工藤会トップの2審 総裁は無罪主張 ナンバー2は一転関与認める
2023年9月13日 13時11分
北九州市の特定危険指定暴力団「工藤会」が市民を襲撃した4つの事件で、殺人などの罪に問われ、1審で死刑判決を言い渡された組織トップの総裁ら2人の2審の裁判が始まり、総裁は、引き続き、すべての事件で無罪を主張した一方、ナンバー2は、2つの事件について一転して関与を認め「独断で指示した」などと主張しました。
特定危険指定暴力団「工藤会」は、平成10年から26年にかけて北九州市や周辺の地域で漁協の元組合長を射殺したほか、看護師や歯科医師など3人を拳銃や刃物で襲い、合わせて4つの事件を相次いで起こし、組織のトップ、総裁の野村悟被告(76)とナンバー2の会長の田上不美夫被告(67)が殺人などの罪に問われています。
1審の福岡地方裁判所はおととし8月、工藤会を厳格に統制された組織だとした上で、野村被告に4つの事件に首謀者として関与したと認定して死刑判決を、田上被告には無期懲役を言い渡していました。
13日、福岡高等裁判所で2審の裁判が始まり、2人はいずれも上下黒のスーツ姿で法廷に入りました。
裁判の冒頭、弁護側は「1審判決は直接証拠がないにもかかわらず推認に推認を重ねたもので、客観性を欠いた理屈による判決だ」と述べました。
その上で、野村被告について、いずれの事件でも共謀の事実はないと1審に続き無罪を主張しました。
一方、田上被告については、看護師と歯科医師がそれぞれ刃物で襲われた2つの事件への関与を一転して認め「トップに連絡や相談もしないまま指示をして実行させた」と主張しました。
検察は「1審の判決は合理的、常識的であって、工藤会の組織の実態に即している。田上被告の新たな主張には、野村被告の刑事責任を免れようとする強い動機がある」などと主張し控訴を退けるよう求めました。
福岡高裁 早朝から警戒態勢
福岡高等裁判所の敷地内や周辺では、早朝から警戒態勢が取られ、腕章をつけた警察官の姿が多く見られました。
そして、午前9時過ぎ、野村悟被告と田上不美夫被告をそれぞれ乗せたとみられる車が、警察車両に先導されながら裁判所に入りました。
敷地内では、傍聴券を求める人たちが長い列を作りました。
裁判所によりますと、用意された58の傍聴席に対して385人が並んだということで、抽せんの倍率はおよそ6.6倍でした。
法廷がある建物の10階は、傍聴券を持たない人の立ち入りが禁止されるなどの対応が取られる中で午前10時、裁判が始まりました。
上下黒のスーツ姿で法廷に
午前9時55分ごろ、野村被告と田上被告はともに上下黒のスーツ姿で法廷に現れ、裁判長に一礼して席に座りました。
午前10時に開廷すると、冒頭、市川太志裁判長が「法廷で不規則発言は禁止されています。即時、退廷を命じることがあるので、ご注意ください」と述べて審理が始まりました。
2人の被告は、落ち着いた様子でしたが、検察が、弁護士の主張に対する反論を述べると、厳しい視線を向けていました。
途中、野村被告が左耳につけた補聴器を気にしながら「聞こえない。マイクを近づけてくれたらいいです」などと発言し、裁判長が検察に「大きな声で」と促す場面もありました。
福岡県警 1審後 警備や保護対策強化
工藤会トップの野村被告とナンバー2の田上被告の1審の福岡地方裁判所の判決は、おととし8月に言い渡されました。
野村被告は、判決が言い渡された直後、裁判長に向かって強い口調で「公正な判断をお願いしたけど全然、公正じゃないね」「生涯、後悔する」という趣旨の発言をしました。
被告の発言などを受けて、福岡県警は司法関係者に危険が及ぶおそれがあるとして、警備や保護対策を強化しました。
被告側はいずれも、1審判決の翌日に控訴しましたが、およそ1年後の去年7月、1審の弁護士全員を解任しました。
後任には長年、死刑廃止運動に取り組み数々の著名な事件を担当してきた弁護士などが就任し、去年12月に控訴趣意書が提出されて1審判決から2年余り経過した13日、2審の審理が始まりました。
工藤会 現状は
工藤会をめぐっては、警察の徹底的な取締りの結果、構成員がピーク時の4分の1まで減るなど組織の弱体化が進んでいますが、警察当局は一部が首都圏に進出しているとみていて全国で唯一の「特定危険指定暴力団」の指定を継続するとともに、取締りを強化しています。
福岡県警察本部によりますと、工藤会の県内の構成員は、去年末の時点でおよそ180人と、ピークだった平成20年末と比べ、およそ4分の1まで減っています。
このうち、およそ半数が服役または勾留されていると把握しているということです。
北九州市にあった主要な事務所の撤去も相次ぎ、3年前、本部事務所が解体されたほか、野村被告の出身組織でもある「田中組」の事務所も、ことし4月までにすべて撤去され、組織の弱体化が進んでいるとみています。
一方、近年、組織の一部が経済規模の大きい首都圏に資金獲得のために進出しているとみて連携や取締りを強化しているということです。
福岡県公安委員会は、全国で唯一となる「特定危険指定暴力団」の指定について「暴力的要求行為が継続するおそれがある」として去年12月、10回目の延長を行いました。
また、警察は、工藤会の関与が疑われる過去の未解決事件の捜査も続けています。
去年7月には11年前に北九州市八幡西区で男性が刃物で刺された事件で、傘下組織の幹部らが殺人未遂の疑いで逮捕されたほか、去年9月には12年前に福岡県福津市で建設会社社員の自宅に銃弾が撃ち込まれた事件で、傘下組織の当時の幹部らが銃刀法違反などの疑いで逮捕されました。
また、去年10月には、10年前に京都市で「餃子の王将」を展開する会社の社長が銃撃され殺害された事件で、工藤会傘下組織の幹部が実行役として殺人などの罪で逮捕・起訴され、警察は指示した人物がいるとみて捜査を続けています。
「暫定トップ」交代
これまでの徹底的な取締りで野村被告をはじめとする工藤会の主要幹部の多くが収監されたり勾留されたりしている中、福岡県警は、トップの野村被告が不在の中で、序列が最も高い「暫定トップ」がこのほど交代したと判断しました。
そして、新たに暫定トップについたとされる48歳の幹部に対し、今月7日、事務所の使用を制限したり、過去に工藤会が起こした事件で出所祝いや功労金などを払うことを禁じたりする、暴力団対策法に基づく仮命令を出しました。
2023年9月13日 13時11分
北九州市の特定危険指定暴力団「工藤会」が市民を襲撃した4つの事件で、殺人などの罪に問われ、1審で死刑判決を言い渡された組織トップの総裁ら2人の2審の裁判が始まり、総裁は、引き続き、すべての事件で無罪を主張した一方、ナンバー2は、2つの事件について一転して関与を認め「独断で指示した」などと主張しました。
特定危険指定暴力団「工藤会」は、平成10年から26年にかけて北九州市や周辺の地域で漁協の元組合長を射殺したほか、看護師や歯科医師など3人を拳銃や刃物で襲い、合わせて4つの事件を相次いで起こし、組織のトップ、総裁の野村悟被告(76)とナンバー2の会長の田上不美夫被告(67)が殺人などの罪に問われています。
1審の福岡地方裁判所はおととし8月、工藤会を厳格に統制された組織だとした上で、野村被告に4つの事件に首謀者として関与したと認定して死刑判決を、田上被告には無期懲役を言い渡していました。
13日、福岡高等裁判所で2審の裁判が始まり、2人はいずれも上下黒のスーツ姿で法廷に入りました。
裁判の冒頭、弁護側は「1審判決は直接証拠がないにもかかわらず推認に推認を重ねたもので、客観性を欠いた理屈による判決だ」と述べました。
その上で、野村被告について、いずれの事件でも共謀の事実はないと1審に続き無罪を主張しました。
一方、田上被告については、看護師と歯科医師がそれぞれ刃物で襲われた2つの事件への関与を一転して認め「トップに連絡や相談もしないまま指示をして実行させた」と主張しました。
検察は「1審の判決は合理的、常識的であって、工藤会の組織の実態に即している。田上被告の新たな主張には、野村被告の刑事責任を免れようとする強い動機がある」などと主張し控訴を退けるよう求めました。
福岡高裁 早朝から警戒態勢
福岡高等裁判所の敷地内や周辺では、早朝から警戒態勢が取られ、腕章をつけた警察官の姿が多く見られました。
そして、午前9時過ぎ、野村悟被告と田上不美夫被告をそれぞれ乗せたとみられる車が、警察車両に先導されながら裁判所に入りました。
敷地内では、傍聴券を求める人たちが長い列を作りました。
裁判所によりますと、用意された58の傍聴席に対して385人が並んだということで、抽せんの倍率はおよそ6.6倍でした。
法廷がある建物の10階は、傍聴券を持たない人の立ち入りが禁止されるなどの対応が取られる中で午前10時、裁判が始まりました。
上下黒のスーツ姿で法廷に
午前9時55分ごろ、野村被告と田上被告はともに上下黒のスーツ姿で法廷に現れ、裁判長に一礼して席に座りました。
午前10時に開廷すると、冒頭、市川太志裁判長が「法廷で不規則発言は禁止されています。即時、退廷を命じることがあるので、ご注意ください」と述べて審理が始まりました。
2人の被告は、落ち着いた様子でしたが、検察が、弁護士の主張に対する反論を述べると、厳しい視線を向けていました。
途中、野村被告が左耳につけた補聴器を気にしながら「聞こえない。マイクを近づけてくれたらいいです」などと発言し、裁判長が検察に「大きな声で」と促す場面もありました。
福岡県警 1審後 警備や保護対策強化
工藤会トップの野村被告とナンバー2の田上被告の1審の福岡地方裁判所の判決は、おととし8月に言い渡されました。
野村被告は、判決が言い渡された直後、裁判長に向かって強い口調で「公正な判断をお願いしたけど全然、公正じゃないね」「生涯、後悔する」という趣旨の発言をしました。
被告の発言などを受けて、福岡県警は司法関係者に危険が及ぶおそれがあるとして、警備や保護対策を強化しました。
被告側はいずれも、1審判決の翌日に控訴しましたが、およそ1年後の去年7月、1審の弁護士全員を解任しました。
後任には長年、死刑廃止運動に取り組み数々の著名な事件を担当してきた弁護士などが就任し、去年12月に控訴趣意書が提出されて1審判決から2年余り経過した13日、2審の審理が始まりました。
工藤会 現状は
工藤会をめぐっては、警察の徹底的な取締りの結果、構成員がピーク時の4分の1まで減るなど組織の弱体化が進んでいますが、警察当局は一部が首都圏に進出しているとみていて全国で唯一の「特定危険指定暴力団」の指定を継続するとともに、取締りを強化しています。
福岡県警察本部によりますと、工藤会の県内の構成員は、去年末の時点でおよそ180人と、ピークだった平成20年末と比べ、およそ4分の1まで減っています。
このうち、およそ半数が服役または勾留されていると把握しているということです。
北九州市にあった主要な事務所の撤去も相次ぎ、3年前、本部事務所が解体されたほか、野村被告の出身組織でもある「田中組」の事務所も、ことし4月までにすべて撤去され、組織の弱体化が進んでいるとみています。
一方、近年、組織の一部が経済規模の大きい首都圏に資金獲得のために進出しているとみて連携や取締りを強化しているということです。
福岡県公安委員会は、全国で唯一となる「特定危険指定暴力団」の指定について「暴力的要求行為が継続するおそれがある」として去年12月、10回目の延長を行いました。
また、警察は、工藤会の関与が疑われる過去の未解決事件の捜査も続けています。
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また、去年10月には、10年前に京都市で「餃子の王将」を展開する会社の社長が銃撃され殺害された事件で、工藤会傘下組織の幹部が実行役として殺人などの罪で逮捕・起訴され、警察は指示した人物がいるとみて捜査を続けています。
「暫定トップ」交代
これまでの徹底的な取締りで野村被告をはじめとする工藤会の主要幹部の多くが収監されたり勾留されたりしている中、福岡県警は、トップの野村被告が不在の中で、序列が最も高い「暫定トップ」がこのほど交代したと判断しました。
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#松田悟志[超话]#9.8twi更新
⭐待って!!!!!!!
仮面ライダー龍騎関連のツイートした直後にびっくりする人とばったりしたんですけど!!笑
引き寄せにもほどがある
♯柴﨑監督
⭐この方にもお会いできました✨
京都でばったり会うには嬉しすぎる再会✨
ありがとうガッチャード、俺は本当にラッキーだ✨✨✨
♯田﨑竜太 監督
⭐待って!!!!!!!
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引き寄せにもほどがある
♯柴﨑監督
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京都でばったり会うには嬉しすぎる再会✨
ありがとうガッチャード、俺は本当にラッキーだ✨✨✨
♯田﨑竜太 監督
旭姫(朝日姫)は、安土桃山時代の女性で、秀吉の妹にあたる人物です。天正12年(1584)の「小牧・長久手の戦い」後、家康との関係をさらに強化したいと考えた秀吉は、自身の妹・旭姫を家康の正室にしようとしたのです。
この時、旭姫にはすでに夫がいましたが、秀吉に無理やり離縁させられたそうです。家康の正室になってから数年後、病没したと伝えられている旭姫。兄・秀吉の壮大な夢に振り回されたかわいそうな妹というイメージがありますが、実際の旭姫はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。
2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、人質として家康のもとに嫁いだ、純朴で心優しい女性(演:山田真歩)として描かれます。
旭姫が生きた時代
旭姫は、天文12年(1543)に生まれます。尾張国(現在の愛知県)の百姓家に生まれ育った旭姫でしたが、長兄・秀吉と次兄・秀長が武士として生きるようになってから、彼女の人生は大きく変わっていきました。
秀吉が天下統一に向けて前進していた一方で、旭姫は有力武将の妹としての人生を強いられるようになったのです。
旭姫の足跡と主な出来事
旭姫は、天文12年(1543)に生まれ、天正18年(1590)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。
家康の正室となる
旭姫は、天文12年(1543)、尾張国中村の百姓家に生まれました。母・仲とその再婚者・竹阿弥(ちくあみ)の子であるため、秀吉とは異父兄弟にあたります。その後、旭姫は尾張国の地侍・佐治日向守(さじひゅうがのかみ)と結婚したと伝えられていますが、その時期について詳しくはわかっていません。
生まれ育った尾張国で、ごく普通の生活を送っていたと考えられている旭姫。一方、兄の秀吉は主君である信長のもとで、順調に出世していました。信長の死後、彼の後継者を決めるべく「清洲会議」が開かれます。信長の敵討ちに成功し、発言力を強めていた秀吉が実質的な後継者となったことで、旭姫の運命も大きく変わっていったのです。
天正12年(1584)、家康と手を組んだ信長の次男・信雄と秀吉の間で勃発した「小牧・長久手の戦い」。戦いが膠着状態になったことを受け、秀吉は信雄に対し、和解を提案することに。信雄がこれに応じたことで戦いは終わることとなりました。
その後、家康との関係を強化しようと考えた秀吉。妹の旭姫を家康のもとに嫁がせようとしたのです。この時、秀吉は旭姫の夫・佐治日向守に対し、500石の加増を条件に旭姫と離婚するように命じたと言われています。
強引に離婚させられた佐治日向守は、その後出家したと伝えられていますが、詳しくはわかっていません。いずれにせよ、納得しがたい出来事だったと考えられます。二人の離婚を確認した後、秀吉は家康に対し、旭姫を正室として迎え入れるよう説得しました。
家康はこれを承諾し、天正14年(1586)、旭姫は家康のもとへと向かうことになったのです。
短い夫婦生活の終わり
突然離縁させられ、家康の正室になることが決まった旭姫。駿府城(現在の静岡県静岡市にあった城)に移住したため、駿河御前と呼ばれるようになりました。しかし、家康との生活は長続きせず、わずか2年で京都の聚楽第(じゅらくだい)へ引き返すこととなります。
理由は、体調を崩した実母・仲の見舞いであると言われています。聚楽第にて母の看病をしていたそうですが、旭姫自身も病弱だったため、天正18年(1590)、48歳で病没してしまいました。
兄・秀吉の命で、強制的に家康の正室にさせられた旭姫。いわゆる政略結婚ですが、家康は旭姫の死後、京都の東福寺と駿府の瑞龍寺に彼女のお墓を作ったと言われています。天下人に振り回された不憫な女性というイメージが強い旭姫ですが、自分の運命を受け入れて逞しく生き、家康もまた彼女のことを理解していたのではないでしょうか?
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/とよだまほ(京都メディアライン)
この時、旭姫にはすでに夫がいましたが、秀吉に無理やり離縁させられたそうです。家康の正室になってから数年後、病没したと伝えられている旭姫。兄・秀吉の壮大な夢に振り回されたかわいそうな妹というイメージがありますが、実際の旭姫はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。
2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、人質として家康のもとに嫁いだ、純朴で心優しい女性(演:山田真歩)として描かれます。
旭姫が生きた時代
旭姫は、天文12年(1543)に生まれます。尾張国(現在の愛知県)の百姓家に生まれ育った旭姫でしたが、長兄・秀吉と次兄・秀長が武士として生きるようになってから、彼女の人生は大きく変わっていきました。
秀吉が天下統一に向けて前進していた一方で、旭姫は有力武将の妹としての人生を強いられるようになったのです。
旭姫の足跡と主な出来事
旭姫は、天文12年(1543)に生まれ、天正18年(1590)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。
家康の正室となる
旭姫は、天文12年(1543)、尾張国中村の百姓家に生まれました。母・仲とその再婚者・竹阿弥(ちくあみ)の子であるため、秀吉とは異父兄弟にあたります。その後、旭姫は尾張国の地侍・佐治日向守(さじひゅうがのかみ)と結婚したと伝えられていますが、その時期について詳しくはわかっていません。
生まれ育った尾張国で、ごく普通の生活を送っていたと考えられている旭姫。一方、兄の秀吉は主君である信長のもとで、順調に出世していました。信長の死後、彼の後継者を決めるべく「清洲会議」が開かれます。信長の敵討ちに成功し、発言力を強めていた秀吉が実質的な後継者となったことで、旭姫の運命も大きく変わっていったのです。
天正12年(1584)、家康と手を組んだ信長の次男・信雄と秀吉の間で勃発した「小牧・長久手の戦い」。戦いが膠着状態になったことを受け、秀吉は信雄に対し、和解を提案することに。信雄がこれに応じたことで戦いは終わることとなりました。
その後、家康との関係を強化しようと考えた秀吉。妹の旭姫を家康のもとに嫁がせようとしたのです。この時、秀吉は旭姫の夫・佐治日向守に対し、500石の加増を条件に旭姫と離婚するように命じたと言われています。
強引に離婚させられた佐治日向守は、その後出家したと伝えられていますが、詳しくはわかっていません。いずれにせよ、納得しがたい出来事だったと考えられます。二人の離婚を確認した後、秀吉は家康に対し、旭姫を正室として迎え入れるよう説得しました。
家康はこれを承諾し、天正14年(1586)、旭姫は家康のもとへと向かうことになったのです。
短い夫婦生活の終わり
突然離縁させられ、家康の正室になることが決まった旭姫。駿府城(現在の静岡県静岡市にあった城)に移住したため、駿河御前と呼ばれるようになりました。しかし、家康との生活は長続きせず、わずか2年で京都の聚楽第(じゅらくだい)へ引き返すこととなります。
理由は、体調を崩した実母・仲の見舞いであると言われています。聚楽第にて母の看病をしていたそうですが、旭姫自身も病弱だったため、天正18年(1590)、48歳で病没してしまいました。
兄・秀吉の命で、強制的に家康の正室にさせられた旭姫。いわゆる政略結婚ですが、家康は旭姫の死後、京都の東福寺と駿府の瑞龍寺に彼女のお墓を作ったと言われています。天下人に振り回された不憫な女性というイメージが強い旭姫ですが、自分の運命を受け入れて逞しく生き、家康もまた彼女のことを理解していたのではないでしょうか?
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/とよだまほ(京都メディアライン)
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