馬陵の戦いは孫臏と龐涓の最終決戦だが謎が多い
馬陵の戦いは史記の孫子呉起列伝に詳しく記述されています。

馬陵の戦いは同門の孫臏と龐涓の最終決戦にもなっており、孫臏の劇的な策により決着しました。

孫臏と龐涓の因縁の戦いは「囲魏救趙」や「龐涓この樹の下にて死せん」「遂に豎子の名を成さしむ」などの言葉でも有名です。

ただし、馬陵の戦いには謎が多く竹書紀年によれば、馬陵の戦いは二度あった事が分かります。

さらに、竹書紀年には馬陵の戦いでの主役のはずである龐涓や孫臏、田忌の名前がなく、代わりに斉の田肦や魏の穣疵なる将軍が戦った事になっています。

作家の宮城谷昌光氏も言及していますが、馬陵の戦いは謎が多いと言えます。

今回は史記だけではなく竹書紀年の馬陵の戦いも合わせて紹介する様にしました。
馬陵の戦いの経緯
孫臏と龐涓の第一ラウンドは紀元前354年に起きた桂陵の戦いであり、斉の孫臏の囲魏救趙の策により、魏の龐涓を破りました。

これが孫臏のデビュー戦でもあり、鮮やかに孫臏が勝利したわけです。

しかし、龐涓が仕えた魏は戦国七雄の最強国であり、桂陵の戦いで敗れた位では国は揺らぎませんでした。

孫臏と龐涓の因縁の戦いは紀元前342年に訪れる事になります。

史記によれば紀元前342年に魏と趙が韓を攻撃し、韓は斉に援軍を派遣したとあります。

紀元前342年は韓では昭侯の時代であり、申不害を宰相に任命し国力を伸ばしていた時期です。

こうした中で、韓は魏と趙に攻められ、韓の昭侯は申不害と相談し、斉に援軍を求める事を決めたのでしょう。

こうした中で斉の威王は田忌を将軍に任命し、田嬰と軍師の孫臏を付けました。

これにより韓を攻めていた魏の太子申と龐涓は、韓への攻撃を中止し、斉軍へ備える事になります。

これが馬陵の戦いへの序曲となります。

孫臏の見解
魏の太子申と龐涓は斉に向かいますが、孫臏は次の様に述べました。
孫臏「三晋(魏、趙、韓)の兵は勇猛で剽悍であり、斉を軽んじ卑怯な輩だと思っております。

しかし、戦が巧みな者は相手の情勢に応じ、臨機応変に動くものです。

兵法には『百里の遠方から利益に釣られて動く者は大将を失い、五十里を利益に釣られて動くものは軍の半分しか達する事が出来ない』と聞いております」

孫臏は魏軍は斉軍を弱兵だと思って舐めているから、策を使えば簡単に釣り出す事が出来ると見解を述べています。

さらに、孫臏の優秀な所は龐涓を誘い出す為の策を考えてあった事でしょう。

魏軍は斉に向かいますが、斉軍が魏に入った事を知ると、魏軍は斉軍を追いかける形で魏に入りました。

竈の数
孫臏は魏の領内に入ると、10万の竈を造らせますが、翌日には5万に減らし、さらに翌日には3万に減らしました。

龐涓は三日に渡り斉軍を追いかけましたが、竈の数が日に日に減っている事を知ると、多いに喜び次の様に述べています。

龐涓「儂は斉の兵士が臆病な事は知っていたが、我が領内に入って3日で過半数が逃亡した事が分かった」

龐涓は歩兵を同行させず騎兵だけを率いて、斉軍を猛追する事になります。

龐涓は呆気なく孫臏の策に引っ掛かってしまった事になります。

ただし、龐涓を擁護するのであれば、龐涓は紀元前354年の桂陵の戦いの前に、趙の成侯が籠る邯鄲を陥落させています。
邯鄲は難攻不落とも呼ばれる堅城であり、邯鄲を陥落させた龐涓は己の武勇に絶対の自信もあったのでしょう。

孫臏としては、龐涓の性格を見極めても策だった可能性もあります。

孫臏は龐涓の行動を予測しており、決戦の場を馬陵に定めました。

龐涓の最期
孫臏が龐涓との戦いに馬陵を選んだのは、馬陵の道が狭く険阻であり、伏兵を配置するのに丁度良く、魏軍を弩の一斉射撃で壊滅出来ると考えた為です。

ここで孫臏は手の込んだ行いをし大樹を兵士に削らせ「龐涓この樹の下にて死せん」と書かせました。

孫臏の頭の中では龐涓の最期までイメージ出来ていたとも言えます。

孫臏は射撃が得意な弩兵を道の両端に隠して配置し、龐涓を待ち伏せていました。

さらに、孫臏は大樹の下で火が見えたら一斉に射撃する様に命じたわけです。

龐涓は勇猛な武将だったのからなのか、先頭を切って軍を進めたからなのかは不明ですが、大樹の下に到着し火を灯し「龐涓この樹の下にて死せん」の文字を見る事になります。

龐涓は驚きますが、次の瞬間に一万の弩が一斉に射撃され龐涓を狙いました。

魏軍は大混乱に陥り、龐涓も軍が崩壊した事を悟り「遂に豎子の名を成さしむ」の言葉を残す事になります。

龐涓は「こんな策が出来る奴は、この世で孫臏しかいない」と悟ったはずです。

龐涓は敗北を認め自害し、魏軍は多いに斉軍に打ち破られました。

魏軍の総大将である太子申は捕虜となり、馬陵の戦いは斉軍の大勝利となります。
紀元前342年の馬陵の戦いまでは魏は戦国七雄の最強国であり、魏の恵王に至っては天子気取りだった話がありますが、この戦いを境にして凋落が始まります。

魏は翌年には秦の商鞅が率いる軍にも大敗し、魏の公子卬は捕らえれました。

これにより魏は最強国から転落し、時代は戦国時代中期の形である秦斉二強時代に突入します。

竹書紀年の馬陵の戦い
馬陵の戦いは2度あった
最初に述べた様に、竹書紀年には史記とは違った形式での馬陵の戦いが描かれていました。

因みに、竹書紀年だと馬陵の戦いは、2度あった事が記述されています。

竹書紀年によると周の顕王24年(紀元前345年)に、魏が韓を馬陵で破ったとあります。

これが一度目の馬陵の戦いであり、魏が韓を破ったと書かれていました。

それから2年後の周の顕王26年に魏の穣疵なる将軍が鄭の孔夜将軍を梁赫の地で破ったとあります。

竹書紀年では鄭と書かれていますが、鄭の国は紀元前375年に韓の哀侯が滅ぼしており、韓は南鄭に遷都した事もあり、ここでいう鄭は韓の事を指します。

梁赫は韓の国内にある梁と赫であり、魏の穣疵将軍が韓の軍を二度に渡って打ち破ったと見る事が出来るはずです。

しかし、穣疵の戦いはこれだけでは終わらず、斉の田肦と馬陵で戦ったとあります。

これが竹書紀年が示す二度目の馬陵の戦いです。

竹書紀年を見る限りでは、馬陵の戦いでは孫臏、龐涓、田忌は登場せず、代わりに穣疵と田肦が戦った事になっています。
因みに、作家の宮城谷昌光氏は龐涓と穣疵が同一人物だとする可能性が僅かながらですが、残っていると指摘しています。

それによると、穣疵の「穣」は姓ではなく封邑の名であり、「疵」は小さな傷を指す言葉だと言います。

龐涓の「涓」は小さな流れを指す言葉であり、意味が似ている事で龐涓と穣疵が同一人物だと考える事が出来るそうです。

宮城谷昌光氏の説で考えると龐涓は穣に封じられていた事になり、穣は後に秦の領土となり秦の昭王の時代に絶大な力を持った魏冄が封じられた場所でもあります。

それを考えると龐涓と魏冄は無関係に思うかも知れませんが、同じ場所を封邑とした可能性が出て来ます。

馬陵の戦いの場所
竹書紀年を見ると、先に述べた様に馬陵の戦いが二度あった事が分かります。

これに関してですが、最初の魏と韓が戦った一度目の馬陵の戦いと魏と斉が戦った2度目の馬陵の戦いは別の場所で行われたのではないか?とも考えられています。

一般的には馬陵の戦いは魏と斉の戦いであり、魏の東方もしくは斉の西方で行われたと考えるのが普通でしょう。

しかし、一度目の馬陵の戦いは魏と韓の戦いであり、魏と韓が本国から離れ斉に近い馬陵で戦うのはおかしいとも言えるはずです。
それを考えると魏と韓が戦った馬陵の戦いと、魏と斉が戦った馬陵の戦いは別の場所で行われたとも考える事が出来ます。

馬陵の戦いは史記と竹書紀年でズレがあり、謎は大きいと感じています。

因みに、竹書紀年は戦国時代の魏の襄王の墓から出て来た代物です。

魏の襄王の在位期間は紀元前319年から紀元前296年であり、馬陵の戦いから数十年後に即位した人物だと分かります。

それに比べ司馬遷は馬陵の戦いから200年以上経った人物であり、竹書紀年の方が実際の馬陵の戦いに近いのではないかと感じております。

尚、個人的には馬陵の戦いでの孫臏の計略は余りにも見事すぎて、「戦場でこんなに鮮やかに策が決まるものなのか?」とする疑問もあります。

史記の馬陵の戦いは実際にあったとしても、かなり脚色が加えられている様に思いました。

ただし、馬陵の戦いで魏が敗れ、最強国から転落した事は間違ってはいない様に感じます。

#薰嗣[超话]#
嗯立绘细化勾线都随缘了,所以和每章开头日文段的翻译一起发一下……除了第五章都是日译中,可能有些中文看着会不顺眼
前六章都是出自33之手,类似她的随笔。烤,烤在本文是一个写不出什么花的只会搞科研的人(诚恳

「二十歳の春に、私は彼女と出会った。
桜花とともに、月光と寄り添い、彼女の側にたどり着いたんだ。
一年、この一年は私の人生を一変させた。」
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桂陵の戦い
桂陵の戦いは紀元前354年斉と魏の間で起きた戦いです。

斉軍を率いたのは田忌ですが、参謀には孫臏がいました。

魏軍を率いた龐涓と斉の孫臏は、同じ師の元で学んだ話もあり因縁の相手でもあったわけです。

桂陵の戦いの結果で言えば、孫臏の鮮やかな兵法で魏軍を破りました。

桂陵の戦いでの孫臏の策が「囲魏救趙」とも呼ばれ、兵法三十六計の二番目の策として掲載されています。

尚、桂陵の戦いは魏と斉が戦ったわけであり、魏軍の軍制を整えたのは呉起だとされており、孫子と呉子の戦いだと指摘される場合もあります。

ただし、戦いの方は魏軍の疲労が強く呆気なく、斉軍の勝利が決まったと言えるでしょう。

因みに、桂陵の戦いは異説があり、竹書紀年に別の話が存在し、そちらは最後に解説します。

竹書紀年の話では桂陵の戦いでは魏軍と趙軍が戦っており、魏軍と斉軍は戦っていません。

魏と斉が戦ったのは桂陵の戦いではなく、桂陽の戦いとなっています。
趙の救援要請
史記によれば紀元前354年に魏は趙の首都・邯鄲に向かい軍を進めました。

この時の魏軍の帥将が龐涓です。

この時に、趙と斉はさほど友好が深くはなかったようですが、魏軍に攻められた趙の成侯は斉に援軍を要請しています。

斉は魏とは比較的友好な関係を築いていましたが、斉の威王の前で論争が行われました。

宰相の鄒忌は「趙を救うべきではない」とし、段干朋は「趙を救うべき」と逆の意見を述べています。

段干朋は魏が邯鄲を落としても、魏が強大になるだけで斉に利益はないと考え、趙の援軍として兵を出すだけで、魏は兵を引くから斉の利益になると述べています。

斉の威王は段干朋の意見を採用し、趙へ援軍を派遣する事にしました。

戦国策によれば楚の宣王の思惑も入り乱れ、楚は趙への援軍として景舍を派遣しています。

田忌と孫臏
史記によれば斉の威王は孫臏を総大将にしようとしますが、孫臏は「私は刑罰を受けた者であり将軍にはなれません」と答えました。

孫臏は過去に魏で龐涓により足斬りの刑に処され額には入れ墨を入れられた事で、将軍を辞退したわけです。

孫臏が辞退した事で、田忌が将軍となりました。

田忌が桂陵の戦いで将軍になった経緯に関しては、戦国策に別の話があり鄒忌の部下である公孫閈の進言により、田忌が将軍に任命された話もあります。

異説はありますが、史記の記述で考えれば、桂陵の戦いでは総大将に田忌が任命され、孫臏が軍師として参謀にいたという事なのでしょう。

田忌と孫臏が率いる斉軍は、趙を救う為に出発しました。

因みに、斉軍は孫臏の軍事編成により弩が多かったとも言われています。
囲魏救趙
趙を救う為に出発した斉軍ですが、途中まで行くと孫臏が次の様に述べました。

孫臏「もつれた糸を解くには強く引っ張ってはいけません。

闘いを中止させるには自分で攻撃しない事が大事です。

急所を打ち虚を突き形勢が逆転すれば、おのずともつれた糸は解けます」

孫臏は田忌に魏の精鋭は趙攻略に向かっており、魏の大梁には老兵などの弱兵しかいない事を指摘し、魏の大梁に兵を向ける様に進言しました。

田忌と孫臏は魏軍が大梁を救う為に、急いで戻って来ると考え桂陵で待ち構える事にしたわけです。

これが桂陵の戦いです。

尚、斉の威王は趙に向けて軍を進める様に命令したわけですが、孫臏が機転を利かせ作戦を変更したとも言えるでしょう。

この孫臏の作戦が兵法三十六計の二番目の計略となる「囲魏救趙」となります。

囲魏救趙は名前の通り、魏を包囲する事で趙を救う事になるという策です。

桂陵の戦い
斉軍は桂陵で待機しますが、魏軍は趙の邯鄲を落城させた話があり、邯鄲の城に猛攻撃を加えたのでしょう。

邯鄲は落城しますが、戦国策によると楚軍が睢水と濊水の間の地を占拠した話があります。

魏の龐涓は邯鄲は陥落させましたが、かなりの不穏な空気が流れて来たわけです。

魏軍は趙の成侯の降伏を見届けたのかは不明ですが、急いで大梁を救う為に兵を移動させました。

魏の恵王の前期までは戦国七雄の最強国は魏であり、魏兵は中華でも屈指の強さを誇っていた話があります。

しかし、魏は邯鄲攻防戦での疲労があり、さらに急いで軍を還した事で疲労困憊だったのでしょう。

桂陵で待ち構えていた斉の田忌と孫臏の前に敗れ去りました。

史記では魏軍は破れただけとなっていますが、孫臏兵法の記述によれば、斉軍が龐涓を捕虜にした記述があります。

これが真実であれば、魏軍は総大将が捕虜となる様な大敗北を喫した事になるでしょう。

しかし、史記や戦国策、竹書紀年には龐涓が捕らえられた記述はなく、どちらが正しいのかは不明です。

尚、魏は趙の首都邯鄲を落とす事に成功しましたが、趙との友好を回復させようと思ったのか、維持できないと考えたのか落城させた邯鄲は趙に返還しました。
桂陵の戦いは斉と楚に利益があったと考えるべきであり、この戦いから最強国であったはずの魏の転落が始まるわけです。

ただし、孫臏と龐涓の対決は終わっておらず、馬陵の戦いに続く事になります。

馬陵の戦いが孫臏と龐涓の最終決戦となります。

竹書紀年の記述
竹書紀年(今本)によれば、東周の顕王の15年に斉の田期(田忌)が魏がを攻撃し桂陽の戦いで勝利しました。

桂陽の戦いでは、魏軍が大敗した話があります。

ここで注意したいのが、田忌が魏軍を破ったのは「桂陵の戦い」ではなく、「桂陽の戦い」だと言う事です。

後述しますが、この後に桂陵の戦いで魏と趙の戦闘が発生している事から、桂陵の戦いと桂陽の戦いは別だと考える事が出来ます。

魏軍は桂陽の戦いで斉軍に敗れますが、ここで戦いは終結せず宋と衛の公孫倉が斉と連合し、魏の襄陵を包囲しました。

ここで、魏王(魏の恵王)が韓の兵を率いて、襄陵で斉、宋、衛の軍を破ったとあります。

戦いに敗れた斉は楚の景舍を派遣し、魏に講和を求めました。

これでもまだ戦いは終わらず、邯鄲の軍(趙軍)が魏軍を「桂陵」で破ったとあります。

竹書紀年の記述を考えると、桂陵の戦いでは魏軍と趙軍の戦いであり、魏軍と斉軍の戦いではない事が分かります。

史記と竹書紀年では話にズレが生じてしまっている状態です。

史記の孫子呉起列伝では話をシンプルにしてありますが、実際の戦いはもっと複雑だったのかも知れません。


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