発した言葉に責任を持たなければいけないと思う。その責任とは何かというと、本当の自分自身とちゃんと向き合ったか、です。一言一句、全部が全部、本心じゃなくていいんですけれども、あ、この1行って、この人の本当のことを言っているな、というその1行があれば……」

人の心を動かす言葉というものがあるなら、それは自己の心の真実を語る1行、1行でしかない。しかし、自分の深奥に分け入り、本当の言葉を拾ってこようとするとき、どんな顔が出てくるかはわからない。

人は性善、性悪、どちらでもあり、自分も例外ではない。「いい人でありたいとは思っているけれど、めちゃくちゃいい人かといったら、僕はそうじゃなくて、嫌な部分もいっぱいあるし」。セルフカウンセリングとも呼ぶその作業には入ったまま、戻れなくなりそうな怖さがあるという。

「愛と知っていたのに 春はやってくるのに……」(「桜坂」)。シンプルでピュアな言葉たちが、そこまでの力を持つわけの一端を知る。

【My Charge】週1トレーニング充実5時間、ベンチプレスで110キロ挙げる
分刻みのスケジュールのなか、心安らぐ時間はあるのだろうか。
「トレーニングをしたあとは、心身ともにすっきりしますね」。週に一度、ジムに通い、前後1時間のマッサージなどを含めて5時間、みっちり鍛える。
ベンチプレスでは110キロを持ち上げる。軽いところから始めて、ここまでくるのに20年ほどかかったという。1990年代後半の格闘技ブームのなか、「プライド」の選手たちが「なんか格好いい体をしているな」と思ったのがきっかけ。
ウエートトレーニングの良さは成果が数字に出ることだ。「当然、人間は年を取るので、昔、速かった足が遅くなったというのはあると思うけれど、筋肉の量は年を取ってもトレーニングをやればやるだけ増やせる。一応の目標を120キロに設定していて、頑張ればもっといけると思う。若かったころの自分より、今の方が重たいのが挙げられている。つまり若いころのオレより、今のオレの方が強い、ということが納得できるわけです」

個展も開く写真など、多趣味で知られる。ギターの収集でも有名だ。いずれの分野でもプロ級、一級の専門家になり、すぐ仕事との境目がなくなる。そのなかでは最も「業」から遠く、ほっとする時間というトレーニングだが「いつでも3時間のステージ(上の写真はアミューズ提供)ができる体を維持しておく」という効果ももちろんある。
ステージに出た瞬間の立ち姿にオーラがある、と人は言う。そのオーラもただの雰囲気やら、いわゆる「顔」から発せられるものではなく、筋肉という裏付けがあってこそのようだ。理詰めの人らしいところかもしれない。
腹背筋、臀部(でんぶ)、脚周りの大きな筋肉とともに、意識しているのが声帯を動かす筋肉だという。「年を取ってしわがれ声になるのは(2枚合わさった)声帯が痩せて、間が開いてくるから、というんですけど、声帯を動かす筋肉はよくしゃべったり、歌ったりして動かし続ければ維持できるらしい」

ライフワークとなった感のあるラジオのパーソナリティーも、それが決して目的ではないけれど、結果として声帯の筋肉保持につながっている。「関心があるものに正直でありたい」と、心の赴くところに全力投球し、その充足感がまた炉心に投入され……。永久機関のごとき無尽のエネルギーの源がうかがえるようだ。

篠山正幸

山口朋秀撮影

【NIKKEI The STYLE 2023年12月17日付「My Story」】

福山雅治さん 心動かす言葉と旋律、自己と向き合い紡ぐ

ミュージシャン、俳優、写真家……。デビュー以来30年あまり、多彩な顔を持ち、時代を代表するアーティストとして福山雅治さんは疾走してきた。心を動かす言葉と旋律は純粋であるばかりではない自己と厳しく向き合うことによって、紡がれているらしい。

長崎から、音楽活動のために上京した18歳当時を、苦笑まじりに振り返る。

「(高校を出て)5カ月間就職したけれど『井の中の蛙(かわず)大海を知らず』のままで10代、20代を過ごすのも嫌だな、と。ロックバンドを組みたくて考えたのが、新宿のピザ屋さんのアルバイト。35年くらい前、ピザのデリバリーがはやっていて、最先端のアルバイト先なら、文化的に感度の高いやつが集まって来るはずだ、と思って」

感受性が強く、音楽活動に興味を持つ仲間もいるにはいたが、結局はみんな夢だけ、みたいな素人の甘さがあり「ハモれなかった」。うだつのあがらない日々の転機は、芸能事務所アミューズの映画俳優オーディションに合格したことだった。この時の「偶然」が、すでに伝説の一つとなっている。

「偶然」と「好意」が重なり、映画俳優への道を開く
最終面接の通知が、手違いで東京都昭島市のアパートに届かず、落ちたと思い、ドライブにでかけた。ところが車のマフラーが腐食していたらしく、横田基地の辺りではずれて爆音になった。「こりゃいかんと、マフラーを拾ってアパートに戻り、車の下にもぐっていたところに、自転車に乗った配達の方が、電報届いていますよ、とやってきたわけです」。今すぐ来て、という事務所からの連絡だった。

当時9万5千円で買った中古の「いすゞジェミニZZ/R」のマフラーが、もし落ちていなかったら……。

「『タラレバ』でいえば、いろんなことはあったでしょう。今とは違う仕事をしていた可能性もあるし。でも1回は(音楽活動を)形にしようという頑張りや、あがきはしていたはず」

運、不運にかかわらず、やがては芽吹くはずの才能だったのだろうが、周囲の好意が、希代のアーティスト誕生にあずかっていたのは確からしい。

ピザ屋を辞めた後に勤めた材木店の家族は、ご飯を食べさせ、風呂に入れてくれ、クリスマスのケーキを持たせてくれた。アミューズの担当者は、審査に来ない青年に電報を出して呼び寄せた。とにかく人にかわいがられる。

「(かわいがられる)才能やすべがあったかどうかは、当時も今もよくわからないけれど、人にかわいがられたい、とは思っているし、そう思うことは大事なんじゃないか、と。老若男女問わず、好かれるって嫌な気持ちはしません。だから僕のなかでも、好きになってもらいたかったら(自分が)まず好きになること、と決めているところがある」

オーディションに合格してからの活躍は周知の通りだが、作った歌がすぐに売れたわけではなかった。

「とにかくヒットしている楽曲を、自分なりに因数分解してみました。自分が好きかどうかとか、自分はこの曲しかやりたくないとか、自分から出てくる音楽はこれだとか、自分らしさとはこうだ、とかは全部二の次にして、ヒットチャートに入っている楽曲のコードをとって、こういうのが当たっているんだとか、歌詞、メロディー、アレンジ、それぞれ自分なりに分解して」

ヒット曲を腑(ふ)分けし、共通するキモをかっこにくるみ、という行き方だ。いいとこ取りの模倣に終わってしまいそうだが、そうはならなかった。あるとき目にしたビートルズのメンバーのインタビュー記事が、その方向で間違いない、と示唆していた。

「ビートルズも最初は、(憧れの)エルビス・プレスリーみたいなロックンロールをやりたいと思い、一生懸命作るわけです。でも、やれどもやれどもエルビスみたいなサウンドは出せず、そういう曲も作れない。だけど、結果どうなったか。エルビスになれなかったビートルズはビートルズになっていった。コピーがうまくできなかったからこそ、オリジナルになった、と」

模倣できずにはみ出す個性、磨き上げて高みを目指す
人は完全に人をコピーできない。模倣できず、元の作品からはみ出す部分が出てくれば、それが個性かもしれない。そこを究めていけば――。ビートルズという存在と自分を同一線上に並べるわけではない、と前置きしつつ「バカボンのパパじゃないけれど、これでいいのだ、と思いましたね」

オリジナルであることの難しさを知ればこそ、芸術の根幹と思われている「自己表現」に対して距離を置く。「自分を表現するって、相当難易度が高いですから」。先立つものは方法論や技術であり、ただただ自分の感情をぶつけよう、では足りない。「野球をしたことがないのにホームランを打ちたい、といっているようなもので」

方法論は得ても、それだけで作品はできない。最後は自分と向き合う、という坂が待っている。

「ソングライティングで言葉を紡ぎだし、感動を与えようとか、人に何か感じてもらいたいと思うなら、自分が発した言葉に責任を持たなければいけないと思う。その責任とは何かというと、本当の自分自身とちゃんと向き合ったか、です。一言一句、全部が全部、本心じゃなくていいんですけれども、あ、この1行って、この人の本当のことを言っているな、というその1行があれば……」

人の心を動かす言葉というものがあるなら、それは自己の心の真実を語る1行、1行でしかない。しかし、自分の深奥に分け入り、本当の言葉を拾ってこようとするとき、どんな顔が出てくるかはわからない。

人は性善、性悪、どちらでもあり、自分も例外ではない。「いい人でありたいとは思っているけれど、めちゃくちゃいい人かといったら、僕はそうじゃなくて、嫌な部分もいっぱいあるし」。セルフカウンセリングとも呼ぶその作業には入ったまま、戻れなくなりそうな怖さがあるという。

「愛と知っていたのに 春はやってくるのに……」(「桜坂」)。シンプルでピュアな言葉たちが、そこまでの力を持つわけの一端を知る。

【My Charge】週1トレーニング充実5時間、ベンチプレスで110キロ挙げる
分刻みのスケジュールのなか、心安らぐ時間はあるのだろうか。
「トレーニングをしたあとは、心身ともにすっきりしますね」。週に一度、ジムに通い、前後1時間のマッサージなどを含めて5時間、みっちり鍛える。
ベンチプレスでは110キロを持ち上げる。軽いところから始めて、ここまでくるのに20年ほどかかったという。1990年代後半の格闘技ブームのなか、「プライド」の選手たちが「なんか格好いい体をしているな」と思ったのがきっかけ。
ウエートトレーニングの良さは成果が数字に出ることだ。「当然、人間は年を取るので、昔、速かった足が遅くなったというのはあると思うけれど、筋肉の量は年を取ってもトレーニングをやればやるだけ増やせる。一応の目標を120キロに設定していて、頑張ればもっといけると思う。若かったころの自分より、今の方が重たいのが挙げられている。つまり若いころのオレより、今のオレの方が強い、ということが納得できるわけです」

個展も開く写真など、多趣味で知られる。ギターの収集でも有名だ。いずれの分野でもプロ級、一級の専門家になり、すぐ仕事との境目がなくなる。そのなかでは最も「業」から遠く、ほっとする時間というトレーニングだが「いつでも3時間のステージ(上の写真はアミューズ提供)ができる体を維持しておく」という効果ももちろんある。
ステージに出た瞬間の立ち姿にオーラがある、と人は言う。そのオーラもただの雰囲気やら、いわゆる「顔」から発せられるものではなく、筋肉という裏付けがあってこそのようだ。理詰めの人らしいところかもしれない。
腹背筋、臀部(でんぶ)、脚周りの大きな筋肉とともに、意識しているのが声帯を動かす筋肉だという。「年を取ってしわがれ声になるのは(2枚合わさった)声帯が痩せて、間が開いてくるから、というんですけど、声帯を動かす筋肉はよくしゃべったり、歌ったりして動かし続ければ維持できるらしい」

ライフワークとなった感のあるラジオのパーソナリティーも、それが決して目的ではないけれど、結果として声帯の筋肉保持につながっている。「関心があるものに正直でありたい」と、心の赴くところに全力投球し、その充足感がまた炉心に投入され……。永久機関のごとき無尽のエネルギーの源がうかがえるようだ。

《椿姫》上

 19世紀半ば、パリの裏社交界では、若さと美しさを武器に男から金を吸い上げる高級娼婦たちが騒々しく派手な生活を送っていた。いつも椿の花で身を飾っているマルグリット・ゴーチェはその中で最も美しく金使いの荒い女のうちの一人として有名だったが、肺を患っており、自分の命がそんなに長くない事を知っていた。罪深い女としての惨めな末路が見えて来たマルグリットは、心の救いを求めながらも得られず、放埓な生活で死の不安を紛らわせ、病状を悪化させて行った。
 そこへアルマン・デュヴァールという青年が現れ、マルグリットの身体を心配し、心からの愛を告白した。マルグリットは心を動かされ、アルマンを商売抜きの愛人にした。世間知らずで純粋なアルマンの愛は、男と嘘と金銭トラブルでまみれたマルグリットの生活と摩擦を起こしたが、マルグリットは次第に彼の一途な愛に心を奪われるようになった。パリでの贅沢な生活は意味を失い、マルグリットはパトロンたちとも高級娼婦としての生業とも縁を切った。そして静かな郊外でアルマンとのつつましく清らかな愛の生活に残された人生のすべてを賭けるようになった。
 しかし二人の仲はアルマンの父親の知るところとなり、父親はマルグリットを訪れ、「たとえ二人の愛が本物であり、あなたが改心したと言っても、一度道を踏み外した女を世間は許さない。息子を本当に愛しているのなら、今のうちに別れて欲しい。」と説得した。父親の説得に現実に帰ったマルグリットは、アルマンの将来を守るために、唯一の希望である愛の生活をあきらめて身を引く決心をした。パリに戻ったマルグリットは、心ならずも新しいパトロンを作り、高級娼婦稼業に戻った。事情を知らないアルマンは裏切られたと思い込み、彼女をさいなむ事に激しい情熱を傾けた挙句、傷ついた心を抱いて外国へ旅立った。
 身も心も深く傷ついたマルグリットの病状はどんどんと悪化し、ついに死の床についた。世間からは全く忘れ去られ、誰からも見捨てられてしまったが、心の中はアルマンへの愛に満たされていた。いつかアルマンが別れの本当の理由を知る事を願って、事の顛末を手記に書き記し、自分の死後アルマンに渡してくれるように、と友人に託した。アルマンはマルグリットの危篤を知り、急いでパリへ向かったが、間に合わず、マルグリットは最後までアルマンへの愛を唯一の希望として、孤独のうちにその短い生涯を終えた。
 1847年の春のことである。作家修行中の「私」は、クルチザンヌ(高級娼婦)として名高かったマルグリット・ゴーチェの遺品を処分する競売に出かけて行き、「マノンをマルグリットに贈る。つつましやかなれ。」という書き入れに興味を惹かれて、「マノン・レスコー」の本を高額で競り落とした。しばらくすると、金髪で背の高い青年が「私」を訪ねて来て、「マノン・レスコー」を譲ってくれと申し入れた。ひどく取り乱したその青年はアルマン・デュヴァールと言い、マルグリットに「マノン・レスコー」を贈った本人であった。「私」は「マノン・レスコー」を無償で贈呈し、どうやら込み入った事情があるらしいが、よければその事情を話してくれないか、と頼んだ。今はまだ混乱していて話せる状況ではないが、もう少し落ち着いたらお話しましょう、とアルマンは約束した。
※「マノン・レスコー」…アベ・プレヴォーの小説(1731年)。名門に生まれた騎士デ・グリューは享楽的な美少女マノン・レスコーに一目惚れし、名誉も幸せもすべて失いながらも、どこまでもマノンに誠実な愛を捧げ続ける。
 アルマンはマルグリットが死んだ事をまだ納得する事ができず、どうしても一目会いたい、変わり果てた姿でも見なければ想いを断ち切る事ができない、という気違いじみた熱情につき動かされ、永久墓地に埋葬し直すという口実の下、マルグリットの遺体を掘り起こす事にした。アルマンに頼まれた「私」は墓を掘り返すのに立ち会うが、変わり果てたマルグリットの姿にアルマンは発狂寸前となり、脳膜炎で倒れてしまった。「私」は15日間、看病を続け、アルマンはやっと回復し始めた。そして自分の胸の中の想いを吐き出すように、「私」にマルグリットとの物語を語り始めた。以下は「私」がアルマンから聞いたものを脚色せずにそのまま書き記したものである。

 マルグリット・ゴーチェはクルチザンヌと呼ばれる高級娼婦の中でも一際目立つ美しい女で、いつも椿の花束で身を飾っていたため、椿姫というあだ名がついていた。彼女は並外れた贅沢ぶりでも有名で、彼女のために破産させられた男は数え切れないとも言われていた。そのくせ、他の女たちにはないような情があり、田舎から家出して来てこのような稼業に足を踏み入れた女とはとても思えない気品を感じさせる女でもあった。
 アルマン・デュヴァールは少しは遊びも覚え始めた年頃の青年で、普通に暮らす分には余裕はあっても、マルグリットのような女を囲うだけの財力のある男ではなかった。しかし彼は初めてマルグリットを見かけた折に一目惚れしてしまった。その際には世慣れない態度を笑いものにされ、頭に血がのぼってそれきりになったが、マルグリットの印象は彼の心の奥に深く刻み込まれた。その後、マルグリットは肺の病気になって湯治に出かけてしまい、しばらくは姿を見る事もなかった。
2年後、ヴァリエテ座という劇場でマルグリットを見かけたアルマンは、再び心が燃え上がるのを感じた。そしてマルグリットの隣に住み、男たちとの仲介役をしているプリュダンス・デュヴェルノワという中年女の仲立ちでマルグリットに近づき、家に招き入れられた。マルグリットは気に入らないN伯爵を侮辱して追い出した後、夜中まで陽気に騒いでいたが、突然咳き込んだかと思うと自室へ逃げ込んで喀血した。マルグリットは不治の病に犯されており、その不安を紛らせようと享楽的な生活を送った結果、病状はどんどんと悪化して行ったのであった。数多くいたパトロンも、病身の彼女から遠ざかり、今や彼女を支えるのは昔なじみのG伯爵と、退屈で年老いた公爵のほぼ二人だけになっていた。
 アルマンは後を追って行き、自分が彼女の事でどれだけ心を痛めているか、もっと身体を大切にして欲しい、と涙ながらに訴えた。マルグリットはアルマンが自分に惚れているのに気がつき、自分のような女とは適当に付き合った方がいい、と忠告した。しかしアルマンは引き下がらず、粘り強く彼女への想いを訴え続けた。マルグリットは情を動かされ、「信じる、おとなしく言う事をきく、でしゃばらない」を条件として、アルマンを商売抜きの愛人として受け入れる事にした。
最初こそ天にも昇る心地だったアルマンであるが、マルグリットが老公爵からの金が予定通りに入るかどうかを気にして上の空になったり、G伯爵と会うために嘘をついて逢瀬の約束を反古にしたりする事態に直面し、驚くと同時に早くも我慢ができなくなってきた。高級娼婦の舞台裏を知るプリュダンスは、こういう女に本気になっても仕方がない、お金がないくせに彼女とつきあいたいのならば、今の立場に甘んじるしかない。それがいやならば別れなさい、とアルマンに説教した。プリュダンスの言う事がもっともなのはわかるだのが、若く潔癖なアルマンは嫉妬や独占欲、プライド、そして自身の潔癖な理想を捨て去る事はできなかった。
 マルグリットもそんなアルマンの気持ちを尊重し、夏には郊外に家を借りて、稼業を少し休んでアルマンと二人で暮らそうと計画をたてた。しかしそれもまた金銭なしには立ち行かない事柄だった。この計画のためにG伯爵から金を引き出そうとしたマルグリットはアルマンに嘘をついて伯爵の相手を努めたが、アルマンはそれがまた我慢ができず、もはや二人の仲もこれまでだ、とマルグリットの家の鍵に別れの手紙を添えて突っ返した。しかしそんな感情的な事をすればするほど、マルグリットへの想いがいかに断ち切り難いものであるかを悟ったアルマンは、プリュダンスに再び仲を取り持ってもらい、泣いてマルグリットに謝った。
アルマンは自分の勝手な行動を許してくれたマルグリットへの想いを一層深めて行き、、死の影に脅えながらも、自分との愛に最後の夢を見出そうとするマルグリットに、最大の愛を持って報いようと決心した。もはやG伯爵に嫉妬する事もなくなり、「マノン・レスコー」を贈ったのもこの時であった。しかし高級娼婦の愛人という立場を受け入れたアルマンは、マルグリットとの遊行費を捻出するために賭博に手を出し、堅気とは思われぬ放埓な生活にふけるようになった。そして父親や妹の待つ故郷への帰省も怠るようになった。
マルグリットとアルマンは、夏をパリの郊外にあるブージヴァールという静かな町で過ごす事にした。ブージヴァールでの生活に必要な金銭は年老いた公爵から出ていたが、遊びに来た賑やかな若い友人たちが公爵をからかった事から、公爵はへそを曲げ、マルグリットから手を退いてしまった。そして誰も郊外の家には寄り付かなくなったのだが、それがアルマンには幸いし、彼はマルグリットと水入らずの生活を心ゆくまで楽しむ事ができた。のんびりした自然の中で贅沢を捨て去ったマルグリットは実に清らかで、高級娼婦の面影は消えていた。もはやマルグリットにとってパリでの騒々しい贅沢な暮らしは意味を持たず、ブージヴァールでのつつましいアルマンとの愛の暮らしに残された命をすべてを捧げようとしていた。
 マルグリットは高級娼婦としての生活からはきっぱりと足を洗う決心をし、復縁を迫る公爵の申し出も断り、今までの借金を払うために、プリュダンスに頼んで馬車や豪華な宝石類、衣類を処分した。それを知ったアルマンはマルグリットのために何かしてやりたいと思い、公証人の下に出向いて母の遺産をマルグリットに譲り渡す手続きをとった。それが父親のデュヴァール氏の知るところとなり、デュヴァール氏は話があるからパリで待っている、と手紙をよこした。
パリでアルマンを待っていたデュヴァール氏は、お前の悪い噂のせいで妹の縁談が破談になりかかっている、今すぐマルグリットと縁を切るように、と言い渡した。しかしアルマンは何があってもマルグリットとは別れない、と言って父親を怒らせてしまった。
 アルマンの決心は固かったが、デュヴァール氏の登場はマルグリットの心の平和をかき乱した。マルグリットの様子は日に日におかしくなり、ある日、アルマンがパリから帰って来ると、マルグリットはいなくなっていた。夜中まで待っても帰らないのを心配したアルマンは暗闇の中を徒歩でパリまで戻ったが、そこで見たのは、豪華な衣装を纏ったマルグリットの姿であった。マルグリットはあれほど嫌っていたN伯爵を新しいパトロンにして、元の高級娼婦としての派手な生活に舞い戻っていたのだった。


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