<どうする家康>岡田准一“信長”、武田軍と戦う松本潤“家康”に「信玄を止めろ!俺が必ず行く」
松本潤が主演を務める大河ドラマ「どうする家康」(毎週日曜夜8:00-8:45ほか、NHK総合ほか)の第17回「三方ヶ原合戦」が5月7日(日)に放送される。今回描かれる三方ヶ原の戦いは、遠江国敷知郡の三方ヶ原で起こった武田信玄と徳川家康・織田信長の間で行われた戦いだ。
【写真】松本潤“家康”に寄りかかる有村架純“瀬名”!すてきな夫婦ショット
■大河ドラマ「どうする家康」あらすじ
古沢良太が脚本を務める同ドラマは、誰もが知る徳川家康(松本)の人生を新たな視点で描く、一人の弱き少年が乱世を終わらせた奇跡と希望の物語。家康の妻・瀬名を有村架純が、“孤独なカリスマ”織田信長を岡田准一が演じる他、“戦国最強のレジェンド”武田信玄を阿部寛が演じる。
また、豊臣秀吉としてムロツヨシが、三英傑を結ぶ運命の女・お市として北川景子が出演し、山田孝之、杉野遥亮、山田裕貴、板垣李光人、木村昴、大森南朋、松重豊、松嶋菜々子らも出演。語りを寺島しのぶが務める。
■5月7日(日)放送の第17回「三方ヶ原合戦」
信玄(阿部)は徳川の拠点を次々に制圧。打つ手のない家康(松本)は、信長(岡田)の本軍が加勢にくるまで浜松城に籠城すると決める。だが、浜松に攻め寄せてきた武田本軍は、なんと浜松城を素通りし、西へ向かおうとする。このまま武田軍を通せば、遠江の民から見限られ、信長の逆鱗(げきりん)に触れる。何より、瀬名(有村)ら家族のいる岡崎城が危ない。打って出るべきか、籠城を続けるか。家康は究極の選択を迫られる。
■徳川VS武田!三方ヶ原合戦が勃発する
番組公式サイトの予告動画では、家康が「出陣じゃ!」と叫び、ついに三方ヶ原合戦が始まる。そして、信康(細田佳央太)の妻・五徳(久保史緒里)が「武田をうちのめしてやりなされ!」と語り、信長は家康に「信玄を止めろ!俺が必ず行く」と告げる。
信玄と戦う覚悟を見せる徳川軍。しかし、武田軍の予想外の行動に鳥居元忠(音尾琢真)は「どういうことなんじゃ!なぜかかってこん!」と困惑する。そんな中、信玄は堂々とした様子で「見えるであろう家康の姿が」と話す。
さらに、妻・瀬名に「そなたは、何があっても強く生きよ」と話す家康や、笑顔で食事を作る亀姫(當真あみ)の姿が見られる他、武装した武田勝頼(眞栄田郷敦)の勇ましい姿も見られる。
松本潤が主演を務める大河ドラマ「どうする家康」(毎週日曜夜8:00-8:45ほか、NHK総合ほか)の第17回「三方ヶ原合戦」が5月7日(日)に放送される。今回描かれる三方ヶ原の戦いは、遠江国敷知郡の三方ヶ原で起こった武田信玄と徳川家康・織田信長の間で行われた戦いだ。
【写真】松本潤“家康”に寄りかかる有村架純“瀬名”!すてきな夫婦ショット
■大河ドラマ「どうする家康」あらすじ
古沢良太が脚本を務める同ドラマは、誰もが知る徳川家康(松本)の人生を新たな視点で描く、一人の弱き少年が乱世を終わらせた奇跡と希望の物語。家康の妻・瀬名を有村架純が、“孤独なカリスマ”織田信長を岡田准一が演じる他、“戦国最強のレジェンド”武田信玄を阿部寛が演じる。
また、豊臣秀吉としてムロツヨシが、三英傑を結ぶ運命の女・お市として北川景子が出演し、山田孝之、杉野遥亮、山田裕貴、板垣李光人、木村昴、大森南朋、松重豊、松嶋菜々子らも出演。語りを寺島しのぶが務める。
■5月7日(日)放送の第17回「三方ヶ原合戦」
信玄(阿部)は徳川の拠点を次々に制圧。打つ手のない家康(松本)は、信長(岡田)の本軍が加勢にくるまで浜松城に籠城すると決める。だが、浜松に攻め寄せてきた武田本軍は、なんと浜松城を素通りし、西へ向かおうとする。このまま武田軍を通せば、遠江の民から見限られ、信長の逆鱗(げきりん)に触れる。何より、瀬名(有村)ら家族のいる岡崎城が危ない。打って出るべきか、籠城を続けるか。家康は究極の選択を迫られる。
■徳川VS武田!三方ヶ原合戦が勃発する
番組公式サイトの予告動画では、家康が「出陣じゃ!」と叫び、ついに三方ヶ原合戦が始まる。そして、信康(細田佳央太)の妻・五徳(久保史緒里)が「武田をうちのめしてやりなされ!」と語り、信長は家康に「信玄を止めろ!俺が必ず行く」と告げる。
信玄と戦う覚悟を見せる徳川軍。しかし、武田軍の予想外の行動に鳥居元忠(音尾琢真)は「どういうことなんじゃ!なぜかかってこん!」と困惑する。そんな中、信玄は堂々とした様子で「見えるであろう家康の姿が」と話す。
さらに、妻・瀬名に「そなたは、何があっても強く生きよ」と話す家康や、笑顔で食事を作る亀姫(當真あみ)の姿が見られる他、武装した武田勝頼(眞栄田郷敦)の勇ましい姿も見られる。
徳川家康の人生において最大の屈辱戦にして最悪の敗北を喫した「三方ヶ原の戦い」とは⁉
徳川家康の人生において最大の屈辱戦といわれる「三方ヶ原の戦い」。どのような戦いだったのか、ここで改めて紹介する。
■徳川家康自身の自尊心のため無謀な戦いを挑む
元亀3年(1572)10月3日、武田信玄(たけだしんげん)は上洛するため、本拠の甲斐(かい)・甲府(山梨県甲府市)を出発した。そして、遠江(とおとうみ)・三河への侵攻を目論み、軍事行動を起こした。
武田の重臣・山県昌景(やまがたかげ)は約5000の軍勢を率い、信濃国から東三河に攻め込み、長篠城(ながしのじょう/愛知県新城市)などを攻略した。これにより、家康は窮地に陥り、大いに焦ったに違いない。その勢いでもって、山県勢は遠江国へ向かったのである。
秋山虎繁(あきやまとらしげ)は約2500の軍勢を率いて、居城の高遠城(たかとうじょう/長野県伊那市)を出発すると、遠山氏が籠る岩村城(いわむらじょう/岐阜県恵那市)を攻略した。一方の信玄は、約2万5000の軍勢で信濃国を通過し、遠江国との境にある青崩峠から攻め込んだ。
10月13日、別働部隊を率いた馬場信春(ばばのぶはる)は、徳川方の只来城(ただらいじょう/静岡県浜松市)を落とした。そして、信玄の本隊と馬場氏が目指したのは、二俣城(ふたまたじょう/同)である。
二俣城は、家康の本拠がある浜松城、そして支城となる掛川城(かけがわじょう/静岡県掛川市)、高天神城(たかてんじんじょう/同)を結ぶ中間地点にあった。二俣城は、支城ネットワークを構成する重要な城だったのである。家康は二俣城を守るため、本多忠勝(ほんだただかつ)らを出陣させるが、一言坂(ひとことざか/静岡県磐田市)の戦いで武田軍に敗北した。家康の焦りは、頂点に達しただろう。勢いを得た武田軍は、そのまま二俣城を攻囲した。二俣城には城代の中根正照(なかねまさてる)以下、約1200の軍勢が籠っていたが、武田方の降伏勧告にも従わず、粘り強く戦った。
しかし、しょせんは多勢に無勢で、しかも天竜川の水の手を断たれたこともあり、12月19日に二俣城は降伏・開城を余儀なくされた。一連の戦いによって、信玄は遠江国北部を制圧したのである。
12月22日、武田方は二俣城を出発し、西へと進路を取った。そして、家康も浜松城を発つと、織田軍の援軍とともに武田方を迎え撃とうとした。家康の軍勢は約1万、武田軍は約2万5000といわれ、戦場となったのが三方ヶ原である。数的に家康は不利だった。
家康はいかに武田軍が多勢とはいえ、素通りさせることはプライドが許さなかった。「合戦は軍勢の数ではなく、天道次第である」と諸将に檄を飛ばしたという。まさしく命懸けの強い覚悟だった。
戦いは午後4時頃にはじまり、2時間余りで武田軍の勝利に終わった。徳川方は2000もの戦死者を出して敗走した。一方の武田方の戦死者は、わずか200余にすぎなかった。徳川方は、夏目広次(なつめひろつぐ)、本多忠真(ほんだただざね)、鳥居忠広(とりいただひろ)など、多くの有力な家臣を失い大打撃を受けたのである。
歴史人編集部
徳川家康の人生において最大の屈辱戦といわれる「三方ヶ原の戦い」。どのような戦いだったのか、ここで改めて紹介する。
■徳川家康自身の自尊心のため無謀な戦いを挑む
元亀3年(1572)10月3日、武田信玄(たけだしんげん)は上洛するため、本拠の甲斐(かい)・甲府(山梨県甲府市)を出発した。そして、遠江(とおとうみ)・三河への侵攻を目論み、軍事行動を起こした。
武田の重臣・山県昌景(やまがたかげ)は約5000の軍勢を率い、信濃国から東三河に攻め込み、長篠城(ながしのじょう/愛知県新城市)などを攻略した。これにより、家康は窮地に陥り、大いに焦ったに違いない。その勢いでもって、山県勢は遠江国へ向かったのである。
秋山虎繁(あきやまとらしげ)は約2500の軍勢を率いて、居城の高遠城(たかとうじょう/長野県伊那市)を出発すると、遠山氏が籠る岩村城(いわむらじょう/岐阜県恵那市)を攻略した。一方の信玄は、約2万5000の軍勢で信濃国を通過し、遠江国との境にある青崩峠から攻め込んだ。
10月13日、別働部隊を率いた馬場信春(ばばのぶはる)は、徳川方の只来城(ただらいじょう/静岡県浜松市)を落とした。そして、信玄の本隊と馬場氏が目指したのは、二俣城(ふたまたじょう/同)である。
二俣城は、家康の本拠がある浜松城、そして支城となる掛川城(かけがわじょう/静岡県掛川市)、高天神城(たかてんじんじょう/同)を結ぶ中間地点にあった。二俣城は、支城ネットワークを構成する重要な城だったのである。家康は二俣城を守るため、本多忠勝(ほんだただかつ)らを出陣させるが、一言坂(ひとことざか/静岡県磐田市)の戦いで武田軍に敗北した。家康の焦りは、頂点に達しただろう。勢いを得た武田軍は、そのまま二俣城を攻囲した。二俣城には城代の中根正照(なかねまさてる)以下、約1200の軍勢が籠っていたが、武田方の降伏勧告にも従わず、粘り強く戦った。
しかし、しょせんは多勢に無勢で、しかも天竜川の水の手を断たれたこともあり、12月19日に二俣城は降伏・開城を余儀なくされた。一連の戦いによって、信玄は遠江国北部を制圧したのである。
12月22日、武田方は二俣城を出発し、西へと進路を取った。そして、家康も浜松城を発つと、織田軍の援軍とともに武田方を迎え撃とうとした。家康の軍勢は約1万、武田軍は約2万5000といわれ、戦場となったのが三方ヶ原である。数的に家康は不利だった。
家康はいかに武田軍が多勢とはいえ、素通りさせることはプライドが許さなかった。「合戦は軍勢の数ではなく、天道次第である」と諸将に檄を飛ばしたという。まさしく命懸けの強い覚悟だった。
戦いは午後4時頃にはじまり、2時間余りで武田軍の勝利に終わった。徳川方は2000もの戦死者を出して敗走した。一方の武田方の戦死者は、わずか200余にすぎなかった。徳川方は、夏目広次(なつめひろつぐ)、本多忠真(ほんだただざね)、鳥居忠広(とりいただひろ)など、多くの有力な家臣を失い大打撃を受けたのである。
歴史人編集部
⒈うんと
⒉特色 トクショク
⒊都 みやこ
⒋ばね 齒ね
⒌秤 はかり ⚖️
⒍プラン Plan
⒎バドミントン badminton
⒏役者 ヤクシャ
⒐酔う よう
10望遠鏡 ボウエンキョウ
11⭐️ 百科事典 ヒャッカジテン
12戸棚 とだな
13とんでもない
14南極 ナンキョク
15果たして はたして
16半径 ハンケイ
17⭐️ビルディング building
18プール pool
19パンツ pants
20水着 ミズギ
21⭐️ 節 フシ
22不自由 フジユウ
23文献 ブンケン
24祭る まつる
25味方 みかた
26剥く ムク
27迷信 メイシン
28飯 めし
29夜間 やかん
30明くる あくる
31編み物 あみもの
32言い出す イイダス
33言いつける いいつける
34有無 うむ
35園芸 エンゲイ
⒉特色 トクショク
⒊都 みやこ
⒋ばね 齒ね
⒌秤 はかり ⚖️
⒍プラン Plan
⒎バドミントン badminton
⒏役者 ヤクシャ
⒐酔う よう
10望遠鏡 ボウエンキョウ
11⭐️ 百科事典 ヒャッカジテン
12戸棚 とだな
13とんでもない
14南極 ナンキョク
15果たして はたして
16半径 ハンケイ
17⭐️ビルディング building
18プール pool
19パンツ pants
20水着 ミズギ
21⭐️ 節 フシ
22不自由 フジユウ
23文献 ブンケン
24祭る まつる
25味方 みかた
26剥く ムク
27迷信 メイシン
28飯 めし
29夜間 やかん
30明くる あくる
31編み物 あみもの
32言い出す イイダス
33言いつける いいつける
34有無 うむ
35園芸 エンゲイ
✋热门推荐