「長篠の戦い」のスゴい伝令役は、鳥居強右衛門だけじゃない!
織田・徳川連合軍と武田勝頼軍とが戦いを繰り広げた長篠の戦い、その激しい戦いのさなか、命を賭けて主家の窮地を救わんとした人物がいた。それが、後世「武士の鑑」とまで称えられた鳥居強右衛門(とりい・すねえもん)であったことは、よく知られるところである(「どうする家康」では岡崎体育が演じた)。しかし、その陰に隠れているが、もう一人の伝令役・鈴木金七郎(きんしちろう)がいたことも忘れてはならないだろう。その活躍ぶりとは、いったいどのようなものだったのだろうか?
■足軽から「武士の鑑」へ
もともとこの鳥居強右衛門、身分は武士と農民の間に位置するような足軽にすぎなかった。にもかかわらず後世、「武士の鑑」として賞賛されたのはなぜか? それは、彼が自らの命をもものともせず、主家である奥平家の窮地を救ったからであった。今回はその経緯を振り返ってみることにしよう。
時は、織田信長・徳川家康の連合軍と武田勝頼とが戦いを繰り広げた「長篠の戦い」のさなか、天正3(1575)年5月のことであった。前月には武田信玄が入滅。息子・勝頼が跡を継ぐも、その傘下にいた奥平(おくだいら)家の当主・貞能(さだよし)が徳川家に寝返ったことで、強右衛門も徳川方として、この戦いに加わっていた。
三河国の東端に位置する長篠城を守るのは、奥平貞能の長男・貞昌(さだまさ)であった。500の兵をもって守りを固めるも、勝頼率いる1万5000もの武田軍が押し寄せてきたからたまらない。兵糧庫も焼かれて絶体絶命。もはや降伏するしか手立てがない、というところまで追い詰められていたのである。そして最後の手段が、「家康がいる岡崎城へ、援軍を要請する」ということ。その使者としての役目を仰せつかったのが、この強右衛門であった。しかし、その頃の長篠城といえば、周囲をぐるりと武田軍に取り囲まれ、一分の隙も見当たらないという状況である。
そんな中の、強行突破。手立ては、下水口に潜り込んで、豊川をたどって脱出するという、実に危険極まりない方法であった。さらにそこから片道50キロはゆうに超えそうな道のり(65キロとも)を一気に駆け抜けて岡崎城へたどり着いたというから、驚くばかりの体力である。ともあれ援軍を要請、その確約を得るや、休む暇もなく再び長篠城へと駆け出した。
■武田軍に「ウソ」を強要されるも…
しかし、運悪く鳥居強右衛門は、長篠城を前にして武田軍に捕まってしまった。徳川勢が援軍として押しかけてくることを知った勝頼は、その到着前に長篠城を落とす必要があると判断。
そして強右衛門に対し、「援軍が来ないから早々に城を明け渡すように」とのニセ情報を伝えるよう強要した。その方法が、強右衛門を磔にしたまま、長篠城に向かって叫ばせるというものであった(長篠城間際まで引っ立てて叫ばせたとの説も)。万が一、かれが本当のことを言えば、即座に斬り殺そうと待ち構えていたのである。
これに対して、表向きは勝頼の言う通りにするとして磔にされる強右衛門。その姿のまま、長篠城に向かって叫び始めたのである。しかし、彼の口から発せられた言葉は、なんと、家康が援軍としてやってくるという事実そのものであった。「2~3日のうちに援軍がやってくるから、それまで持ちこたえるように」と。
もちろん、勝頼が激怒したことはいうまでもない。即座に斬り殺されてしまった。しかし、強右衛門の命を賭けたひと言によって長篠城内は湧きたち、武田軍の猛攻をかろうじて凌ぐことができたのであった。 もともと三河の小豪族に過ぎなかった奥平家も、この家臣・強右衛門らの活躍によって主家としての名も高まり、江戸時代には10万石の大名にまで上り詰めたという。
■もう一人の伝令役・鈴木金七郎
さて、以上が鳥居強右衛門にまつわるお話であるが、本題とすべきはここから。奥平家の窮地を救わんと長篠城からの脱出を試みたのは、強右衛門だけではなかった。もう一人、鈴木金七郎(重政)なる人物にも、「強右衛門だけでは心もとない」として、同行するよう命が下されていたのである。
当時の記録『長篠日記』によれば、「水練上手なり。その上、物馴れし者」だったことが選ばれた理由だったとか。「水練」、つまり泳ぎが達者で、加えて「物馴れし者」というから、おそらくは狼煙(のろし)をあげる手筈を心得ていたことによるものだったのだろう。土地勘があったことも、選ばれた条件だったはずである。
強右衛門に続いて金七郎も、豊川を泳ぎわたって広瀬に上陸。金七郎の家(愛知県新城市富永屋川)に立ち寄って装束を整え、狼煙をあげるのに必要な材料を背負って628mの雁峰山(がんぼうさん)に登り、ひとまず脱出成功を知らせる狼煙をあげた。また、それに先立って鈴木家の守り神である白山社に無事を祈願することも忘れなかったというから、憎いばかりに落ち着いた心持ちである。ただし、豊川に潜り込んだ際には相当苦労したようで、鳴子(触れると音が鳴る縄)や仕掛け網に引っかからぬよう、慎重かつ迅速に動いた末の脱出劇だったと言う。
ともあれ、岡崎城へと無事たどり着いた金七郎。明日にも援軍が出立できそうだと知らされるや否や、長篠城の北西1キロほどのところに位置する涼み松という松林に入った。長篠城下の人々の目に触れることを祈りながら、「援軍来る」の狼煙を上げたのである(狼煙を上げたのは強右衛門で、金七郎は岡崎城に留まっていたとの説も)。
大役を成し遂げた金七郎は、岡崎城に戻り、嫡子でなかったこともあって帰農したと伝えられている。前述の強右衛門が「武士の鑑」とまでもてはやされたのに対して、金七郎の存在はいつしか忘れられ、知る人ぞ知る状況になってしまったことは哀しいとしか言いようがない。
ただ、その子孫が今も存命というばかりか、金七郎の功績を見直そうとの機運が高まりつつあるというのが、わずかな救いである。もう一人の伝令役として活躍した金七郎なる人物がいたことも、是非とも頭に入れておいていただきたいと思うのだ。
・画像…落合左平次道次背旗(東京大学史料編纂所所蔵)を編集部にて一部トリミング
藤井勝彦
織田・徳川連合軍と武田勝頼軍とが戦いを繰り広げた長篠の戦い、その激しい戦いのさなか、命を賭けて主家の窮地を救わんとした人物がいた。それが、後世「武士の鑑」とまで称えられた鳥居強右衛門(とりい・すねえもん)であったことは、よく知られるところである(「どうする家康」では岡崎体育が演じた)。しかし、その陰に隠れているが、もう一人の伝令役・鈴木金七郎(きんしちろう)がいたことも忘れてはならないだろう。その活躍ぶりとは、いったいどのようなものだったのだろうか?
■足軽から「武士の鑑」へ
もともとこの鳥居強右衛門、身分は武士と農民の間に位置するような足軽にすぎなかった。にもかかわらず後世、「武士の鑑」として賞賛されたのはなぜか? それは、彼が自らの命をもものともせず、主家である奥平家の窮地を救ったからであった。今回はその経緯を振り返ってみることにしよう。
時は、織田信長・徳川家康の連合軍と武田勝頼とが戦いを繰り広げた「長篠の戦い」のさなか、天正3(1575)年5月のことであった。前月には武田信玄が入滅。息子・勝頼が跡を継ぐも、その傘下にいた奥平(おくだいら)家の当主・貞能(さだよし)が徳川家に寝返ったことで、強右衛門も徳川方として、この戦いに加わっていた。
三河国の東端に位置する長篠城を守るのは、奥平貞能の長男・貞昌(さだまさ)であった。500の兵をもって守りを固めるも、勝頼率いる1万5000もの武田軍が押し寄せてきたからたまらない。兵糧庫も焼かれて絶体絶命。もはや降伏するしか手立てがない、というところまで追い詰められていたのである。そして最後の手段が、「家康がいる岡崎城へ、援軍を要請する」ということ。その使者としての役目を仰せつかったのが、この強右衛門であった。しかし、その頃の長篠城といえば、周囲をぐるりと武田軍に取り囲まれ、一分の隙も見当たらないという状況である。
そんな中の、強行突破。手立ては、下水口に潜り込んで、豊川をたどって脱出するという、実に危険極まりない方法であった。さらにそこから片道50キロはゆうに超えそうな道のり(65キロとも)を一気に駆け抜けて岡崎城へたどり着いたというから、驚くばかりの体力である。ともあれ援軍を要請、その確約を得るや、休む暇もなく再び長篠城へと駆け出した。
■武田軍に「ウソ」を強要されるも…
しかし、運悪く鳥居強右衛門は、長篠城を前にして武田軍に捕まってしまった。徳川勢が援軍として押しかけてくることを知った勝頼は、その到着前に長篠城を落とす必要があると判断。
そして強右衛門に対し、「援軍が来ないから早々に城を明け渡すように」とのニセ情報を伝えるよう強要した。その方法が、強右衛門を磔にしたまま、長篠城に向かって叫ばせるというものであった(長篠城間際まで引っ立てて叫ばせたとの説も)。万が一、かれが本当のことを言えば、即座に斬り殺そうと待ち構えていたのである。
これに対して、表向きは勝頼の言う通りにするとして磔にされる強右衛門。その姿のまま、長篠城に向かって叫び始めたのである。しかし、彼の口から発せられた言葉は、なんと、家康が援軍としてやってくるという事実そのものであった。「2~3日のうちに援軍がやってくるから、それまで持ちこたえるように」と。
もちろん、勝頼が激怒したことはいうまでもない。即座に斬り殺されてしまった。しかし、強右衛門の命を賭けたひと言によって長篠城内は湧きたち、武田軍の猛攻をかろうじて凌ぐことができたのであった。 もともと三河の小豪族に過ぎなかった奥平家も、この家臣・強右衛門らの活躍によって主家としての名も高まり、江戸時代には10万石の大名にまで上り詰めたという。
■もう一人の伝令役・鈴木金七郎
さて、以上が鳥居強右衛門にまつわるお話であるが、本題とすべきはここから。奥平家の窮地を救わんと長篠城からの脱出を試みたのは、強右衛門だけではなかった。もう一人、鈴木金七郎(重政)なる人物にも、「強右衛門だけでは心もとない」として、同行するよう命が下されていたのである。
当時の記録『長篠日記』によれば、「水練上手なり。その上、物馴れし者」だったことが選ばれた理由だったとか。「水練」、つまり泳ぎが達者で、加えて「物馴れし者」というから、おそらくは狼煙(のろし)をあげる手筈を心得ていたことによるものだったのだろう。土地勘があったことも、選ばれた条件だったはずである。
強右衛門に続いて金七郎も、豊川を泳ぎわたって広瀬に上陸。金七郎の家(愛知県新城市富永屋川)に立ち寄って装束を整え、狼煙をあげるのに必要な材料を背負って628mの雁峰山(がんぼうさん)に登り、ひとまず脱出成功を知らせる狼煙をあげた。また、それに先立って鈴木家の守り神である白山社に無事を祈願することも忘れなかったというから、憎いばかりに落ち着いた心持ちである。ただし、豊川に潜り込んだ際には相当苦労したようで、鳴子(触れると音が鳴る縄)や仕掛け網に引っかからぬよう、慎重かつ迅速に動いた末の脱出劇だったと言う。
ともあれ、岡崎城へと無事たどり着いた金七郎。明日にも援軍が出立できそうだと知らされるや否や、長篠城の北西1キロほどのところに位置する涼み松という松林に入った。長篠城下の人々の目に触れることを祈りながら、「援軍来る」の狼煙を上げたのである(狼煙を上げたのは強右衛門で、金七郎は岡崎城に留まっていたとの説も)。
大役を成し遂げた金七郎は、岡崎城に戻り、嫡子でなかったこともあって帰農したと伝えられている。前述の強右衛門が「武士の鑑」とまでもてはやされたのに対して、金七郎の存在はいつしか忘れられ、知る人ぞ知る状況になってしまったことは哀しいとしか言いようがない。
ただ、その子孫が今も存命というばかりか、金七郎の功績を見直そうとの機運が高まりつつあるというのが、わずかな救いである。もう一人の伝令役として活躍した金七郎なる人物がいたことも、是非とも頭に入れておいていただきたいと思うのだ。
・画像…落合左平次道次背旗(東京大学史料編纂所所蔵)を編集部にて一部トリミング
藤井勝彦
危険」な住宅に人が…なぜ?独自調査 石川 珠洲 地震1か月
2023年6月5日 6時46分
石川県珠洲市で震度6強の揺れを観測する地震が発生してから、5日で1か月です。現地では今も、被災した住宅を修繕できないまま生活を続けている人たちがいます。
いったいなぜなのか。NHKの調査から見えてきた実情とは。
【1か月前に地区を襲った地震は】
1か月前の5月5日の午後3時前、石川県の能登地方を震源とするマグニチュード6.5の地震が発生し、石川県珠洲市で震度6強の揺れを観測しました。
珠洲市内だけで657棟の住宅被害が確認されていますが、経済的な事情や工事業者が依頼に対応しきれないなどの理由から、住宅を修繕できないまま生活を続けている住民が多くいます。
市内で建物被害が特に多いのは正院町正院で、地震の後に自治体が行った建物の応急的な調査=「応急危険度判定」では、納屋や倉庫を含むおよそ100棟が倒壊や落下物などのおそれがある「危険」と判定されています。
【地区の調査で見えたのは】
今の生活はどうなっているのか、NHKはこの地区を調査しました。
「危険」判定の37棟に住民
玄関先に貼られた赤いステッカーなどをもとに「危険」判定の建物を調査したところ、納屋や倉庫を除く住宅は65棟でその半数を超える37棟に住民が暮らしていました。
このほか、空き家が3割以上の23棟で、住民の公営住宅や親戚の家への避難・転居が確認されたケースが3棟でした。
「危険」判定の住民半数以上で修繕めど立たず
「危険」と判定された37棟の住宅で暮らす人に修繕のめどが立っているかを尋ねたところ「めどは立っていない」と回答した割合が57%。
「めどが立っている、または修繕の必要がないと考えている」と回答した割合が11%でした。
転居や避難をしない理由は?
転居や避難をしない理由を複数回答で尋ねると、「生活は可能だから」という回答の割合が49%だった一方、「危険を感じるが、慣れた場所を離れたくない、離れられない」などの回答が32%、「仮設住宅などでの生活に不安や抵抗感がある」といった回答が24%ありました。
珠洲市では65歳以上の人の割合が去年10月時点で52.8%にのぼり、今回の調査で被災した住宅に残っていたのも高齢者が多く、住宅の修繕や転居に踏み切れない理由の1つと考えられます。
石川県の能登地方ではその後も地震が相次いでいて、被災した住宅の修繕や住民の生活をどう支えるのかが課題になっています。
【「危険」でも離れられない理由は】
応急危険度判定で「危険」と判定された住宅に暮らす人たちからは、地震が続くことへの不安を感じながらも自宅を離れられないさまざまな事情が聞かれました。
当面、修繕工事できず
正院町正院で1人暮らしの奥ふみ子さん(88)の自宅は基礎の部分が傾き、敷地のブロック塀が倒れるなどの被害がありました。
業者に修繕を頼んでいますが、依頼が殺到していて当面、工事はできないと言われています。
足が不自由なこともあり、自分をよく知る人が周りにいる地域を離れることには不安を感じるといいます。
奥さんは「今の家でも寝起きはできるし、何かあれば、近所どうし声もかけられます。ほかの場所に移るのは心が落ち着かないので嫌です」と話していました。
「家のことが心配」
澤田洋子さん(81)の自宅は屋根瓦が落ちたり、窓ガラスが割れたりする被害があり、先月30日に取材した時にも窓枠にはブルーシートが張られていました。
澤田さんには、金沢市で暮らす娘もいますが、自宅を離れることは考えていないといい「再び地震が来る怖さはありますが、ほかの場所に行っても家のことが心配になるので一緒だと思います。倒壊まではしないと思うし、悩んでも仕方がないです」と話していました。
「受験控える娘が…」 比較的新しいスペースで生活
岡村好志美さん(48)の自宅は築100年の伝統的な家屋で、地震で外壁の一部が崩れ落ち、柱が傾いたり基礎部分にひびが入ったりしました。
修繕を依頼した業者からは「次に大きな地震が来れば倒壊するおそれが大きい」と言われていますが、工事を開始できるめどはまだ立っていません。
岡村さんは「仮設住宅に移れるなら移りたい気持ちもありますが、受験を控えた高校生の娘の通学や、自分たち夫婦の仕事のことを考えると環境を変えることは難しい」と話しています。
家族はいつ来るかわからない地震に備え、比較的新しい、増築されたスペースで生活を送っていますが、業者から「工事をしても住宅の安全性は十分ではない」と言われているということです。
岡村さんは「経済的に家を建て直すことは難しいし、どこまでお金をかけて修繕すればよいか頭を悩ませています」と話していました。
【「危険」判定の住宅 3割超が空き家】
今回、正院町正院で取材した「危険」判定の住宅65棟のうち、3割を超える23棟が空き家でした。
珠洲市によりますと、空き家の中には、老朽化が進み倒壊の危険などがあるにもかかわらず、所有者と連絡がついていないものもあるということです。
珠洲市は1950年代に3万8000人を超えていた人口が、ことし5月時点で1万2000人台にまで落ち込むなど人口減少が続き、空き家が急増しています。
「危険」と判定された空き家の近くに住む男性は「20年以上放置されていた空き家が傾いていて、次に大きな地震が来れば倒壊してしまうのではないかと心配しています。空き家の前を散歩しているお年寄りを見ていても危険性を感じるので、解体などの対応を早くしてほしい」と不安を語っていました。
【自治体 手続きや精神面のサポートへ】
危険性が指摘された住宅で生活を続ける人たちについて、石川県珠洲市の泉谷満寿裕市長は「できるだけ修繕をして、慣れ親しんだ自宅や地域で住み続けてほしいと思っているが、高齢であることや経済的な事情からそのめどが立たないか、そもそも修繕するかどうかを悩んでいる人もいる。何から手をつけてよいか、わからない人も多い」と述べ、巡回訪問などを通じて手続きや精神面のサポートを行っていく考えを示しました。
また、被災した住宅の解体・修繕を行う人の費用負担を軽減する市独自の支援を検討していること、自宅での生活が困難な人たちの長期的な住まいを確保するため、国と連携し災害公営住宅を整備することも検討していく方針を示しました。
【専門家 “個々の状況やニーズ踏まえた支援を”】
地震や水害などで住宅が被害を受け応急危険度判定で「危険」とされたものの、そこで住民が生活を続けるケースは過去も相次いでいます。
地域防災に詳しく、7年前の熊本地震で被災者の生活状況などを調査した熊本県立大学の澤田道夫教授は、珠洲市の現状について「危険性がある住宅で住民が生活を続ける状況は熊本地震の際にもあった。地震が継続する中、被害を受けるリスクが高いうえ仮設住宅などに入居した場合と比べて行政からの情報が届きにくく、必要な支援を受けられない懸念もある」と指摘しています。
高齢者が多いことについて澤田教授は「特に高齢者の場合、被災した住宅を再建しても資金返済のあてがないとして最初から諦めてしまうケースがあり、支援の存在を知らないままの人もいる」としています。
その上で「行政にはわかりやすいことばで支援制度を説明することが求められる。例えば被災者が住み慣れた地域に災害公営住宅を整備するなど、個々の状況やニーズを踏まえた支援を行う必要がある」としています。
一方で、規模の大きい災害で被災者のニーズに幅広く対応するためには、珠洲市の財政規模では難しいことが想定され、国や県がより踏み込んだ形でサポートしていくことが必要だと話しています。
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2023年6月5日 6時46分
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いったいなぜなのか。NHKの調査から見えてきた実情とは。
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1か月前の5月5日の午後3時前、石川県の能登地方を震源とするマグニチュード6.5の地震が発生し、石川県珠洲市で震度6強の揺れを観測しました。
珠洲市内だけで657棟の住宅被害が確認されていますが、経済的な事情や工事業者が依頼に対応しきれないなどの理由から、住宅を修繕できないまま生活を続けている住民が多くいます。
市内で建物被害が特に多いのは正院町正院で、地震の後に自治体が行った建物の応急的な調査=「応急危険度判定」では、納屋や倉庫を含むおよそ100棟が倒壊や落下物などのおそれがある「危険」と判定されています。
【地区の調査で見えたのは】
今の生活はどうなっているのか、NHKはこの地区を調査しました。
「危険」判定の37棟に住民
玄関先に貼られた赤いステッカーなどをもとに「危険」判定の建物を調査したところ、納屋や倉庫を除く住宅は65棟でその半数を超える37棟に住民が暮らしていました。
このほか、空き家が3割以上の23棟で、住民の公営住宅や親戚の家への避難・転居が確認されたケースが3棟でした。
「危険」判定の住民半数以上で修繕めど立たず
「危険」と判定された37棟の住宅で暮らす人に修繕のめどが立っているかを尋ねたところ「めどは立っていない」と回答した割合が57%。
「めどが立っている、または修繕の必要がないと考えている」と回答した割合が11%でした。
転居や避難をしない理由は?
転居や避難をしない理由を複数回答で尋ねると、「生活は可能だから」という回答の割合が49%だった一方、「危険を感じるが、慣れた場所を離れたくない、離れられない」などの回答が32%、「仮設住宅などでの生活に不安や抵抗感がある」といった回答が24%ありました。
珠洲市では65歳以上の人の割合が去年10月時点で52.8%にのぼり、今回の調査で被災した住宅に残っていたのも高齢者が多く、住宅の修繕や転居に踏み切れない理由の1つと考えられます。
石川県の能登地方ではその後も地震が相次いでいて、被災した住宅の修繕や住民の生活をどう支えるのかが課題になっています。
【「危険」でも離れられない理由は】
応急危険度判定で「危険」と判定された住宅に暮らす人たちからは、地震が続くことへの不安を感じながらも自宅を離れられないさまざまな事情が聞かれました。
当面、修繕工事できず
正院町正院で1人暮らしの奥ふみ子さん(88)の自宅は基礎の部分が傾き、敷地のブロック塀が倒れるなどの被害がありました。
業者に修繕を頼んでいますが、依頼が殺到していて当面、工事はできないと言われています。
足が不自由なこともあり、自分をよく知る人が周りにいる地域を離れることには不安を感じるといいます。
奥さんは「今の家でも寝起きはできるし、何かあれば、近所どうし声もかけられます。ほかの場所に移るのは心が落ち着かないので嫌です」と話していました。
「家のことが心配」
澤田洋子さん(81)の自宅は屋根瓦が落ちたり、窓ガラスが割れたりする被害があり、先月30日に取材した時にも窓枠にはブルーシートが張られていました。
澤田さんには、金沢市で暮らす娘もいますが、自宅を離れることは考えていないといい「再び地震が来る怖さはありますが、ほかの場所に行っても家のことが心配になるので一緒だと思います。倒壊まではしないと思うし、悩んでも仕方がないです」と話していました。
「受験控える娘が…」 比較的新しいスペースで生活
岡村好志美さん(48)の自宅は築100年の伝統的な家屋で、地震で外壁の一部が崩れ落ち、柱が傾いたり基礎部分にひびが入ったりしました。
修繕を依頼した業者からは「次に大きな地震が来れば倒壊するおそれが大きい」と言われていますが、工事を開始できるめどはまだ立っていません。
岡村さんは「仮設住宅に移れるなら移りたい気持ちもありますが、受験を控えた高校生の娘の通学や、自分たち夫婦の仕事のことを考えると環境を変えることは難しい」と話しています。
家族はいつ来るかわからない地震に備え、比較的新しい、増築されたスペースで生活を送っていますが、業者から「工事をしても住宅の安全性は十分ではない」と言われているということです。
岡村さんは「経済的に家を建て直すことは難しいし、どこまでお金をかけて修繕すればよいか頭を悩ませています」と話していました。
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今回、正院町正院で取材した「危険」判定の住宅65棟のうち、3割を超える23棟が空き家でした。
珠洲市によりますと、空き家の中には、老朽化が進み倒壊の危険などがあるにもかかわらず、所有者と連絡がついていないものもあるということです。
珠洲市は1950年代に3万8000人を超えていた人口が、ことし5月時点で1万2000人台にまで落ち込むなど人口減少が続き、空き家が急増しています。
「危険」と判定された空き家の近くに住む男性は「20年以上放置されていた空き家が傾いていて、次に大きな地震が来れば倒壊してしまうのではないかと心配しています。空き家の前を散歩しているお年寄りを見ていても危険性を感じるので、解体などの対応を早くしてほしい」と不安を語っていました。
【自治体 手続きや精神面のサポートへ】
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また、被災した住宅の解体・修繕を行う人の費用負担を軽減する市独自の支援を検討していること、自宅での生活が困難な人たちの長期的な住まいを確保するため、国と連携し災害公営住宅を整備することも検討していく方針を示しました。
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地震や水害などで住宅が被害を受け応急危険度判定で「危険」とされたものの、そこで住民が生活を続けるケースは過去も相次いでいます。
地域防災に詳しく、7年前の熊本地震で被災者の生活状況などを調査した熊本県立大学の澤田道夫教授は、珠洲市の現状について「危険性がある住宅で住民が生活を続ける状況は熊本地震の際にもあった。地震が継続する中、被害を受けるリスクが高いうえ仮設住宅などに入居した場合と比べて行政からの情報が届きにくく、必要な支援を受けられない懸念もある」と指摘しています。
高齢者が多いことについて澤田教授は「特に高齢者の場合、被災した住宅を再建しても資金返済のあてがないとして最初から諦めてしまうケースがあり、支援の存在を知らないままの人もいる」としています。
その上で「行政にはわかりやすいことばで支援制度を説明することが求められる。例えば被災者が住み慣れた地域に災害公営住宅を整備するなど、個々の状況やニーズを踏まえた支援を行う必要がある」としています。
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sexyzone_jIG更新
2023/6/3
【帰ってきたぞよ!コタローは1人暮らし】本日8話放送日です。
そして、放送終了後26:55からは、スピンオフドラマ【佑どののジブン探し】前編が地上波で放送されます。
本作品で亮太役として出演中の吉村界人さん。
僕がまだ芝居とは無縁の時から、ずっと憧れ尊敬している俳優さんです。
界人くんのように、人を惹きつける芝居ができるようになりたい。
僕にとって永遠の課題です…
佑として、界人くん演じる亮太と掛け合いができた事、本当に嬉しかったです。
他にも語りたい事はありですが、続きはまた今度たっぷりと!!
byそー
#帰ってきたぞよ!コタローは1人暮らし
#佑どののジブン探し
#亮太
#吉村界人さん
#普段はちゃっかり界人くん呼び
#朝は、おはよう。って連絡をくださいます。
#今はそれを見て仕事に出勤するのがルーティンになってます(´ω`)##sexyzone#
2023/6/3
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byそー
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