往復書簡33
「若いうちはガンガン遊べ」と言うけれど
片寄涼太(GENERATIONS from EXILE TRIBE)×作詞家・小竹正人 往復書簡 エンタメ 芸能 2021年3月7日掲載
片寄涼太
先日銀座で行われたGIVENCHYのイベントの様子。新コレクションが始まりました。仕事モードの雰囲気もお届けさせて頂きます(他の写真を見る)
片寄涼太(GENERATIONS from EXILE TRIBE)×作詞家・小竹正人 往復書簡33
遊びたいように遊ぶなんて出来るわけがない。携帯・スマートフォンとSNSの普及が、遊び方やモラルを完全に変化させたと片寄は言う。
拝啓 小竹正人さま
昭和の人たちはみんな口を揃えて「若いうちはガンガン遊べ」とか「若いのだから寝なくても余裕でしょう」「どれだけ食べても太らないでしょう」なんてことをとにかく言う。
この往復書簡を覗き見してくださっている方の中に、こんな台詞を使った覚えがある、あるいは言われた経験のある方はいらっしゃるでしょうか?
僕もエネルギッシュにイケイケでパワフルな人生を謳歌してみたかったな、なんて思うときがあります。
“昭和っぽい”時間の過ぎ方(そんな定義があるのかはわかりませんが)に憧れがないわけではありません。
しかしながら平成という時代に生まれたからなのか、あくまで僕の個人的見解ですが、その類の台詞はなんだかピンと来ないなあと感じます。
そういうパワフルな台詞たちは、顔面ド真ん中より少し右とか左とかに逸れて、耳のそばを豪速球で通り過ぎるみたいに聞こえてくる感じ。
正直疲れていれば多少は寝たいし、カロリーオーバーなものを食べすぎればやっぱりそれなりに太る。
まあこれが年をとっていけばそれでは済まなくなっていくということなのかもしれません。
ただ最もピンと来ないのは、ガンガン遊べということです。
このコロナ禍はもちろんですが、そうなる前から状況や時代は結構違う気がしています。
とくに昨今の芸能人は昭和のそれとは明らかに全く違うのです。
街を歩く人たち全員が写真週刊誌の記者さんだと思ってもいいくらい、誰もがスマホのカメラを自由に使いソーシャルネットワークですぐに目撃情報が呟かれる。
遊びたいように遊ぶなんて出来るわけがないのです。携帯・スマートフォンとSNSの普及が、遊び方やモラルを完全に変化させたということです。
なら誰かに責められるようなことや非難を浴びるようなことを自制した上であれば、心地よく楽しい時間を過ごせば良いのです。
カジキマグロのグリル
ランチにカフェで食べたカジキマグロのグリル。カジキマグロは英語で「swordfish」。魚の種類を英語で覚えるのは途方に暮れる思いです…(他の写真を見る)
ですがここ数年目立つのは芸能人か政治家さんのスキャンダルのニュース。
確かにやってはいけないことをしたのであれば仕方ないとは思うのですが、何のせいと一概には言えない、集団的見えない負のループのようなものが確立されてしまっていて、本来そこまで恐ろしいものであっていいのか? と疑問に思うほど、SNSやメディアのことが恐ろしくなってきていると感じます。
このようなネガティブのループではなく、ポジティブのループを個人がそれぞれでつくっていけたらどんなに素敵な世界だろうと思います。
別にどこの国に倣えというわけではありませんが、例えばハリウッドスターのオープンな交際のように、アメリカ=自由の国と言われるだけあって、それぞれの生き方が尊重されるような文化を感じます(きっとアメリカの景色は僕より小竹さんのほうがお詳しいことでしょう)。
そのほかにも世界中の様々な国で、そういった“個”を尊重する考え方や価値観は身近に存在するように思います。
結局は集団の本質も、どんな個人が集まったものであるか、ということが大切なのです。
小竹さんの遺言と違って、平成若者男子の生意気なボヤきのような往復書簡になってしまいました…。
片寄涼太
「若いうちはガンガン遊べ」と言うけれど
片寄涼太(GENERATIONS from EXILE TRIBE)×作詞家・小竹正人 往復書簡 エンタメ 芸能 2021年3月7日掲載
片寄涼太
先日銀座で行われたGIVENCHYのイベントの様子。新コレクションが始まりました。仕事モードの雰囲気もお届けさせて頂きます(他の写真を見る)
片寄涼太(GENERATIONS from EXILE TRIBE)×作詞家・小竹正人 往復書簡33
遊びたいように遊ぶなんて出来るわけがない。携帯・スマートフォンとSNSの普及が、遊び方やモラルを完全に変化させたと片寄は言う。
拝啓 小竹正人さま
昭和の人たちはみんな口を揃えて「若いうちはガンガン遊べ」とか「若いのだから寝なくても余裕でしょう」「どれだけ食べても太らないでしょう」なんてことをとにかく言う。
この往復書簡を覗き見してくださっている方の中に、こんな台詞を使った覚えがある、あるいは言われた経験のある方はいらっしゃるでしょうか?
僕もエネルギッシュにイケイケでパワフルな人生を謳歌してみたかったな、なんて思うときがあります。
“昭和っぽい”時間の過ぎ方(そんな定義があるのかはわかりませんが)に憧れがないわけではありません。
しかしながら平成という時代に生まれたからなのか、あくまで僕の個人的見解ですが、その類の台詞はなんだかピンと来ないなあと感じます。
そういうパワフルな台詞たちは、顔面ド真ん中より少し右とか左とかに逸れて、耳のそばを豪速球で通り過ぎるみたいに聞こえてくる感じ。
正直疲れていれば多少は寝たいし、カロリーオーバーなものを食べすぎればやっぱりそれなりに太る。
まあこれが年をとっていけばそれでは済まなくなっていくということなのかもしれません。
ただ最もピンと来ないのは、ガンガン遊べということです。
このコロナ禍はもちろんですが、そうなる前から状況や時代は結構違う気がしています。
とくに昨今の芸能人は昭和のそれとは明らかに全く違うのです。
街を歩く人たち全員が写真週刊誌の記者さんだと思ってもいいくらい、誰もがスマホのカメラを自由に使いソーシャルネットワークですぐに目撃情報が呟かれる。
遊びたいように遊ぶなんて出来るわけがないのです。携帯・スマートフォンとSNSの普及が、遊び方やモラルを完全に変化させたということです。
なら誰かに責められるようなことや非難を浴びるようなことを自制した上であれば、心地よく楽しい時間を過ごせば良いのです。
カジキマグロのグリル
ランチにカフェで食べたカジキマグロのグリル。カジキマグロは英語で「swordfish」。魚の種類を英語で覚えるのは途方に暮れる思いです…(他の写真を見る)
ですがここ数年目立つのは芸能人か政治家さんのスキャンダルのニュース。
確かにやってはいけないことをしたのであれば仕方ないとは思うのですが、何のせいと一概には言えない、集団的見えない負のループのようなものが確立されてしまっていて、本来そこまで恐ろしいものであっていいのか? と疑問に思うほど、SNSやメディアのことが恐ろしくなってきていると感じます。
このようなネガティブのループではなく、ポジティブのループを個人がそれぞれでつくっていけたらどんなに素敵な世界だろうと思います。
別にどこの国に倣えというわけではありませんが、例えばハリウッドスターのオープンな交際のように、アメリカ=自由の国と言われるだけあって、それぞれの生き方が尊重されるような文化を感じます(きっとアメリカの景色は僕より小竹さんのほうがお詳しいことでしょう)。
そのほかにも世界中の様々な国で、そういった“個”を尊重する考え方や価値観は身近に存在するように思います。
結局は集団の本質も、どんな個人が集まったものであるか、ということが大切なのです。
小竹さんの遺言と違って、平成若者男子の生意気なボヤきのような往復書簡になってしまいました…。
片寄涼太
#大西亚玖璃#
感谢收看本日は晴天なり线上签名会
终于到了明天发售
兴奋的停不下来
希望还能和大家见面
还有一定要加上本日は晴天なり的标签来聊聊CD和MV的感想
本日は晴天なりネットサイン会ありがとうございました
いよいよ明日発売ということで、
わくわくとどきどきがとまらないよ〜
またこういう機会がたくさんあると嬉しいな
そしてぜひ #本日は晴天なり をつけてCDやMVの感想呟いてね!
感谢收看本日は晴天なり线上签名会
终于到了明天发售
兴奋的停不下来
希望还能和大家见面
还有一定要加上本日は晴天なり的标签来聊聊CD和MV的感想
本日は晴天なりネットサイン会ありがとうございました
いよいよ明日発売ということで、
わくわくとどきどきがとまらないよ〜
またこういう機会がたくさんあると嬉しいな
そしてぜひ #本日は晴天なり をつけてCDやMVの感想呟いてね!
#菅田将晖电台ann# [兔子]菅田先生3月1日ann播放歌曲[酷]
まず“アカシア” “Aurora” “Flare”そして“魔法の料理 〜君から君へ〜”という選曲が凄かった。
《透明よりも綺麗な あの輝きを確かめにいこう/そうやって始まったんだよ/たまに忘れるほど強い理由》(“アカシア”)
《もうきっと多分大丈夫 どこが痛いか分かったからね/自分で涙拾えたら いつか魔法に変えられる》(“Aurora”)
《もう一度起き上がるには やっぱり/どうしたって少しは無理しなきゃいけないな/一人じゃないと呟いてみても/感じる痛みは一人のもの》(“Flare”)
この3つの歌い出し全てでハッとさせられて、BUMP OF CHICKENの楽曲が、それを聴く僕たちの人生の中に迷いなく飛び込んできて、心の一部として脈打ち始める力強さに圧倒された。
ライブがないこともあってその生々しい感触を忘れていたところもあったけれど、テレビを通じての、「大切なことを大切にしたいという思い」に従った結果として必然的に選ばれた形での演奏によって、改めてBUMP OF CHICKENの音楽を、あのかけがえのない同じ場所と瞬間を共有するライブのように大切に感じることができた。
そして、まさかのストリングスとの共演となった“魔法の料理 〜君から君へ〜”。
《叱られた後にある 晩御飯の不思議/その謎は 僕より大きい/君が解くのかな/こんな風に 君に説くのかな》(“魔法の料理 〜君から君へ〜”)
この楽曲の余韻の中で自分の人生にまつわるいろいろなことに、過去・現在・未来を旅するように思いを馳せることができた。
下北沢CLUB251というライブハウスに藤くんが訪れる姿も印象的だったが、また別の下北沢のライブハウスで初めて彼ら4人のライブを観た時のこと、そして本人は覚えていないと思うけど、まさに251でお客さんとして観に来ていた藤くんと初めて言葉を交わした時のことなども思い出した。
番組を観た人たちの感想も見ながら改めて思ったのは、BUMP OF CHICKENの音楽はたくさんの人たちの人生の旅の中を、痛みとか喜びとか涙とか笑顔とか全部を一緒に抱きしめながら生きているということ。
そして、そのメッセージは常に君から君への、自分が持っている素晴らしいものを確かめるためのものだということだった。
あの眩しい音楽の力をまたライブで感じられる日が待ち遠しい。(古河晋)
まず“アカシア” “Aurora” “Flare”そして“魔法の料理 〜君から君へ〜”という選曲が凄かった。
《透明よりも綺麗な あの輝きを確かめにいこう/そうやって始まったんだよ/たまに忘れるほど強い理由》(“アカシア”)
《もうきっと多分大丈夫 どこが痛いか分かったからね/自分で涙拾えたら いつか魔法に変えられる》(“Aurora”)
《もう一度起き上がるには やっぱり/どうしたって少しは無理しなきゃいけないな/一人じゃないと呟いてみても/感じる痛みは一人のもの》(“Flare”)
この3つの歌い出し全てでハッとさせられて、BUMP OF CHICKENの楽曲が、それを聴く僕たちの人生の中に迷いなく飛び込んできて、心の一部として脈打ち始める力強さに圧倒された。
ライブがないこともあってその生々しい感触を忘れていたところもあったけれど、テレビを通じての、「大切なことを大切にしたいという思い」に従った結果として必然的に選ばれた形での演奏によって、改めてBUMP OF CHICKENの音楽を、あのかけがえのない同じ場所と瞬間を共有するライブのように大切に感じることができた。
そして、まさかのストリングスとの共演となった“魔法の料理 〜君から君へ〜”。
《叱られた後にある 晩御飯の不思議/その謎は 僕より大きい/君が解くのかな/こんな風に 君に説くのかな》(“魔法の料理 〜君から君へ〜”)
この楽曲の余韻の中で自分の人生にまつわるいろいろなことに、過去・現在・未来を旅するように思いを馳せることができた。
下北沢CLUB251というライブハウスに藤くんが訪れる姿も印象的だったが、また別の下北沢のライブハウスで初めて彼ら4人のライブを観た時のこと、そして本人は覚えていないと思うけど、まさに251でお客さんとして観に来ていた藤くんと初めて言葉を交わした時のことなども思い出した。
番組を観た人たちの感想も見ながら改めて思ったのは、BUMP OF CHICKENの音楽はたくさんの人たちの人生の旅の中を、痛みとか喜びとか涙とか笑顔とか全部を一緒に抱きしめながら生きているということ。
そして、そのメッセージは常に君から君への、自分が持っている素晴らしいものを確かめるためのものだということだった。
あの眩しい音楽の力をまたライブで感じられる日が待ち遠しい。(古河晋)
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