南北戦争を終わらせたのは1枚のふきんだった、「米国史上最も血なまぐさい戦い」を止めた布
1865年4月9日、米国バージニア州アポマトックスで北軍が南軍を包囲するなか、南軍のロバート・E・リー将軍は降伏の交渉を始めるしかないと判断した。リーは北軍のユリシーズ・S・グラント将軍と会見するまでの間、停戦を求めるため、敵陣に参謀を送り込んだ。南軍のR・M・シムズ大尉は安全に通行するため、端に赤の3本線が入ったフリンジ付きの白いふきんを携帯した。
ギャラリー:世界が知らない、ウクライナの美しい風景 写真10点
現在、スミソニアン国立アメリカ歴史博物館の3階には、南軍の休戦の旗として知られるこのふきんの半分が、「米国の大統領職」という展示の一部としてガラスケースに収められている。「これは国の宝です」と、旗の研究を専門とするNPO北米旗章学協会の一員で、旗章学のコンサルティングをしているジェイムズ・フェリガン氏は話す。「米国史上最も血なまぐさい戦いを終わらせるための話し合いを始めるきっかけとなった旗ですから」
休戦の旗は敗戦の記念物?
1865年4月、この旗はリーとグラントの友好的な会談への道を開いた。その5日後、エイブラハム・リンカーン大統領が南部連合支持者の俳優ジョン・ウィルクス・ブースに暗殺された。南北の戦いは、1866年8月にアンドリュー・ジョンソン大統領が正式に終結を宣言するまで、さらに1年半ほど続いたが、アポマトックス・コートハウスでの降伏を南北戦争の事実上の終戦と考える人も多い。シムズにとっては無念なことに、最終的に休戦の旗は北軍の手に渡ってしまった。シムズは降伏時に自身が果たした役割を説明する1886年5月の手紙に次のように書いている。「(北軍の)ウィテカー大佐から、私が旗として使ったふきんをとっておきたいと言われ、こう答えました。『誰がそんなことをするものか。それを持ち、見せるだけでも十分に屈辱的なことなのに、私たちの敗北の記念物として保存させるわけにはいかない』と」
戦後、北軍のフィリップ・シェリダン将軍は同じく北軍のジョージ・カスター将軍の妻エリザベスに、「彼女の夫の忠誠心に感謝して」休戦の旗を贈った。そして、エリザベスの死後、遺言に従い、スミソニアン芸術産業館の前身である国立博物館に寄贈された。スミソニアンのコレクションに加わったのは1936年だ(どこかの時点で、旗は半分に切断されており、残りの半分は今も行方不明だ)。「休戦の旗をわざわざつくる軍隊はない」
ところで、なぜふきんだったのだろう? 休戦の旗には、歴史を通じてほぼ例外なく、タオル、シーツ、枕カバーなどの家庭用品が使われてきた。
「兵士たちの士気を下げてしまう恐れがあるため、休戦の旗をわざわざつくる軍隊は世界中どこにもありません」とフェリガン氏は説明する。「そのため、不利な状況に陥り、自分たちより強力な武器と多くの兵士を備える相手と話をする必要が生じたら、そのときは、何か旗の代用品を見つけなければなりません」
アメリカ歴史博物館の学芸員として「米国の大統領職」の展示を担当するリサ・キャスリーン・グラディー氏は、博物館を訪れる人にとって、休戦の旗は政治的信条、生い立ち、家族の歴史、人生経験、アイデンティティーによって異なる意味を持つと考えている。そして、南軍が北軍に降伏したのは160年近く前だが、この旗が象徴するものは時とともに変化し続けている。
「物の素晴らしいところは、その瞬間の感情や重要性を物理的にも比喩的にも持ち続けることであり、だからこそ私たちはそれを保存するのです」とグラディー氏は話す。「しかし、解釈は見る人によって異なります。苦々しい瞬間とも言えますし、勝利の瞬間とも言えます」南北戦争の旗として有名な南軍旗も同様だ。休戦の旗がほとんど知られていない一方で、南軍旗は人種差別の象徴になり、ベビー服からキーホルダーまで、あらゆるものに使われている。米アマースト大学の芸術・芸術史教授であるアーティストのソーニャ・クラーク氏は、フィラデルフィアのファブリック・ワークショップ・アンド・ミュージアムで2019年に開いた展覧会「Monumental Cloth, The Flag We Should Know(記念碑的な布、私たちが知るべき旗)」で、2つの旗の対照的な歴史を探究した。クラーク氏がこの展覧会で伝えようとしたのは、対立をあおる南軍旗ではなく、平和をもたらす休戦の旗が米国の物語で優位を占める世界を想像してほしいということだった。
だがそれから4年後の今、ジョージ・フロイド氏の死が米国の人種問題を浮き彫りにし、白人至上主義者が民主主義を脅かし続けるなか、休戦の旗が持つ意味に対するクラーク氏の思いは複雑になる一方だ。氏は問いかける。「私たちは、いったいどのような進歩を遂げられたでしょうか?」
文=SARAH KUTA/訳=米井香織
1865年4月9日、米国バージニア州アポマトックスで北軍が南軍を包囲するなか、南軍のロバート・E・リー将軍は降伏の交渉を始めるしかないと判断した。リーは北軍のユリシーズ・S・グラント将軍と会見するまでの間、停戦を求めるため、敵陣に参謀を送り込んだ。南軍のR・M・シムズ大尉は安全に通行するため、端に赤の3本線が入ったフリンジ付きの白いふきんを携帯した。
ギャラリー:世界が知らない、ウクライナの美しい風景 写真10点
現在、スミソニアン国立アメリカ歴史博物館の3階には、南軍の休戦の旗として知られるこのふきんの半分が、「米国の大統領職」という展示の一部としてガラスケースに収められている。「これは国の宝です」と、旗の研究を専門とするNPO北米旗章学協会の一員で、旗章学のコンサルティングをしているジェイムズ・フェリガン氏は話す。「米国史上最も血なまぐさい戦いを終わらせるための話し合いを始めるきっかけとなった旗ですから」
休戦の旗は敗戦の記念物?
1865年4月、この旗はリーとグラントの友好的な会談への道を開いた。その5日後、エイブラハム・リンカーン大統領が南部連合支持者の俳優ジョン・ウィルクス・ブースに暗殺された。南北の戦いは、1866年8月にアンドリュー・ジョンソン大統領が正式に終結を宣言するまで、さらに1年半ほど続いたが、アポマトックス・コートハウスでの降伏を南北戦争の事実上の終戦と考える人も多い。シムズにとっては無念なことに、最終的に休戦の旗は北軍の手に渡ってしまった。シムズは降伏時に自身が果たした役割を説明する1886年5月の手紙に次のように書いている。「(北軍の)ウィテカー大佐から、私が旗として使ったふきんをとっておきたいと言われ、こう答えました。『誰がそんなことをするものか。それを持ち、見せるだけでも十分に屈辱的なことなのに、私たちの敗北の記念物として保存させるわけにはいかない』と」
戦後、北軍のフィリップ・シェリダン将軍は同じく北軍のジョージ・カスター将軍の妻エリザベスに、「彼女の夫の忠誠心に感謝して」休戦の旗を贈った。そして、エリザベスの死後、遺言に従い、スミソニアン芸術産業館の前身である国立博物館に寄贈された。スミソニアンのコレクションに加わったのは1936年だ(どこかの時点で、旗は半分に切断されており、残りの半分は今も行方不明だ)。「休戦の旗をわざわざつくる軍隊はない」
ところで、なぜふきんだったのだろう? 休戦の旗には、歴史を通じてほぼ例外なく、タオル、シーツ、枕カバーなどの家庭用品が使われてきた。
「兵士たちの士気を下げてしまう恐れがあるため、休戦の旗をわざわざつくる軍隊は世界中どこにもありません」とフェリガン氏は説明する。「そのため、不利な状況に陥り、自分たちより強力な武器と多くの兵士を備える相手と話をする必要が生じたら、そのときは、何か旗の代用品を見つけなければなりません」
アメリカ歴史博物館の学芸員として「米国の大統領職」の展示を担当するリサ・キャスリーン・グラディー氏は、博物館を訪れる人にとって、休戦の旗は政治的信条、生い立ち、家族の歴史、人生経験、アイデンティティーによって異なる意味を持つと考えている。そして、南軍が北軍に降伏したのは160年近く前だが、この旗が象徴するものは時とともに変化し続けている。
「物の素晴らしいところは、その瞬間の感情や重要性を物理的にも比喩的にも持ち続けることであり、だからこそ私たちはそれを保存するのです」とグラディー氏は話す。「しかし、解釈は見る人によって異なります。苦々しい瞬間とも言えますし、勝利の瞬間とも言えます」南北戦争の旗として有名な南軍旗も同様だ。休戦の旗がほとんど知られていない一方で、南軍旗は人種差別の象徴になり、ベビー服からキーホルダーまで、あらゆるものに使われている。米アマースト大学の芸術・芸術史教授であるアーティストのソーニャ・クラーク氏は、フィラデルフィアのファブリック・ワークショップ・アンド・ミュージアムで2019年に開いた展覧会「Monumental Cloth, The Flag We Should Know(記念碑的な布、私たちが知るべき旗)」で、2つの旗の対照的な歴史を探究した。クラーク氏がこの展覧会で伝えようとしたのは、対立をあおる南軍旗ではなく、平和をもたらす休戦の旗が米国の物語で優位を占める世界を想像してほしいということだった。
だがそれから4年後の今、ジョージ・フロイド氏の死が米国の人種問題を浮き彫りにし、白人至上主義者が民主主義を脅かし続けるなか、休戦の旗が持つ意味に対するクラーク氏の思いは複雑になる一方だ。氏は問いかける。「私たちは、いったいどのような進歩を遂げられたでしょうか?」
文=SARAH KUTA/訳=米井香織
#山中一辉[超话]#
マンスリーゲストとして昨日最後の出演だった #浅野ゆう子 さん
放送後にみんなで記念写真を撮りました☺️✨
1か月間、本当にありがとうございました!!
#サタプラ #丸山隆平 # 関ジャニ #清水麻椰
#島崎和歌子 さん #雛形あきこ さん # 銀シャリ さん #山中一輝 くん # 岩倉司 くん
マンスリーゲストとして昨日最後の出演だった #浅野ゆう子 さん
放送後にみんなで記念写真を撮りました☺️✨
1か月間、本当にありがとうございました!!
#サタプラ #丸山隆平 # 関ジャニ #清水麻椰
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【G1復刻】ゴールドシップ史上初の連覇 横山典「お願い」に応え“人馬一体”で偉業/宝塚記念
<宝塚記念>◇2014年6月29日=阪神◇G1◇芝2200メートル◇3歳上◇出走12頭
「仕事人」横山典弘騎手(46)の手により、ゴールドシップ(牡5、須貝)が史上初の連覇を飾った。レース前はしきりになだめられ、道中は果敢に先団につけると、最後の直線は横山典騎手に「お願い」されて突き抜けた。昨年同様、緩んだ馬場も味方に2着カレンミロティックに3馬身差のG1・5勝目。今後は未定だが、僚馬ジャスタウェイとともに登録している凱旋門賞(G1、芝2400メートル、10月5日=ロンシャン)への楽しみも膨らむ。
◇ ◇ ◇
白い馬体がグイグイ伸びる。後ろでもがくライバルたちを置き去りにし、スタンドの大声援を受けてゴールを駆け抜けた。2着馬に3馬身差。史上初の宝塚記念連覇を完勝で飾った。
「(勝因は)馬がきちんと走ったということ」。ダービーのワンアンドオンリーに続き、関西馬のG1勝利を請け負った横山典はパートナーをほめる。そんなコンビを須貝師は「まさに人馬一体」とたたえた。
ゴールドシップは気性が激しく気分屋だ。前走の天皇賞・春ではゲートに入る際、係員にお尻を押された。「プライドが高く、お尻を触られるのが大嫌い。あれが痛かった」と須貝師。ゲート内でほえて立ち上がり、大きく出遅れた。
騎乗依頼を受けた横山典はゴールドシップに寄り添った。「人間でも初対面だと相手がどんな人か分からない。それは馬でも一緒。実際に会って理解し合わないと…」。本拠地とする美浦から栗東まで、片道5時間要する距離を3週続けて通った。上から押しつけたり指示するのではなく、ひたすら会話する。「お願いするんだよ。僕は乗せてもらう立場。いかに気分よく走ってもらうか」。レース本番でも同じ。レース前は首をなでて落ち着かせ、最後の直線も「お願いします。最後まで頑張ってください」と話しかけたという。
それは須貝師の馬づくりの基本“馬本位”とも合致した。「ノリちゃんと僕の考え方はすべて一致した。何も言うことはなかった」。師も趣味は馬房の前に立ち、ひたすら馬と遊ぶこと。陣営の意思統一が、史上初の偉業を運んできた。「成績が示す通り。これがこの馬の力」と任務を完了した仕事人は胸を張った。
今後は未定だが国内に限らず、登録している凱旋門賞を含め幅広い選択肢から選ばれる。「まずは馬の様子を見てから決めたい」と須貝師。世界1位のジャスタウェイと厩舎のダブルエースは「世界制覇」の夢を広げてくれそうだ。【岡本光男】
◆ゴールドシップ ▽父 ステイゴールド▽母 ポイントフラッグ(メジロマックイーン)▽牡5▽馬主 小林英一▽調教師 須貝尚介(栗東)▽生産者 出口牧場(北海道日高町)▽戦績 19戦11勝▽総収得賞金 11億167万7000円▽主な勝ち鞍 12年共同通信杯(G3)皐月賞(G1)神戸新聞杯(G2)菊花賞(G1)有馬記念(G1)13年阪神大賞典(G2)宝塚記念(G1)14年阪神大賞典(G2)▽馬名の由来 黄金の船。
(2014年6月30日付 日刊スポーツ紙面から)※表記は当時
<宝塚記念>◇2014年6月29日=阪神◇G1◇芝2200メートル◇3歳上◇出走12頭
「仕事人」横山典弘騎手(46)の手により、ゴールドシップ(牡5、須貝)が史上初の連覇を飾った。レース前はしきりになだめられ、道中は果敢に先団につけると、最後の直線は横山典騎手に「お願い」されて突き抜けた。昨年同様、緩んだ馬場も味方に2着カレンミロティックに3馬身差のG1・5勝目。今後は未定だが、僚馬ジャスタウェイとともに登録している凱旋門賞(G1、芝2400メートル、10月5日=ロンシャン)への楽しみも膨らむ。
◇ ◇ ◇
白い馬体がグイグイ伸びる。後ろでもがくライバルたちを置き去りにし、スタンドの大声援を受けてゴールを駆け抜けた。2着馬に3馬身差。史上初の宝塚記念連覇を完勝で飾った。
「(勝因は)馬がきちんと走ったということ」。ダービーのワンアンドオンリーに続き、関西馬のG1勝利を請け負った横山典はパートナーをほめる。そんなコンビを須貝師は「まさに人馬一体」とたたえた。
ゴールドシップは気性が激しく気分屋だ。前走の天皇賞・春ではゲートに入る際、係員にお尻を押された。「プライドが高く、お尻を触られるのが大嫌い。あれが痛かった」と須貝師。ゲート内でほえて立ち上がり、大きく出遅れた。
騎乗依頼を受けた横山典はゴールドシップに寄り添った。「人間でも初対面だと相手がどんな人か分からない。それは馬でも一緒。実際に会って理解し合わないと…」。本拠地とする美浦から栗東まで、片道5時間要する距離を3週続けて通った。上から押しつけたり指示するのではなく、ひたすら会話する。「お願いするんだよ。僕は乗せてもらう立場。いかに気分よく走ってもらうか」。レース本番でも同じ。レース前は首をなでて落ち着かせ、最後の直線も「お願いします。最後まで頑張ってください」と話しかけたという。
それは須貝師の馬づくりの基本“馬本位”とも合致した。「ノリちゃんと僕の考え方はすべて一致した。何も言うことはなかった」。師も趣味は馬房の前に立ち、ひたすら馬と遊ぶこと。陣営の意思統一が、史上初の偉業を運んできた。「成績が示す通り。これがこの馬の力」と任務を完了した仕事人は胸を張った。
今後は未定だが国内に限らず、登録している凱旋門賞を含め幅広い選択肢から選ばれる。「まずは馬の様子を見てから決めたい」と須貝師。世界1位のジャスタウェイと厩舎のダブルエースは「世界制覇」の夢を広げてくれそうだ。【岡本光男】
◆ゴールドシップ ▽父 ステイゴールド▽母 ポイントフラッグ(メジロマックイーン)▽牡5▽馬主 小林英一▽調教師 須貝尚介(栗東)▽生産者 出口牧場(北海道日高町)▽戦績 19戦11勝▽総収得賞金 11億167万7000円▽主な勝ち鞍 12年共同通信杯(G3)皐月賞(G1)神戸新聞杯(G2)菊花賞(G1)有馬記念(G1)13年阪神大賞典(G2)宝塚記念(G1)14年阪神大賞典(G2)▽馬名の由来 黄金の船。
(2014年6月30日付 日刊スポーツ紙面から)※表記は当時
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