中国古代の女性作家~李清照②
李清照は北宋の末期から南宋の初期に生きていました。文人の家に生まれ、天真爛漫な少女時代をすごしました。そして、素敵な知識人の男性、趙明誠と結婚して、文化財の収集という共通の趣味を持ち、幸せな結婚生活を送っていました。
しかし、李清照にとって、このような幸せな人生は44歳まででした。その後の人生は、国の動乱に翻弄され、波乱万丈なものになりました。それに影響され、清照の作風もガラッ変わりました。
1127年、清照が44歳のとき、中国では「靖康の乱」が起き、北宋の北部にある少数民族の国、金の軍隊が宋の首都を攻め落としました。ちょうどその年に、李清照と趙明誠夫妻の家にも大きな出来事がありました。趙の母親が南京で亡くなりました。昔、中国の官僚は、親が亡くなると、3年間休みをとって、喪に服くす慣わしがありました。清照と趙明誠夫妻は、このため南京に行くことになりました。その時点では、北宋の首都だった河南省の開封はすでに陥落し、彼らの実家、山東省を含む北方地区はとても危険な状態になっていました。そこで、李清照は、夫婦二人が長年に渡って集めたたくさんの文化財を青州の実家から一人で南京に運ぼうとしていました。しかし、クーデターが発生し、運送する予定だった所蔵品は焼けてしまいました。清照は命がけでごく少数の珍しい文化財を守り、やっとのことで南京にたどり着きました。都を南方にある杭州に移し、設立されたばかり南宋政権は、人材を急いで求めていました。清照の夫、趙明誠は、南京を含む周辺地域の長官に任命されました。これでようやくほっと一息と思われるかもしれません。ところが、まだ思いもよらない運命が清照を待っているのです。
夫の趙明誠が南京とその周辺地域を管理する長官になって、一年あまり経った時、南京では軍の将校による叛乱が起こりました。偶然ですが、その時の趙明誠はすでに、別の場所の地方長官になる人事異動の辞令をもらったばかりです。趙明誠は叛乱に対して対策を講じるどころか、他の2人の地元政府の高官と一緒に、お城から逃げてしまいました。幸い、趙明誠の部下が、対策を講じましたので、大きな災いにならなくて済みました。何故、趙明誠が逃げ出したのか、その理由は、今の私たちには分かりませんが、恐らく、自分がもう長官ではない。後任はまだ来ていないけど、自分の任期中の使命をもう果たしたと思ったからではないでしょうか?李清照は夫のこの卑怯なやり方を知って、激怒しました。その翌年に書いた有名な詩、『絶句 烏江』は、金との争いの中で、どんどん南方に逃げ、虚構の平和に酔いしれる宋の軍隊を風刺する詩ですが、その詩を書いた時間や、背景などを考えると、夫、趙明誠がお城を逃げた卑怯者の行為を同時に風刺したと言われます。
絶句 烏江
生当作人傑,死亦為鬼雄。至今思項羽,不肯過江東。
(日本語訳)
絶句 烏江
生きては 當に 人傑と 作(な)るべく,
死しては 亦 鬼雄と 爲(な)る。
今に至りて 項羽を思ふに,
江東に 過(よぎ)るを 肯(がへん)ぜざるを。
人は生きる限りは、民衆からぬきんでて優れた人物といわれるようになるべきである。死んでも、殉国の英雄と讃えられるようになるべきである。今になっても項羽を思い出す。項羽が烏江を渡って逃げようとしなかったことを。
項羽は、烏江を渡って逃げることに同意しなかった、と言うことを思い出し、英雄として立派だなぁ、つまり、夫のあなたは、さっさと逃げて、かっこ悪いと言いたい訳でしょう。趙明誠は恥ずかしく思い、憂鬱になって、新しい場所に赴任する途中に亡くなりました。
夫に死なれた李清照はその後再婚しましたが、その男性が財産目当てだということを知り、結婚して100日足らずで離婚しました。そのつらい人生を表現した後期の代表的な詞をご紹介します。
《声声慢·寻寻觅觅》
寻寻觅觅,冷冷清清,凄凄惨惨戚戚。
乍暖还寒时候,最难将息。
三杯两盏淡酒,怎敌他、晚来风急!
雁过也,正伤心,却是旧时相识。
满地黄花堆积,憔悴损,如今有谁堪摘?
守著窗儿,独自怎生得黑!
梧桐更兼细雨,到黄昏,点点滴滴。
这次第,怎一个愁字了得!
(日本語訳)
尋ね尋ね、探して探し求めて。物寂しく、ひっそりしている。痛ましく、悲しい。
暖かくなったと思ったらまた寒くなるころ、心を休めるのが一番難しい時期。二、三杯の粗末な酒で、明け方の風がきつくなってくるのに耐えられるかしら。カリが通り過ぎた。秋の季節が終わろうとしている。本当に心が傷む。カリは昔からの顔なじみなのに。
満面の菊の花がうずたかく茂っている。それにひきかえ、わたしはやつれ果てて、今、誰が菊をまた私に摘んでくれるのか、もう誰も見向きはしないだろう。窓辺にじっと寄り添って、愛しい人の帰りを待ち続けている。窓辺に寄り添い、じっと眺めている。一人寂しく、どうして日が暮れるまで過ごすことができるのか。
アオギリやキリに、更にその上、こぬか雨が降りはじめた。黄昏になると、ポツポツ、パラパラと。
この光景は、どうして「愁」の一字だけで表現することができるだろうか。
「尋尋覓覓」「冷冷清清」「凄凄慘慘戚戚」、文字を繰り返した形で、さびしい気持ちを表現したツーの冒頭にあるこの16文字は、リズム感がよく、後世に高く評価されています。また、李清照の作品には比較的、酒はよく出てきます。彼女の人生を振り返れば、お酒でも飲まないとやっていけなかったんでしょう。
李清照は非常に才気あふれる素敵な女性です。時代と共に人生激変を体験し、逞しく生きていました。個人生活は前半幸せそうに見えるんですけれど、一生、子宝に恵まれなかったこともあって、女性としては、悔いのある暮らしを送っていたのではないかと思います。そのため、いつも敏感であり、楽しかったり、悲しかったりいろいろな気分を味わってツーにまとめていました。どの人にとっても人生って波乱万丈で楽しいことばかりではないと思いますが、彼女は文章に表現すると言う才能があった訳ですから、救われるかなと思います。(文章:ZHL、高橋)
李清照は北宋の末期から南宋の初期に生きていました。文人の家に生まれ、天真爛漫な少女時代をすごしました。そして、素敵な知識人の男性、趙明誠と結婚して、文化財の収集という共通の趣味を持ち、幸せな結婚生活を送っていました。
しかし、李清照にとって、このような幸せな人生は44歳まででした。その後の人生は、国の動乱に翻弄され、波乱万丈なものになりました。それに影響され、清照の作風もガラッ変わりました。
1127年、清照が44歳のとき、中国では「靖康の乱」が起き、北宋の北部にある少数民族の国、金の軍隊が宋の首都を攻め落としました。ちょうどその年に、李清照と趙明誠夫妻の家にも大きな出来事がありました。趙の母親が南京で亡くなりました。昔、中国の官僚は、親が亡くなると、3年間休みをとって、喪に服くす慣わしがありました。清照と趙明誠夫妻は、このため南京に行くことになりました。その時点では、北宋の首都だった河南省の開封はすでに陥落し、彼らの実家、山東省を含む北方地区はとても危険な状態になっていました。そこで、李清照は、夫婦二人が長年に渡って集めたたくさんの文化財を青州の実家から一人で南京に運ぼうとしていました。しかし、クーデターが発生し、運送する予定だった所蔵品は焼けてしまいました。清照は命がけでごく少数の珍しい文化財を守り、やっとのことで南京にたどり着きました。都を南方にある杭州に移し、設立されたばかり南宋政権は、人材を急いで求めていました。清照の夫、趙明誠は、南京を含む周辺地域の長官に任命されました。これでようやくほっと一息と思われるかもしれません。ところが、まだ思いもよらない運命が清照を待っているのです。
夫の趙明誠が南京とその周辺地域を管理する長官になって、一年あまり経った時、南京では軍の将校による叛乱が起こりました。偶然ですが、その時の趙明誠はすでに、別の場所の地方長官になる人事異動の辞令をもらったばかりです。趙明誠は叛乱に対して対策を講じるどころか、他の2人の地元政府の高官と一緒に、お城から逃げてしまいました。幸い、趙明誠の部下が、対策を講じましたので、大きな災いにならなくて済みました。何故、趙明誠が逃げ出したのか、その理由は、今の私たちには分かりませんが、恐らく、自分がもう長官ではない。後任はまだ来ていないけど、自分の任期中の使命をもう果たしたと思ったからではないでしょうか?李清照は夫のこの卑怯なやり方を知って、激怒しました。その翌年に書いた有名な詩、『絶句 烏江』は、金との争いの中で、どんどん南方に逃げ、虚構の平和に酔いしれる宋の軍隊を風刺する詩ですが、その詩を書いた時間や、背景などを考えると、夫、趙明誠がお城を逃げた卑怯者の行為を同時に風刺したと言われます。
絶句 烏江
生当作人傑,死亦為鬼雄。至今思項羽,不肯過江東。
(日本語訳)
絶句 烏江
生きては 當に 人傑と 作(な)るべく,
死しては 亦 鬼雄と 爲(な)る。
今に至りて 項羽を思ふに,
江東に 過(よぎ)るを 肯(がへん)ぜざるを。
人は生きる限りは、民衆からぬきんでて優れた人物といわれるようになるべきである。死んでも、殉国の英雄と讃えられるようになるべきである。今になっても項羽を思い出す。項羽が烏江を渡って逃げようとしなかったことを。
項羽は、烏江を渡って逃げることに同意しなかった、と言うことを思い出し、英雄として立派だなぁ、つまり、夫のあなたは、さっさと逃げて、かっこ悪いと言いたい訳でしょう。趙明誠は恥ずかしく思い、憂鬱になって、新しい場所に赴任する途中に亡くなりました。
夫に死なれた李清照はその後再婚しましたが、その男性が財産目当てだということを知り、結婚して100日足らずで離婚しました。そのつらい人生を表現した後期の代表的な詞をご紹介します。
《声声慢·寻寻觅觅》
寻寻觅觅,冷冷清清,凄凄惨惨戚戚。
乍暖还寒时候,最难将息。
三杯两盏淡酒,怎敌他、晚来风急!
雁过也,正伤心,却是旧时相识。
满地黄花堆积,憔悴损,如今有谁堪摘?
守著窗儿,独自怎生得黑!
梧桐更兼细雨,到黄昏,点点滴滴。
这次第,怎一个愁字了得!
(日本語訳)
尋ね尋ね、探して探し求めて。物寂しく、ひっそりしている。痛ましく、悲しい。
暖かくなったと思ったらまた寒くなるころ、心を休めるのが一番難しい時期。二、三杯の粗末な酒で、明け方の風がきつくなってくるのに耐えられるかしら。カリが通り過ぎた。秋の季節が終わろうとしている。本当に心が傷む。カリは昔からの顔なじみなのに。
満面の菊の花がうずたかく茂っている。それにひきかえ、わたしはやつれ果てて、今、誰が菊をまた私に摘んでくれるのか、もう誰も見向きはしないだろう。窓辺にじっと寄り添って、愛しい人の帰りを待ち続けている。窓辺に寄り添い、じっと眺めている。一人寂しく、どうして日が暮れるまで過ごすことができるのか。
アオギリやキリに、更にその上、こぬか雨が降りはじめた。黄昏になると、ポツポツ、パラパラと。
この光景は、どうして「愁」の一字だけで表現することができるだろうか。
「尋尋覓覓」「冷冷清清」「凄凄慘慘戚戚」、文字を繰り返した形で、さびしい気持ちを表現したツーの冒頭にあるこの16文字は、リズム感がよく、後世に高く評価されています。また、李清照の作品には比較的、酒はよく出てきます。彼女の人生を振り返れば、お酒でも飲まないとやっていけなかったんでしょう。
李清照は非常に才気あふれる素敵な女性です。時代と共に人生激変を体験し、逞しく生きていました。個人生活は前半幸せそうに見えるんですけれど、一生、子宝に恵まれなかったこともあって、女性としては、悔いのある暮らしを送っていたのではないかと思います。そのため、いつも敏感であり、楽しかったり、悲しかったりいろいろな気分を味わってツーにまとめていました。どの人にとっても人生って波乱万丈で楽しいことばかりではないと思いますが、彼女は文章に表現すると言う才能があった訳ですから、救われるかなと思います。(文章:ZHL、高橋)
秋田で記録的大雨 あすにかけ北日本と東日本で大気不安定続く
2023年9月19日 19時32分
湿った空気の影響で、北日本を中心に大気の状態が非常に不安定になっていて、秋田県では午後3時までの1時間に、およそ110ミリの猛烈な雨が降ったとみられます。
北日本と東日本では、20日にかけて大気の不安定な状態が続く見込みで、土砂災害や低い土地の浸水、川の氾濫に厳重に警戒してください。
気象庁によりますと、高気圧の縁を回って流れ込む暖かく湿った空気と気温の上昇の影響で、北日本を中心に大気の状態が非常に不安定になっていて、雨雲が発達しています。
秋田市西部付近では、レーダーによる解析で、午後3時までの1時間におよそ110ミリの猛烈な雨が降ったとみられ、「記録的短時間大雨情報」が発表されました。
その後も、秋田県には発達した雨雲がかかり続け、
▽午後5時までの1時間には、秋田県が秋田市に設置した雨量計で、
▽午後6時までの1時間には、国土交通省が由利本荘市に設置した雨量計で、
いずれも59ミリの非常に激しい雨を観測しました。
これまでに降った雨で、秋田県では土砂災害の危険性が非常に高まり、土砂災害警戒情報が発表されている地域があります。
秋田県の大館能代空港では、午後2時前までの3時間に98ミリの雨が降り、気象庁が2003年に統計を取り始めてから最も多くなりました。
北日本と東日本では、20日にかけて大気の不安定な状態が続く見込みで、局地的に雷を伴って激しい雨が降り、東北では1時間に50ミリの非常に激しい雨が降るおそれがあります。
20日夕方までの24時間に降る雨の量は、いずれも多いところで、
▽北海道と東北で80ミリ
▽北陸で70ミリ
▽関東甲信越で60ミリ
と予想されています。
これまでに降った雨で地盤が緩んでいるところもあり、気象庁は、土砂災害や低い土地の浸水、川の氾濫に厳重に警戒するとともに、落雷や竜巻などの激しい突風、ひょうに十分注意するよう呼びかけています。
急に冷たい風が吹くなど、発達した積乱雲が近づく兆しがある場合は、頑丈な建物の中に移動するなど、安全を確保してください。
大雨の影響で秋田市八橋の住宅地では、道路やアパートの駐車場などが大人のひざ下の高さまで冠水していました。その周辺では、警察官が救助用のボートを持って救助が必要な人がいないか探している姿がみられました。
大雨の影響で、秋田市広面地区の飲食店では、一時、店内に雨水が入り床全体が水につかったということです。
店主が午後3時ごろに撮影した動画には、雨水が玄関のドアを超えて店内に入り、床のフローリングがめくれあがっている様子が記録されていました。
店主によりますと、水が入らないようドアの外に土のうを積んだものの、水の勢いで押し流されたということです。
およそ1時間後には、水は引きましたが、店内は床全体が水につかり、フローリングや壁紙を交換しなければならない状態だということです。
店主の40代の男性は「ことし7月の大雨のときには、店内に水が入ることはなかったので、まさか、きょうこんな被害が出るとは思いませんでした」と話していました。
東北電力ネットワークによりますと、秋田県内では午後3時35分時点で、大雨の影響とみられる停電がおよそ3400戸で発生しています。
停電しているのは、
▽秋田市でおよそ3300戸
▽鹿角市でおよそ100戸
▽大館市で10戸未満だということです。
2023年9月19日 19時32分
湿った空気の影響で、北日本を中心に大気の状態が非常に不安定になっていて、秋田県では午後3時までの1時間に、およそ110ミリの猛烈な雨が降ったとみられます。
北日本と東日本では、20日にかけて大気の不安定な状態が続く見込みで、土砂災害や低い土地の浸水、川の氾濫に厳重に警戒してください。
気象庁によりますと、高気圧の縁を回って流れ込む暖かく湿った空気と気温の上昇の影響で、北日本を中心に大気の状態が非常に不安定になっていて、雨雲が発達しています。
秋田市西部付近では、レーダーによる解析で、午後3時までの1時間におよそ110ミリの猛烈な雨が降ったとみられ、「記録的短時間大雨情報」が発表されました。
その後も、秋田県には発達した雨雲がかかり続け、
▽午後5時までの1時間には、秋田県が秋田市に設置した雨量計で、
▽午後6時までの1時間には、国土交通省が由利本荘市に設置した雨量計で、
いずれも59ミリの非常に激しい雨を観測しました。
これまでに降った雨で、秋田県では土砂災害の危険性が非常に高まり、土砂災害警戒情報が発表されている地域があります。
秋田県の大館能代空港では、午後2時前までの3時間に98ミリの雨が降り、気象庁が2003年に統計を取り始めてから最も多くなりました。
北日本と東日本では、20日にかけて大気の不安定な状態が続く見込みで、局地的に雷を伴って激しい雨が降り、東北では1時間に50ミリの非常に激しい雨が降るおそれがあります。
20日夕方までの24時間に降る雨の量は、いずれも多いところで、
▽北海道と東北で80ミリ
▽北陸で70ミリ
▽関東甲信越で60ミリ
と予想されています。
これまでに降った雨で地盤が緩んでいるところもあり、気象庁は、土砂災害や低い土地の浸水、川の氾濫に厳重に警戒するとともに、落雷や竜巻などの激しい突風、ひょうに十分注意するよう呼びかけています。
急に冷たい風が吹くなど、発達した積乱雲が近づく兆しがある場合は、頑丈な建物の中に移動するなど、安全を確保してください。
大雨の影響で秋田市八橋の住宅地では、道路やアパートの駐車場などが大人のひざ下の高さまで冠水していました。その周辺では、警察官が救助用のボートを持って救助が必要な人がいないか探している姿がみられました。
大雨の影響で、秋田市広面地区の飲食店では、一時、店内に雨水が入り床全体が水につかったということです。
店主が午後3時ごろに撮影した動画には、雨水が玄関のドアを超えて店内に入り、床のフローリングがめくれあがっている様子が記録されていました。
店主によりますと、水が入らないようドアの外に土のうを積んだものの、水の勢いで押し流されたということです。
およそ1時間後には、水は引きましたが、店内は床全体が水につかり、フローリングや壁紙を交換しなければならない状態だということです。
店主の40代の男性は「ことし7月の大雨のときには、店内に水が入ることはなかったので、まさか、きょうこんな被害が出るとは思いませんでした」と話していました。
東北電力ネットワークによりますと、秋田県内では午後3時35分時点で、大雨の影響とみられる停電がおよそ3400戸で発生しています。
停電しているのは、
▽秋田市でおよそ3300戸
▽鹿角市でおよそ100戸
▽大館市で10戸未満だということです。
牡丹燈籠とは?
『四谷怪談』『皿屋敷』、そして『牡丹燈籠(ぼたんどうろう)』と言えば日本の3大怪談話として有名です。幽霊との恋路を描いた『牡丹燈籠』の悲しくもロマンチックなストーリーは題材として人気で、今日に至るまで落語から映画やドラマまで幅広く作品化されています。
本話の主人公の「お露(つゆ)」の名も広く知られており、『四谷怪談』の「お岩さん」、『皿屋敷』の「お菊さん」と並び、日本三大幽霊と呼ばれたりします。『牡丹灯籠』の話は詳しく知らないけれど、「お露さん」の名前は知っているという方も多いのではないでしょうか。
実は『牡丹燈籠』は、古代中国の明で作られた小説集『剪灯(せんとう)新話』の中に収録されている「牡丹燈記」という話が元となっています。明治時代に活躍した落語家・三遊亭圓朝が、『剪灯新話』を江戸時代に翻案した『御伽婢子(おとぎぼうこ)』の実話や怪談から着想を得て、『牡丹燈籠』を創作しました。
また、映像化されたりして私たちがよく知る『牡丹燈籠』のお話は、『牡丹燈籠』本編の前半部分のみを切り取って再編した短編なのです。『牡丹燈籠』本編は幽霊話を交えつつ、人間の敵討ちが複雑に絡み合う長編作品となっています。
牡丹燈籠のあらすじ
その昔、根津の清水谷に浪人の萩原新三郎という内気な男がいました。ある日、新三郎は知り合いの山本志丈に誘われて亀戸の臥龍梅を見に出掛けます。その帰りに山本志丈の知り合いである飯島平左衛門の別荘に立ち寄ることに。
新三郎はそこで「お露」という美人なお嬢様と女中の「お米さん」に出会い、新三郎と「お露」は恋仲になるのでした。そして新三郎の帰り際に「お露」は「また来てくださらなければ私は死んでしまいますよ」と言い残します。
帰ってきた新三郎は来る日も来る日も「お露」に会いたいと思っていましたが、内気なので1人で会いに行く勇気がありません。
数ヶ月経ったある日、新三郎の元にやっと山本志丈が訪ねてきます。そして「お露」が恋焦がれるあまりに死んでしまったこと、「お米」も看病疲れで後を追うように死んでしまったことを伝えたのです。
それからというものの、新三郎は「お露」のために念仏を唱えるだけの毎日を送っていました。盆の十三日の夜、新三郎がいつものように「お露」に思いを馳せていると、カランコロンカランコロンと下駄の音が聞えてきます。
音のする方を見てみると、牡丹芍薬(しゃくやく)の灯籠を携えた「お米」と「お露」が歩いているではありませんか。3人は再開を喜び、次の晩もその次の晩も新三郎と「お露」の逢瀬は続きました。
ある夜に新三郎の元で働く伴蔵という男が、毎夜、新三郎の元に女が通っていることに気づきます。不審に思った伴蔵が新三郎の家を覗くと、骨と皮ばかりで腰から下が無い女が、新三郎の首元にかじりついていたのです。
驚いた伴蔵は、新三郎の相談相手である占い師の白翁堂勇斎(はくおうどうゆうさい)に相談に行きました。白翁堂勇斎は新三郎の家に行き、「二十日を待たずして必ず死ぬ相が出ている」と宣告します。
「お露」が幽霊だとやっと認識した新三郎は、お寺の和尚から幽霊除けのお札と死霊除けの海音如来(かいおんにょらい)像を借りて帰りました。そして新三郎は家の周りにお札を貼り付け、海音如来像を身に着けてお経を読み上げるのでした。
その夜いつものように新三郎の家に「お露」がやって来ますが、お札があって家に入れません。困った「お露」は伴蔵の家に赴いて、お札を剥がすように頼みます。
はじめは幽霊を怖がっていた伴蔵とその妻のお峰でしたが、「お露」からお金を受け取ることを条件に、お札を剥がすことを約束します。次の日、伴蔵とお峰は新三郎の隙を見て、海音如来像を粘土で出来た不動像にすり替えてしまうのです。
その晩に「お露」がお金を持ってやって来ると、伴蔵は新三郎の家のお札を全て剥がしてしまいます。そしてお札が無くなると「お露」は、喜んで新三郎の家に入って行くのでした。
夜が明ける頃、幽霊の手引きをした後ろめたい思いがあった伴蔵は、白翁堂勇斎とお峰を連れて新三郎の家の様子を見に行きます。戸を叩いても返事のない新三郎の家におそるおそる入ると、中では新三郎が物凄い形相で虚空を掴みながら息絶えていたのです。そしてその首には髑髏がかじりついていたのでした。日本三大怪談に数えられる牡丹燈籠
明治に作られた『牡丹燈籠』は、日本三大怪談では最も新しい怪談話です。『四谷怪談』と『皿屋敷』は江戸時代に落語怪談として整えられましたが、それ以前にも各地で怪談として語られてきました。
『四谷怪談』の「お岩さん」、『皿屋敷』の「お菊さん」、そして『牡丹燈籠』の「お露さん」と日本三大怪談に名を連ねる女性の幽霊たち。
『四谷怪談』の「お岩さん」は夫に裏切られた末に怨霊と化し、『皿屋敷』の「お菊さん」は無念のうちに死んで幽霊に。そして恋焦がれるあまり死んでしまい、死してなお愛する男を求めた『牡丹燈籠』の「お露さん」。女性の情念は時に恐ろしいものになると言えますね。
『四谷怪談』『皿屋敷』、そして『牡丹燈籠(ぼたんどうろう)』と言えば日本の3大怪談話として有名です。幽霊との恋路を描いた『牡丹燈籠』の悲しくもロマンチックなストーリーは題材として人気で、今日に至るまで落語から映画やドラマまで幅広く作品化されています。
本話の主人公の「お露(つゆ)」の名も広く知られており、『四谷怪談』の「お岩さん」、『皿屋敷』の「お菊さん」と並び、日本三大幽霊と呼ばれたりします。『牡丹灯籠』の話は詳しく知らないけれど、「お露さん」の名前は知っているという方も多いのではないでしょうか。
実は『牡丹燈籠』は、古代中国の明で作られた小説集『剪灯(せんとう)新話』の中に収録されている「牡丹燈記」という話が元となっています。明治時代に活躍した落語家・三遊亭圓朝が、『剪灯新話』を江戸時代に翻案した『御伽婢子(おとぎぼうこ)』の実話や怪談から着想を得て、『牡丹燈籠』を創作しました。
また、映像化されたりして私たちがよく知る『牡丹燈籠』のお話は、『牡丹燈籠』本編の前半部分のみを切り取って再編した短編なのです。『牡丹燈籠』本編は幽霊話を交えつつ、人間の敵討ちが複雑に絡み合う長編作品となっています。
牡丹燈籠のあらすじ
その昔、根津の清水谷に浪人の萩原新三郎という内気な男がいました。ある日、新三郎は知り合いの山本志丈に誘われて亀戸の臥龍梅を見に出掛けます。その帰りに山本志丈の知り合いである飯島平左衛門の別荘に立ち寄ることに。
新三郎はそこで「お露」という美人なお嬢様と女中の「お米さん」に出会い、新三郎と「お露」は恋仲になるのでした。そして新三郎の帰り際に「お露」は「また来てくださらなければ私は死んでしまいますよ」と言い残します。
帰ってきた新三郎は来る日も来る日も「お露」に会いたいと思っていましたが、内気なので1人で会いに行く勇気がありません。
数ヶ月経ったある日、新三郎の元にやっと山本志丈が訪ねてきます。そして「お露」が恋焦がれるあまりに死んでしまったこと、「お米」も看病疲れで後を追うように死んでしまったことを伝えたのです。
それからというものの、新三郎は「お露」のために念仏を唱えるだけの毎日を送っていました。盆の十三日の夜、新三郎がいつものように「お露」に思いを馳せていると、カランコロンカランコロンと下駄の音が聞えてきます。
音のする方を見てみると、牡丹芍薬(しゃくやく)の灯籠を携えた「お米」と「お露」が歩いているではありませんか。3人は再開を喜び、次の晩もその次の晩も新三郎と「お露」の逢瀬は続きました。
ある夜に新三郎の元で働く伴蔵という男が、毎夜、新三郎の元に女が通っていることに気づきます。不審に思った伴蔵が新三郎の家を覗くと、骨と皮ばかりで腰から下が無い女が、新三郎の首元にかじりついていたのです。
驚いた伴蔵は、新三郎の相談相手である占い師の白翁堂勇斎(はくおうどうゆうさい)に相談に行きました。白翁堂勇斎は新三郎の家に行き、「二十日を待たずして必ず死ぬ相が出ている」と宣告します。
「お露」が幽霊だとやっと認識した新三郎は、お寺の和尚から幽霊除けのお札と死霊除けの海音如来(かいおんにょらい)像を借りて帰りました。そして新三郎は家の周りにお札を貼り付け、海音如来像を身に着けてお経を読み上げるのでした。
その夜いつものように新三郎の家に「お露」がやって来ますが、お札があって家に入れません。困った「お露」は伴蔵の家に赴いて、お札を剥がすように頼みます。
はじめは幽霊を怖がっていた伴蔵とその妻のお峰でしたが、「お露」からお金を受け取ることを条件に、お札を剥がすことを約束します。次の日、伴蔵とお峰は新三郎の隙を見て、海音如来像を粘土で出来た不動像にすり替えてしまうのです。
その晩に「お露」がお金を持ってやって来ると、伴蔵は新三郎の家のお札を全て剥がしてしまいます。そしてお札が無くなると「お露」は、喜んで新三郎の家に入って行くのでした。
夜が明ける頃、幽霊の手引きをした後ろめたい思いがあった伴蔵は、白翁堂勇斎とお峰を連れて新三郎の家の様子を見に行きます。戸を叩いても返事のない新三郎の家におそるおそる入ると、中では新三郎が物凄い形相で虚空を掴みながら息絶えていたのです。そしてその首には髑髏がかじりついていたのでした。日本三大怪談に数えられる牡丹燈籠
明治に作られた『牡丹燈籠』は、日本三大怪談では最も新しい怪談話です。『四谷怪談』と『皿屋敷』は江戸時代に落語怪談として整えられましたが、それ以前にも各地で怪談として語られてきました。
『四谷怪談』の「お岩さん」、『皿屋敷』の「お菊さん」、そして『牡丹燈籠』の「お露さん」と日本三大怪談に名を連ねる女性の幽霊たち。
『四谷怪談』の「お岩さん」は夫に裏切られた末に怨霊と化し、『皿屋敷』の「お菊さん」は無念のうちに死んで幽霊に。そして恋焦がれるあまり死んでしまい、死してなお愛する男を求めた『牡丹燈籠』の「お露さん」。女性の情念は時に恐ろしいものになると言えますね。
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