(日本向け記事)
この記事を書いているのが、11月26日のお昼です。実は、昨日、素晴らしい音楽ライブを聴きに行き、明るい記事を書きたい心とは裏腹に次のことは、書いとかへんとなって感じです。
さて、11月24付けで、厚生労働省より人口動態の統計の発表がありました。今年の九月分です。二ヶ月前の集計が終わったということですね。さて、私、ちょこちょこと人口動態のことは書いてますが、全く気が抜けない状況と言っていいでしょう。
去年一年間の年間死亡者数が156万8961人で戦後過去最大、しかもその前の年に比べて、12万9105人増加というのが、とんでもない数字です。グラフの写真をアップしてますから、確認してください。
えーと、初心者さんのために解説しますが、いきなり死亡者数百何十万人とか言われて、驚くかも知れませんが、これは、一億二千万人いる島で一年間にどれくらい亡くなられたかということで、百何万人と言うと、そんなもんなんだと思われるかもしれません。これが、老衰ばかりだと、そんなもんなんだで、すませられる話です。しかし、どうも老衰ばかりではない。それに数字が上がりすぎてるということです。
二枚目の写真の右上のグラフをみてみます。青線は、去年の死亡者数を表していますが、先ほども書いた通り、去年の数字というのは、戦後過去最大の上げ幅でとんでもない数字なんです。だから、今年は、去年より大幅に下がって、ようやく例年のペースとなりますが、今年9月、約二ヶ月前の死亡者数は、去年と同等だったということです。
とても人が亡くなっているという状況です。
健康に生きていくことに真面目になることは、何もかっこ悪いことではありません、恥ずかしいことでもありません、むしろ、これは、腰を据えて、健康に取り組む必要があるな、という状況だと思います。
私が意識していることは、食事、睡眠、運動の超基本形。それから、きれいなお水を飲むこと。メンタルで言えば、「そわかの法則」そうじ、笑い、感謝、ですね。
生きていくんだよ。
#超過死亡数
#人口動態
#原因は定かではない
#原因を探求すると厚生労働省を敵にまわしてしまう
#俺はワクチン0回
#俺は生きる
#言っとくけどワクチンについては、第一回目の前から記事書いてきた!
#届かない思い
この記事を書いているのが、11月26日のお昼です。実は、昨日、素晴らしい音楽ライブを聴きに行き、明るい記事を書きたい心とは裏腹に次のことは、書いとかへんとなって感じです。
さて、11月24付けで、厚生労働省より人口動態の統計の発表がありました。今年の九月分です。二ヶ月前の集計が終わったということですね。さて、私、ちょこちょこと人口動態のことは書いてますが、全く気が抜けない状況と言っていいでしょう。
去年一年間の年間死亡者数が156万8961人で戦後過去最大、しかもその前の年に比べて、12万9105人増加というのが、とんでもない数字です。グラフの写真をアップしてますから、確認してください。
えーと、初心者さんのために解説しますが、いきなり死亡者数百何十万人とか言われて、驚くかも知れませんが、これは、一億二千万人いる島で一年間にどれくらい亡くなられたかということで、百何万人と言うと、そんなもんなんだと思われるかもしれません。これが、老衰ばかりだと、そんなもんなんだで、すませられる話です。しかし、どうも老衰ばかりではない。それに数字が上がりすぎてるということです。
二枚目の写真の右上のグラフをみてみます。青線は、去年の死亡者数を表していますが、先ほども書いた通り、去年の数字というのは、戦後過去最大の上げ幅でとんでもない数字なんです。だから、今年は、去年より大幅に下がって、ようやく例年のペースとなりますが、今年9月、約二ヶ月前の死亡者数は、去年と同等だったということです。
とても人が亡くなっているという状況です。
健康に生きていくことに真面目になることは、何もかっこ悪いことではありません、恥ずかしいことでもありません、むしろ、これは、腰を据えて、健康に取り組む必要があるな、という状況だと思います。
私が意識していることは、食事、睡眠、運動の超基本形。それから、きれいなお水を飲むこと。メンタルで言えば、「そわかの法則」そうじ、笑い、感謝、ですね。
生きていくんだよ。
#超過死亡数
#人口動態
#原因は定かではない
#原因を探求すると厚生労働省を敵にまわしてしまう
#俺はワクチン0回
#俺は生きる
#言っとくけどワクチンについては、第一回目の前から記事書いてきた!
#届かない思い
《孙子兵法》
五章:勢篇
孫子は言う。大勢の兵士を率いていても、少数の兵士を率いているように扱えるのは、軍の編成がしっかりしているからである。大勢の兵士で戦っていても、少数の兵士で戦っているかのように扱えるのは、旗印や鳴りものなどがしっかりと整っているからである。全軍の兵士が、敵軍に上手く対応して負けないようにできるのは、正攻法と奇策の使い分けのおかげである。戦いとなって、石を卵にぶつけるかのように簡単に敵を撃破できるのは、虚実の使い分けのおかげである。
戦いとは、正攻法を用いて敵と対峙し、奇策を巡らせて勝つのである。だから、奇策を効果的に用いる者は、天地の動きのように定まることがなく、長江・黄河の流れのように終わりがない。終わってもまた新たに始まるのは太陽と月のようでもあり、四季の季節のようでもある。音には五つの種類しかないが、その五つの音の組み合わせは多様で聴き尽くせない。色は五つの種類しかないが、その五つの色の組み合わせは多様で見尽くせない。味は五つの種類しかないが、その五つの味の組み合わせは多様で味わい尽くせない。
戦い方も正攻法と奇策の二つしかないが、その組み合わせの変化は多様で極め尽くせない。奇策と正攻法が生じることは、丸い輪に端がないようなものである。一体、誰がその道理を極められようか。
激しく速い水の流れが、石を押し流していくのが「勢い」である。鷲や鷹が獲物を襲って、一撃で骨を打ち砕いてしまうのが「節目」である。そして、戦いが上手い者は、「勢い」が激しくなった時、「節目」の短い瞬間を捉えるのである。「勢い」は弓を引き絞るようなもので、「節目」は一瞬で矢を放つようなものである。
混乱は秩序から生まれ、臆病は勇敢さの中から生まれ、弱さは強さの中から生まれる。秩序ある状態か混乱するかは、軍の編成で決まる。臆病になるか勇敢になるかは、戦いの勢いによって決まる。強くなるか弱くなるかは、軍の態勢によって決まる。
そこで、敵を巧みに誘い出す者が相手にわかるように行動すると、敵は必ずこの誘いに乗ってくる。敵に餌を与えれば、敵は必ずこれを取ろうとする。利益を与えて敵を思い通りに動かし、裏をかいて待ち受けるのである。
したがって、優れた兵法家は軍の勢いを求めるが、兵士個々人の力を求めることはない。だから、人材を適材適所に配置した後は、軍の勢いに任せるのである。勢いに任せる指揮官が兵士を戦わせる様子は、木や石を勢いよく転がすようなものである。木や石は、安定している時は静止しているが、不安定であれば動き始め、木や石の形が四角であれば止まり、丸ければ転がっていく。そして、兵士を上手く戦わせている者の勢いが、丸い石を千尋の山から転がり落とすような様を「勢」というのである。
【兵势篇】
孙子曰:凡治众如治寡,分数是也;斗众如斗寡,形名是也;三军之众,可使必受敌而无败者,奇正是也;兵之所加,如以碫投卵者,虚实是也。
凡战者,以正合,以奇胜。故善出奇者,无穷如天地,不竭如江海。终而复始,日月是也。死而更生,四时是也。声不过五,五声之变,不可胜听也;色不过五,五色之变,不可胜观也;味不过五,五味之变,不可胜尝也;战势不过奇正,奇正之变,不可胜穷也。奇正相生,如循环之无端,孰能穷之哉!
激水之疾,至于漂石者,势也;鸷鸟之疾,至于毁折者,节也。故善战者,其势险,其节短。势如扩弩,节如发机。纷纷纭纭,斗乱而不可乱;浑浑沌沌,形圆而不可败。乱生于治,怯生于勇,弱生于强。治乱,数也;勇怯,势也;强弱,形也。
故善动敌者,形之,敌必从之;予之,敌必取之。以利动之,以卒待之。故善战者,求之于势,不责于人故能择人而任势。任势者,其战人也,如转木石。木石之性,安则静,危则动,方则止,圆则行。
故善战人之势,如转圆石于千仞之山者,势也。
五章:勢篇
孫子は言う。大勢の兵士を率いていても、少数の兵士を率いているように扱えるのは、軍の編成がしっかりしているからである。大勢の兵士で戦っていても、少数の兵士で戦っているかのように扱えるのは、旗印や鳴りものなどがしっかりと整っているからである。全軍の兵士が、敵軍に上手く対応して負けないようにできるのは、正攻法と奇策の使い分けのおかげである。戦いとなって、石を卵にぶつけるかのように簡単に敵を撃破できるのは、虚実の使い分けのおかげである。
戦いとは、正攻法を用いて敵と対峙し、奇策を巡らせて勝つのである。だから、奇策を効果的に用いる者は、天地の動きのように定まることがなく、長江・黄河の流れのように終わりがない。終わってもまた新たに始まるのは太陽と月のようでもあり、四季の季節のようでもある。音には五つの種類しかないが、その五つの音の組み合わせは多様で聴き尽くせない。色は五つの種類しかないが、その五つの色の組み合わせは多様で見尽くせない。味は五つの種類しかないが、その五つの味の組み合わせは多様で味わい尽くせない。
戦い方も正攻法と奇策の二つしかないが、その組み合わせの変化は多様で極め尽くせない。奇策と正攻法が生じることは、丸い輪に端がないようなものである。一体、誰がその道理を極められようか。
激しく速い水の流れが、石を押し流していくのが「勢い」である。鷲や鷹が獲物を襲って、一撃で骨を打ち砕いてしまうのが「節目」である。そして、戦いが上手い者は、「勢い」が激しくなった時、「節目」の短い瞬間を捉えるのである。「勢い」は弓を引き絞るようなもので、「節目」は一瞬で矢を放つようなものである。
混乱は秩序から生まれ、臆病は勇敢さの中から生まれ、弱さは強さの中から生まれる。秩序ある状態か混乱するかは、軍の編成で決まる。臆病になるか勇敢になるかは、戦いの勢いによって決まる。強くなるか弱くなるかは、軍の態勢によって決まる。
そこで、敵を巧みに誘い出す者が相手にわかるように行動すると、敵は必ずこの誘いに乗ってくる。敵に餌を与えれば、敵は必ずこれを取ろうとする。利益を与えて敵を思い通りに動かし、裏をかいて待ち受けるのである。
したがって、優れた兵法家は軍の勢いを求めるが、兵士個々人の力を求めることはない。だから、人材を適材適所に配置した後は、軍の勢いに任せるのである。勢いに任せる指揮官が兵士を戦わせる様子は、木や石を勢いよく転がすようなものである。木や石は、安定している時は静止しているが、不安定であれば動き始め、木や石の形が四角であれば止まり、丸ければ転がっていく。そして、兵士を上手く戦わせている者の勢いが、丸い石を千尋の山から転がり落とすような様を「勢」というのである。
【兵势篇】
孙子曰:凡治众如治寡,分数是也;斗众如斗寡,形名是也;三军之众,可使必受敌而无败者,奇正是也;兵之所加,如以碫投卵者,虚实是也。
凡战者,以正合,以奇胜。故善出奇者,无穷如天地,不竭如江海。终而复始,日月是也。死而更生,四时是也。声不过五,五声之变,不可胜听也;色不过五,五色之变,不可胜观也;味不过五,五味之变,不可胜尝也;战势不过奇正,奇正之变,不可胜穷也。奇正相生,如循环之无端,孰能穷之哉!
激水之疾,至于漂石者,势也;鸷鸟之疾,至于毁折者,节也。故善战者,其势险,其节短。势如扩弩,节如发机。纷纷纭纭,斗乱而不可乱;浑浑沌沌,形圆而不可败。乱生于治,怯生于勇,弱生于强。治乱,数也;勇怯,势也;强弱,形也。
故善动敌者,形之,敌必从之;予之,敌必取之。以利动之,以卒待之。故善战者,求之于势,不责于人故能择人而任势。任势者,其战人也,如转木石。木石之性,安则静,危则动,方则止,圆则行。
故善战人之势,如转圆石于千仞之山者,势也。
バナナに金平糖にワインも!? 織田信長のはじめて物語
駿河の今川氏、美濃の斎藤氏、甲斐の武田氏を破竹の勢いで攻略し、天下統一も目前かと思われた1582年(天正10年)、「本能寺の変」によって、志半ばで散った織田信長。戦国時代きっての名将だが、「信長公記」によると、若い頃はうつけと呼ばれ、流行りの茶筅髷(ちゃせんまげ)に萌黄色(もえぎいろ)の紐をまき付けて、袖を抜いて着た浴衣に半袴、縄を巻いた長い柄(つか)の日本刀、大・小をさして、腰には火打ち袋や瓢箪を7つ8つぶら下げて町を練り歩いていたという。そんな軽薄なうつけ者も、見ようによっては好奇心旺盛なパイオニア。フランシスコ・ザビエルが来日してキリスト教の布教活動を始めると、信長はこれを庇護し、南蛮文化も柔軟に取り入れていった。
黒人の家臣を持ったはじめての戦国武将
信長は、1581年(天正9年)2月にイタリア人の宣教師、アレッサンドロ・ヴァリニャーノが奴隷として連れてきた黒人をたいそう気に入って側近にした。
当時、すでに宣教師とともに複数の黒人が来日していたようだが、家臣として召し抱えた戦国武将は信長が最初だろう。
初めて黒人を見た信長は、肌に墨を塗っていると疑い、体を洗わせたところ、さらに黒光りして驚いたという。
信長と弥助
信長はその黒人に「弥助」(やすけ)という名前を与えた。
弥助はモザンビーク出身で、モザンビークには「ヤスフェ」という名前が多い。このことから、もともとの名前がヤスフェで、それを信長が日本風にアレンジしたのではないかと考えられる。
「家忠日記」や信長公記によると、弥助の身長は六尺二分(約182.4cm)で、十人力の剛力だった。信長は兵力としても期待したようで、甲州征伐にも従軍させている。
ルイス・フロイスがイエズス会に送った年報には、「信長は弥助を武士として取り立てた」とあり、いずれは領地を与えて城主にするつもりだったようだ。
奴隷だった弥助にとって、人として、武士として扱ってくれた信長は命の恩人にも等しい存在だったに違いない。あるいは信長も、天涯孤独な弥助ならば、自分を裏切ることはないと思ったのかもしれない。ほんの1年足らずの間に、信長と弥助の間には深い絆が生まれたようだ。
「本能寺の変」での弥助
しかし出会った翌年の6月、信長は本能寺で明智光秀に討たれ、弥助が城主になることは叶わなかった。
本能寺の変当日は弥助も本能寺に宿泊していた。信長が自害すると、弥助は信長の子、織田信忠のいる二条新御所に駆け付け、信忠を守るために長時間戦った末に投降したという。
明智光秀は「この黒人は動物も同じ。日本人でもないし殺すまでもない。伴天連どもに返しておけ」と弥助を南蛮寺に送還。その後の弥助の足取りは分かっていない。
ルイス・フロイスの「日本史」によると、1584年(天正12年)に長崎で起きた「沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)」で活躍した黒人がいたということから、これが弥助だったのではとも考えられている。
地球が丸いことを理解したはじめての日本人
イエズス会の宣教師が信長に献上した品物の中に地球儀があった。信長は、地球が球体であることを説明されると、「理に適っている」とすぐに理解したという。
当時の日本人は、地面は方形だと考えていた。江戸時代に入ってさえ、朱子学者の林羅山が「万物を観るに、皆上下あり。上下なしと言うが如きは、これ理を知らざるなり」と、地球球体説を主張するイエズス会のキリシタンを論破したというから、信長は非常に柔軟で理解力があったと言えるだろう。
織田信長がはじめて食べた? 南蛮食品
宣教師は様々な南蛮渡来の食品を信長に献上した。
厳密に考えれば、南蛮貿易の拠点となる港があった九州の諸大名の方が、先に食したのではないかとも思えるが、歴史はロマン。日本人で初めて信長が最初に食したと言われている物を紹介しよう。
バナナと信長
1569年(永禄12年)にルイス・フロイスが信長に初めて謁見した際、バナナを献上したと言われている。食したかどうかの記録はない。
金平糖(コンペイトウ)と信長
金平糖も、同じくルイス・フロイスによって献上された。透明なフラスコに入った美しい砂糖菓子を見て、信長はたいそう喜んだという。
宣教師達はカステラや有平糖(ありへいとう)、ボーロなども日本に持ち込んだ。これら南蛮菓子の甘い誘惑は、布教活動の戦略のひとつだったようだ。
ワインと信長
宣教師が信長にワインを献上したことを記した文献も無ければ、信長がワインを飲んだことを記した文献もないが、日本人で最初にワインを飲んだのは信長ではないかと言われている。
ワインはキリストの血液。宣教師達は当然日本に持ち込んだはずだし、新しい物好きの信長が飲まないわけがないという理屈だ。
1588年(天正16年)に豊臣秀吉がワインを飲んだという記録は残っている。赤ワインはポルトガル語で「ヴィーニョ・ティント」と言い、当時、日本では「珍陀酒(ちんたしゅ)」と呼ばれていた。
駿河の今川氏、美濃の斎藤氏、甲斐の武田氏を破竹の勢いで攻略し、天下統一も目前かと思われた1582年(天正10年)、「本能寺の変」によって、志半ばで散った織田信長。戦国時代きっての名将だが、「信長公記」によると、若い頃はうつけと呼ばれ、流行りの茶筅髷(ちゃせんまげ)に萌黄色(もえぎいろ)の紐をまき付けて、袖を抜いて着た浴衣に半袴、縄を巻いた長い柄(つか)の日本刀、大・小をさして、腰には火打ち袋や瓢箪を7つ8つぶら下げて町を練り歩いていたという。そんな軽薄なうつけ者も、見ようによっては好奇心旺盛なパイオニア。フランシスコ・ザビエルが来日してキリスト教の布教活動を始めると、信長はこれを庇護し、南蛮文化も柔軟に取り入れていった。
黒人の家臣を持ったはじめての戦国武将
信長は、1581年(天正9年)2月にイタリア人の宣教師、アレッサンドロ・ヴァリニャーノが奴隷として連れてきた黒人をたいそう気に入って側近にした。
当時、すでに宣教師とともに複数の黒人が来日していたようだが、家臣として召し抱えた戦国武将は信長が最初だろう。
初めて黒人を見た信長は、肌に墨を塗っていると疑い、体を洗わせたところ、さらに黒光りして驚いたという。
信長と弥助
信長はその黒人に「弥助」(やすけ)という名前を与えた。
弥助はモザンビーク出身で、モザンビークには「ヤスフェ」という名前が多い。このことから、もともとの名前がヤスフェで、それを信長が日本風にアレンジしたのではないかと考えられる。
「家忠日記」や信長公記によると、弥助の身長は六尺二分(約182.4cm)で、十人力の剛力だった。信長は兵力としても期待したようで、甲州征伐にも従軍させている。
ルイス・フロイスがイエズス会に送った年報には、「信長は弥助を武士として取り立てた」とあり、いずれは領地を与えて城主にするつもりだったようだ。
奴隷だった弥助にとって、人として、武士として扱ってくれた信長は命の恩人にも等しい存在だったに違いない。あるいは信長も、天涯孤独な弥助ならば、自分を裏切ることはないと思ったのかもしれない。ほんの1年足らずの間に、信長と弥助の間には深い絆が生まれたようだ。
「本能寺の変」での弥助
しかし出会った翌年の6月、信長は本能寺で明智光秀に討たれ、弥助が城主になることは叶わなかった。
本能寺の変当日は弥助も本能寺に宿泊していた。信長が自害すると、弥助は信長の子、織田信忠のいる二条新御所に駆け付け、信忠を守るために長時間戦った末に投降したという。
明智光秀は「この黒人は動物も同じ。日本人でもないし殺すまでもない。伴天連どもに返しておけ」と弥助を南蛮寺に送還。その後の弥助の足取りは分かっていない。
ルイス・フロイスの「日本史」によると、1584年(天正12年)に長崎で起きた「沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)」で活躍した黒人がいたということから、これが弥助だったのではとも考えられている。
地球が丸いことを理解したはじめての日本人
イエズス会の宣教師が信長に献上した品物の中に地球儀があった。信長は、地球が球体であることを説明されると、「理に適っている」とすぐに理解したという。
当時の日本人は、地面は方形だと考えていた。江戸時代に入ってさえ、朱子学者の林羅山が「万物を観るに、皆上下あり。上下なしと言うが如きは、これ理を知らざるなり」と、地球球体説を主張するイエズス会のキリシタンを論破したというから、信長は非常に柔軟で理解力があったと言えるだろう。
織田信長がはじめて食べた? 南蛮食品
宣教師は様々な南蛮渡来の食品を信長に献上した。
厳密に考えれば、南蛮貿易の拠点となる港があった九州の諸大名の方が、先に食したのではないかとも思えるが、歴史はロマン。日本人で初めて信長が最初に食したと言われている物を紹介しよう。
バナナと信長
1569年(永禄12年)にルイス・フロイスが信長に初めて謁見した際、バナナを献上したと言われている。食したかどうかの記録はない。
金平糖(コンペイトウ)と信長
金平糖も、同じくルイス・フロイスによって献上された。透明なフラスコに入った美しい砂糖菓子を見て、信長はたいそう喜んだという。
宣教師達はカステラや有平糖(ありへいとう)、ボーロなども日本に持ち込んだ。これら南蛮菓子の甘い誘惑は、布教活動の戦略のひとつだったようだ。
ワインと信長
宣教師が信長にワインを献上したことを記した文献も無ければ、信長がワインを飲んだことを記した文献もないが、日本人で最初にワインを飲んだのは信長ではないかと言われている。
ワインはキリストの血液。宣教師達は当然日本に持ち込んだはずだし、新しい物好きの信長が飲まないわけがないという理屈だ。
1588年(天正16年)に豊臣秀吉がワインを飲んだという記録は残っている。赤ワインはポルトガル語で「ヴィーニョ・ティント」と言い、当時、日本では「珍陀酒(ちんたしゅ)」と呼ばれていた。
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