nao本周旅游节目后更新IG
みなさんこんにちは☀️
本日も「旅サラダ」をご覧いただきありがとうございました♪
菊川さんの高知旅、楽しそうでしたね!
四万十川をカヌーで下るのも楽しそうで、私も体験してみたいです
以前、高知へ行った時に鰹のタタキをいただきましたが、本当に美味しかったことを思い出しました。
ポン酢も美味しいですが、塩で食べるとまた絶品でした!
海外はケープタウン!
アフリカ大陸は国立公園と都会的な街並みが隣り合わせで不思議で魅力的な街でしたね。
来週からもまだ知らないアフリカがたくさんありそうな予感
来週もぜひご覧ください!!
#旅サラダ#
@tabisalad
#松下奈緒#
<衣装>
ブラウス#AMACA#
イヤリング#vendomeaoyama#
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ポン酢も美味しいですが、塩で食べるとまた絶品でした!
海外はケープタウン!
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来週からもまだ知らないアフリカがたくさんありそうな予感
来週もぜひご覧ください!!
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@tabisalad
#松下奈緒#
<衣装>
ブラウス#AMACA#
イヤリング#vendomeaoyama#
上洛した家康は秀吉から諸大名の前で一芝居打つよう頼まれる/「どうする家康」第35回あらすじ
NHK大河ドラマ「どうする家康」(日曜午後8時)。松本潤演じる徳川家康が、個性派ぞろいの家臣団と数々の困難を乗り越えていく姿を描く。
【写真】「どうする家康」トークショーを行った大森南朋
岡崎城主の子として生まれた竹千代(のちの家康)は、戦乱で父を失い、母とも離れ、今川家の人質として孤独に生涯を終えるつもりでいた。しかし三河武士の熱意に動かされ、弱小国の主として織田信長、武田信玄ら群雄割拠の乱世に飛び込む。生死を賭けたピンチ、計算違いの連続に見舞われながら、家臣団とともに天下統一を目指していく。
脚本は「コンフィデンスマンJP」シリーズなどで知られる古沢良太氏が担当する。
◆第35回「欲望の怪物」
秀吉(ムロツヨシ)は母・仲(高畑淳子)を、家康(松本潤)の上洛(じょうらく)と引き換えに人質として岡崎へ送る。秀吉は家康を歓待する中、妻の寧々(和久井映見)や弟の秀長(佐藤隆太)を紹介し、諸大名の前で一芝居打ってくれと頼みこむ。大坂をたつ前夜、秀吉から北条・真田の手綱を握る役目を任された家康は、一人の男と出会い興味を持つ。それは豊臣一の切れ者と名高い石田三成(中村七之助)だった。
NHK大河ドラマ「どうする家康」(日曜午後8時)。松本潤演じる徳川家康が、個性派ぞろいの家臣団と数々の困難を乗り越えていく姿を描く。
【写真】「どうする家康」トークショーを行った大森南朋
岡崎城主の子として生まれた竹千代(のちの家康)は、戦乱で父を失い、母とも離れ、今川家の人質として孤独に生涯を終えるつもりでいた。しかし三河武士の熱意に動かされ、弱小国の主として織田信長、武田信玄ら群雄割拠の乱世に飛び込む。生死を賭けたピンチ、計算違いの連続に見舞われながら、家臣団とともに天下統一を目指していく。
脚本は「コンフィデンスマンJP」シリーズなどで知られる古沢良太氏が担当する。
◆第35回「欲望の怪物」
秀吉(ムロツヨシ)は母・仲(高畑淳子)を、家康(松本潤)の上洛(じょうらく)と引き換えに人質として岡崎へ送る。秀吉は家康を歓待する中、妻の寧々(和久井映見)や弟の秀長(佐藤隆太)を紹介し、諸大名の前で一芝居打ってくれと頼みこむ。大坂をたつ前夜、秀吉から北条・真田の手綱を握る役目を任された家康は、一人の男と出会い興味を持つ。それは豊臣一の切れ者と名高い石田三成(中村七之助)だった。
賤ヶ岳の戦い
3月12日。柴田勝家は前田利家、佐久間盛政(さくまもりまさ)らを率いて30,000の軍勢で北近江に布陣しました。対する豊臣秀吉は、長島城からの襲撃を避けるため10,000の兵を伊勢に置き、3月19日に50,000の兵を率いて近江の木ノ本に布陣。両者とも直ぐに攻撃をすることなく、陣地や砦の構築を行っていました。
しかし豊臣秀吉軍は、伊勢の滝川一益に南から、近江の柴田勝家に北から挟み込まれた形になりました。そうしたところ、豊臣秀吉に降伏した織田信孝がこれを知り、伊勢の滝川一益と結託して4月16日に美濃から挙兵。北近江、伊勢、美濃の3方面からの攻撃を守る必要に迫られた豊臣秀吉は、守備隊を近江に残し、翌4月17日に美濃へと進軍したのです。しかし、揖斐川の氾濫によって足止めを受けたため、大垣城に入って情勢が変化することを待ちました。
これを好機と見た柴田勝家は、4月19日、佐久間盛政に出陣するよう命令。佐久間盛政は、中川清秀(なかがわきよひで)が守る最前線の大岩山砦を攻撃し、陥落しました。勢い付いた佐久間盛政は黒田孝高(黒田官兵衛)を攻撃しましたが、堅い守りに陥落をあきらめ、岩崎山に布陣していた高山右近(たかやまうこん)を攻撃し撃破したのです。
一方、賤ヶ岳砦を守っていた豊臣秀吉軍の桑山重晴(くわやましげはる)は戦況が劣勢と判断し、4月20日に撤退を開始しました。ここで深追いは危険と判断した柴田勝家は、佐久間盛政に撤退するよう命令。しかし、調子付いた佐久間盛政はそれに従わず敵陣に留まり続けます。この判断が勝敗の分かれ目となりました。
ちょうどその頃、琵琶湖を渡っていた丹羽長秀は、豊臣秀吉の前線が崩されたことを知り参戦を決意。撤退し始めていた重晴と遭遇したため、合流して賤ヶ岳周辺にいた佐久間盛政の軍勢に攻撃を仕掛けて撃破し、賤ヶ岳砦の奪還に成功しました。
美濃大返し
大垣城で情勢の変化を待っていた豊臣秀吉ですが、各所の砦が陥落していくのを知り、賤ヶ岳へ行軍。ただし、通常の行軍ではありません。午後2時に大垣を出発した豊臣秀吉軍は、午後7時には賤ヶ岳付近に到着していたのです。52kmをわずか5時間で走破。これを「美濃大返し」と言います。
一方の佐久間盛政は、豊臣秀吉が戻ってくるのを知っており、早くても翌日であろうと高を括っていました。しかし、数々の不可能を可能にしてきた豊臣秀吉。大岩山にいた佐久間盛政は、虚を付かれて包囲されてしまいました。
撤退する佐久間盛政
翌日の4月21日未明、ついに佐久間盛政は撤退を開始しました。それを知った豊臣秀吉軍は追撃。しかし、そこは数々の戦で功績を挙げ、その勇猛さから鬼玄蕃(おにげんば)と呼ばれた佐久間盛政です。撤退しながらも反撃し、簡単には崩壊しませんでした。そこで豊臣秀吉は、標的を柴田勝政(しばたかつまさ)に変更。それに佐久間盛政が加わり、大激戦となったのです。
前田利家が戦線離脱
豊臣秀吉軍と柴田勝政・佐久間盛政が激戦を繰り広げる中、茂山の背後にいた前田利家が突如として戦線を離脱。
前田利家は、佐久間盛政の後方に位置していただけに、戦況にとても大きな影響を与えました。前田利家が戦線離脱したことで、そのあとに続いていた長近と直光も撤退。個人の逃走も増え、歯止めが効かなくなった状態になったのです。そこで余呉湖の北側に陣を置いていた豊臣秀吉軍の木下一元(きのしたかずもと)や木村隼人正(きむらはやとのしょう)の部隊が、佐久間盛政を攻撃。ついに総崩れとなりました。
なお、戦線離脱した前田利家と続いて撤退した長近と直光の3名は、柴田勝家からの和睦交渉で派遣された際、豊臣秀吉に調略された者。そのため、3名の離脱・撤退が戦況が変わるきっかけになってしまったのです。
柴田勝家敗退と自害
豊臣秀吉軍は、残った佐久間盛政の部隊を撃破。そして、豊臣秀吉軍のすべての部隊がいよいよ残る柴田勝家本隊に殺到し、集中攻撃を仕掛けました。このときの柴田勝家本隊は、わずか3,000ほど。さすがの柴田勝家もこれを支えきれず、越前の北ノ庄城に逃走し、賤ヶ岳の戦いは豊臣秀吉が勝利しました。
そして2日後の4月23日。戦線離脱した前田利家が、豊臣秀吉軍の先鋒として北ノ庄城を包囲したのです。前田利家は、賤ヶ岳から撤退したあと府中城に立てこもっていましたが、豊臣秀吉からの説得に応じ降伏したのでした。先鋒となったのは、豊臣秀吉の味方であることを証明するためです。
このとき柴田勝家は、わずか200の兵とともに北ノ庄城に立て籠もり、防戦。抵抗に抵抗を重ねましたが、ついに天守へ追い込まれてしまいました。柴田勝家は天守に火を点け、妻のお市の方と共に自害し、北ノ庄城は落城。
これで織田家のトップ争いに終止符が打たれ、豊臣秀吉は織田家中随一の実力者となったのです。
なお、お市の方には娘である浅井三姉妹の茶々、初、江がいましたが、豊臣秀吉に託されました。茶々はのちに豊臣秀吉の側室となり、豊臣秀頼(とよとみひでより/幼名:捨丸)を生みます。
3月12日。柴田勝家は前田利家、佐久間盛政(さくまもりまさ)らを率いて30,000の軍勢で北近江に布陣しました。対する豊臣秀吉は、長島城からの襲撃を避けるため10,000の兵を伊勢に置き、3月19日に50,000の兵を率いて近江の木ノ本に布陣。両者とも直ぐに攻撃をすることなく、陣地や砦の構築を行っていました。
しかし豊臣秀吉軍は、伊勢の滝川一益に南から、近江の柴田勝家に北から挟み込まれた形になりました。そうしたところ、豊臣秀吉に降伏した織田信孝がこれを知り、伊勢の滝川一益と結託して4月16日に美濃から挙兵。北近江、伊勢、美濃の3方面からの攻撃を守る必要に迫られた豊臣秀吉は、守備隊を近江に残し、翌4月17日に美濃へと進軍したのです。しかし、揖斐川の氾濫によって足止めを受けたため、大垣城に入って情勢が変化することを待ちました。
これを好機と見た柴田勝家は、4月19日、佐久間盛政に出陣するよう命令。佐久間盛政は、中川清秀(なかがわきよひで)が守る最前線の大岩山砦を攻撃し、陥落しました。勢い付いた佐久間盛政は黒田孝高(黒田官兵衛)を攻撃しましたが、堅い守りに陥落をあきらめ、岩崎山に布陣していた高山右近(たかやまうこん)を攻撃し撃破したのです。
一方、賤ヶ岳砦を守っていた豊臣秀吉軍の桑山重晴(くわやましげはる)は戦況が劣勢と判断し、4月20日に撤退を開始しました。ここで深追いは危険と判断した柴田勝家は、佐久間盛政に撤退するよう命令。しかし、調子付いた佐久間盛政はそれに従わず敵陣に留まり続けます。この判断が勝敗の分かれ目となりました。
ちょうどその頃、琵琶湖を渡っていた丹羽長秀は、豊臣秀吉の前線が崩されたことを知り参戦を決意。撤退し始めていた重晴と遭遇したため、合流して賤ヶ岳周辺にいた佐久間盛政の軍勢に攻撃を仕掛けて撃破し、賤ヶ岳砦の奪還に成功しました。
美濃大返し
大垣城で情勢の変化を待っていた豊臣秀吉ですが、各所の砦が陥落していくのを知り、賤ヶ岳へ行軍。ただし、通常の行軍ではありません。午後2時に大垣を出発した豊臣秀吉軍は、午後7時には賤ヶ岳付近に到着していたのです。52kmをわずか5時間で走破。これを「美濃大返し」と言います。
一方の佐久間盛政は、豊臣秀吉が戻ってくるのを知っており、早くても翌日であろうと高を括っていました。しかし、数々の不可能を可能にしてきた豊臣秀吉。大岩山にいた佐久間盛政は、虚を付かれて包囲されてしまいました。
撤退する佐久間盛政
翌日の4月21日未明、ついに佐久間盛政は撤退を開始しました。それを知った豊臣秀吉軍は追撃。しかし、そこは数々の戦で功績を挙げ、その勇猛さから鬼玄蕃(おにげんば)と呼ばれた佐久間盛政です。撤退しながらも反撃し、簡単には崩壊しませんでした。そこで豊臣秀吉は、標的を柴田勝政(しばたかつまさ)に変更。それに佐久間盛政が加わり、大激戦となったのです。
前田利家が戦線離脱
豊臣秀吉軍と柴田勝政・佐久間盛政が激戦を繰り広げる中、茂山の背後にいた前田利家が突如として戦線を離脱。
前田利家は、佐久間盛政の後方に位置していただけに、戦況にとても大きな影響を与えました。前田利家が戦線離脱したことで、そのあとに続いていた長近と直光も撤退。個人の逃走も増え、歯止めが効かなくなった状態になったのです。そこで余呉湖の北側に陣を置いていた豊臣秀吉軍の木下一元(きのしたかずもと)や木村隼人正(きむらはやとのしょう)の部隊が、佐久間盛政を攻撃。ついに総崩れとなりました。
なお、戦線離脱した前田利家と続いて撤退した長近と直光の3名は、柴田勝家からの和睦交渉で派遣された際、豊臣秀吉に調略された者。そのため、3名の離脱・撤退が戦況が変わるきっかけになってしまったのです。
柴田勝家敗退と自害
豊臣秀吉軍は、残った佐久間盛政の部隊を撃破。そして、豊臣秀吉軍のすべての部隊がいよいよ残る柴田勝家本隊に殺到し、集中攻撃を仕掛けました。このときの柴田勝家本隊は、わずか3,000ほど。さすがの柴田勝家もこれを支えきれず、越前の北ノ庄城に逃走し、賤ヶ岳の戦いは豊臣秀吉が勝利しました。
そして2日後の4月23日。戦線離脱した前田利家が、豊臣秀吉軍の先鋒として北ノ庄城を包囲したのです。前田利家は、賤ヶ岳から撤退したあと府中城に立てこもっていましたが、豊臣秀吉からの説得に応じ降伏したのでした。先鋒となったのは、豊臣秀吉の味方であることを証明するためです。
このとき柴田勝家は、わずか200の兵とともに北ノ庄城に立て籠もり、防戦。抵抗に抵抗を重ねましたが、ついに天守へ追い込まれてしまいました。柴田勝家は天守に火を点け、妻のお市の方と共に自害し、北ノ庄城は落城。
これで織田家のトップ争いに終止符が打たれ、豊臣秀吉は織田家中随一の実力者となったのです。
なお、お市の方には娘である浅井三姉妹の茶々、初、江がいましたが、豊臣秀吉に託されました。茶々はのちに豊臣秀吉の側室となり、豊臣秀頼(とよとみひでより/幼名:捨丸)を生みます。
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