オミクロン株 国内3例目感染確認 イタリア滞在歴ある30代男性
2021年12月6日 18時06分
今月、日本に入国した、イタリアに滞在歴のある男性が、新型コロナの新たな変異ウイルス「オミクロン株」に感染していることが、新たに確認されました。
国内で感染者が確認されたのは3人目です。
感染が確認されたのは、イタリアに滞在歴のある30代の男性です。
厚生労働省は国籍を明らかにしていません。
今月1日に入国した際、羽田空港の検疫所で新型コロナウイルスの検査を受けて陽性反応が出たため、国立感染症研究所で検体の遺伝子を解析していました。
その結果、オミクロン株への感染が確認されたということです。
男性は入国後、検疫が指定する宿泊施設にいましたが、現在、症状はなく、近く医療機関に入院する予定だということです。
また、ことし7月と8月にはモデルナのワクチンの接種を受けていたということです。
厚生労働省は、同じ飛行機に乗っていた41人の乗客全員を濃厚接触者とみなして、入国後14日間は宿泊施設での待機を求めることにしています。
これまでに国内で感染者が確認されたのは、先月末にナミビアから入国した外交官と、ペルーから入国した男性に続いて、3人目です。
松野官房長官は午後の記者会見で「入国時の検査で陽性が確認されたイタリアに滞在歴のある入国者について、国立感染症研究所で陽性検体のゲノム検査を行ったところ、オミクロン株であると確認されたとの1報が厚生労働省からあった。30代の男性との報告を受けている」と述べました。
松野官房長官は、この男性の同行者や飛行機の機内で近くの席にいた人については把握済みだとしたうえで、男性の国籍は「感染拡大防止に資する情報に限って公表することにしている」として、明らかにしませんでした。
そして「引き続き、水際措置の強化とゲノム解析の実施強化によるモニタリングを進め、適切な感染防止対策を徹底していきたい」と述べました。
【後藤厚労相「飛行機同乗の41人が濃厚接触者」】
後藤厚生労働大臣は臨時に記者会見し「入国時の検査でコロナの陽性が確認されたため、検疫の宿泊療養施設に入所し、現在医療機関に搬送中だ。陽性者が搭乗していた航空機には、残り41人が同乗していたが、いずれも濃厚接触者として取り扱い、これまでと同様、地方自治体と連携しながら厚生労働省において健康観察をしっかり行っていく」と述べました。
また後藤大臣は「オミクロン株」に対する水際対策に加え、国内の検査体制も強化していることを重ねて説明したうえで「感染が確認された場合には、積極的な疫学的調査をしっかり行い、国内における封じ込めに最大限の努力をしていきたい」と述べました。
2021年12月6日 18時06分
今月、日本に入国した、イタリアに滞在歴のある男性が、新型コロナの新たな変異ウイルス「オミクロン株」に感染していることが、新たに確認されました。
国内で感染者が確認されたのは3人目です。
感染が確認されたのは、イタリアに滞在歴のある30代の男性です。
厚生労働省は国籍を明らかにしていません。
今月1日に入国した際、羽田空港の検疫所で新型コロナウイルスの検査を受けて陽性反応が出たため、国立感染症研究所で検体の遺伝子を解析していました。
その結果、オミクロン株への感染が確認されたということです。
男性は入国後、検疫が指定する宿泊施設にいましたが、現在、症状はなく、近く医療機関に入院する予定だということです。
また、ことし7月と8月にはモデルナのワクチンの接種を受けていたということです。
厚生労働省は、同じ飛行機に乗っていた41人の乗客全員を濃厚接触者とみなして、入国後14日間は宿泊施設での待機を求めることにしています。
これまでに国内で感染者が確認されたのは、先月末にナミビアから入国した外交官と、ペルーから入国した男性に続いて、3人目です。
松野官房長官は午後の記者会見で「入国時の検査で陽性が確認されたイタリアに滞在歴のある入国者について、国立感染症研究所で陽性検体のゲノム検査を行ったところ、オミクロン株であると確認されたとの1報が厚生労働省からあった。30代の男性との報告を受けている」と述べました。
松野官房長官は、この男性の同行者や飛行機の機内で近くの席にいた人については把握済みだとしたうえで、男性の国籍は「感染拡大防止に資する情報に限って公表することにしている」として、明らかにしませんでした。
そして「引き続き、水際措置の強化とゲノム解析の実施強化によるモニタリングを進め、適切な感染防止対策を徹底していきたい」と述べました。
【後藤厚労相「飛行機同乗の41人が濃厚接触者」】
後藤厚生労働大臣は臨時に記者会見し「入国時の検査でコロナの陽性が確認されたため、検疫の宿泊療養施設に入所し、現在医療機関に搬送中だ。陽性者が搭乗していた航空機には、残り41人が同乗していたが、いずれも濃厚接触者として取り扱い、これまでと同様、地方自治体と連携しながら厚生労働省において健康観察をしっかり行っていく」と述べました。
また後藤大臣は「オミクロン株」に対する水際対策に加え、国内の検査体制も強化していることを重ねて説明したうえで「感染が確認された場合には、積極的な疫学的調査をしっかり行い、国内における封じ込めに最大限の努力をしていきたい」と述べました。
(Y64)「挫折した人の話」こそが教科書になる、逆転の発想。挫折をしたけれど、それでも強く生きている人のことを書いた本は、自分が何かに行き詰まったとき、きっと力になってくれるはず-1 (2021.11.24)by pha より抜粋加筆しました。
⑴ ニュースや映画などでは、勝った人間の話ばかりが取り上げられる
①努力をしていた人間が勝つのは、ベタすぎてあまり深みがない。
「努力をしてきたにもかかわらず、勝てなかった」
これが人生だと思う。
②生きるというのは大体、挫折をすること。
負けのほうにこそ、人間の複雑で深い感情が表れるもの。
勝つことよりも負けることのほうが、人間を成長させる。
⑵ 棋士について書かれた本は、だいたい面白い。
①それは、シビアな勝負の世界の話が描かれているから。
藤井聡太のような天才になれなかった「敗者たちの話」に、
筆者は心が惹かれる。
②大崎善生の『将棋の子』は、
プロ棋士になれなかった者たちを描いたノンフィクション書だ。
将棋の世界では、地元で天才や神童と呼ばれた子どもたちが、
全国から奨励会という組織に集められて競い合う。
そして、そこで勝ち残った一握りだけがプロ棋士になれる。
③奨励会に入るような子どもは全員ものすごく頭がいい子ばかり。
しかし、みんな子どもの頃から将棋だけに打ち込んできたので、
将棋以外の社会経験をほとんど持たずに育つ。
そんな人たちが20代後半になって突然、
「職歴のない無職」として社会に放り出される。
『将棋の子』はそんな彼らのその後の人生に焦点を当てる。
⑶ プロ棋士になるという彼らの夢は叶わなかった。では、彼らにとって将棋は、まったく意味のないものか
①奨励会を退会したあと、生まれ故郷の北海道で暮らす成田英二は次のように言う。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
将棋がね、今でも自分に自信を与えてくれているんだ。
こっち、もう15年も将棋指していないけど、でもそれを子どもの頃から夢中になってやって、大人にもほとんど負けなくて、それがね、そのことがね、自分に自信をくれているんだ。
こっちお金もないし仕事もないし、家族もいないし、今はなんにもないけれど、でも将棋が強かった。それはね、きっと誰にも簡単には負けないくらいに強かった。そうでしょう?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
③著者の大崎さんが語る、次の言葉が胸に響く。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
アマであろうとプロであろうと奨励会員であろうと、将棋はそれをやるものに何かを与え続けるばかりで、決して何も奪うことはない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
④たとえ勝者になれなかったとしても、ある時期に、
すべてを捧げて真剣に打ち込んだことに、価値がないわけはない。
これは将棋に限らず、何かに打ち込んだ人すべてに当てはまること。
⑴ ニュースや映画などでは、勝った人間の話ばかりが取り上げられる
①努力をしていた人間が勝つのは、ベタすぎてあまり深みがない。
「努力をしてきたにもかかわらず、勝てなかった」
これが人生だと思う。
②生きるというのは大体、挫折をすること。
負けのほうにこそ、人間の複雑で深い感情が表れるもの。
勝つことよりも負けることのほうが、人間を成長させる。
⑵ 棋士について書かれた本は、だいたい面白い。
①それは、シビアな勝負の世界の話が描かれているから。
藤井聡太のような天才になれなかった「敗者たちの話」に、
筆者は心が惹かれる。
②大崎善生の『将棋の子』は、
プロ棋士になれなかった者たちを描いたノンフィクション書だ。
将棋の世界では、地元で天才や神童と呼ばれた子どもたちが、
全国から奨励会という組織に集められて競い合う。
そして、そこで勝ち残った一握りだけがプロ棋士になれる。
③奨励会に入るような子どもは全員ものすごく頭がいい子ばかり。
しかし、みんな子どもの頃から将棋だけに打ち込んできたので、
将棋以外の社会経験をほとんど持たずに育つ。
そんな人たちが20代後半になって突然、
「職歴のない無職」として社会に放り出される。
『将棋の子』はそんな彼らのその後の人生に焦点を当てる。
⑶ プロ棋士になるという彼らの夢は叶わなかった。では、彼らにとって将棋は、まったく意味のないものか
①奨励会を退会したあと、生まれ故郷の北海道で暮らす成田英二は次のように言う。
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将棋がね、今でも自分に自信を与えてくれているんだ。
こっち、もう15年も将棋指していないけど、でもそれを子どもの頃から夢中になってやって、大人にもほとんど負けなくて、それがね、そのことがね、自分に自信をくれているんだ。
こっちお金もないし仕事もないし、家族もいないし、今はなんにもないけれど、でも将棋が強かった。それはね、きっと誰にも簡単には負けないくらいに強かった。そうでしょう?
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③著者の大崎さんが語る、次の言葉が胸に響く。
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アマであろうとプロであろうと奨励会員であろうと、将棋はそれをやるものに何かを与え続けるばかりで、決して何も奪うことはない。
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④たとえ勝者になれなかったとしても、ある時期に、
すべてを捧げて真剣に打ち込んだことに、価値がないわけはない。
これは将棋に限らず、何かに打ち込んだ人すべてに当てはまること。
1890年11月27日 ,日本小説家、翻译家、儿童文学家豊島 与志雄(とよしま よしお)出生.
作者の住む世界
豊島与志雄
或る雑誌記者がこんなことを云った――「新進作家に少し書いて貰おうと思って、さて誰に頼んだらよいかと考えてみると、結局誰にしても同じだという気がして、考えるのも厄介になってくる。そう思うと、実に退屈でたまらない。」
この退屈だということは、多くの人の実感であるらしい。
なぜ退屈だかを、もっとよく考えてみると、大抵の作家がみな同じような世界に住んでるからだと思う。
作者の住む世界というのは、作品に現われた材料が所在する、その外部の世界を指すのではない。材料はどんなものでもよい。その材料に対する、作者の感じ方見方腹の据え方など、そんなものをひっくるめた世界、即ち、作者の人としての知情意の内部世界を指すのである。
同じ材料を取扱っても、出来上った作品が作者によって異って、全く別種の感銘を読者に与えるのは、作者の住む世界が異るからである。
そして、新しい文芸は、新らしい世界に住む作者から生れてくる。
明治末年から大正五六年までにかけて、日本の文壇が少しも退屈ではなく、いつも溌剌としていたのは、自然主義的世界に住む作家連の間に、それとは別な世界に住む作家達が頭をもたげてきたからであった。どの国の文壇をみても、文学の主流の変遷は、必ず新しい世界に住む作家連によって齎らされている。
現在の日本の文壇が退屈でなくなり、新たな気運に進展してゆくのには、新しい世界に住む作家が出て来なければいけない。いくら新進作家が出て来ても、いくら既成作家が円熟していっても、彼等の住む世界が変らない限りは、もしくは彼等の住む世界が進展してゆかない限りは、文壇はいつも停滞退屈の感を失わない。
近時批評家の文章などを読んでみると、既成作家と新進作家とが対抗して、既成作家は文壇の地位を確守しようと警戒し、新進作家は文壇を乗っ取ろうと努力してる、とそういった感じを与えられることがある。然しそれは事実にない嘘である。或る人々にはそういうことがあるかも知れないが、本当のいい作家には、既成と新進とを問わず、そうした意識は少しもないし、またあってもいけないのである。
既成作家のよい者は、新進作家などを相手に物を考えてはしない。考えてることはただ、自分の住む世界の進展だけである。新進作家のよい者は、既成作家などを相手に物を考えてはしない。考えてることはただ、新しい世界を開拓しようということだけである。両者は互に取組んでるのではない。別々に別々なことを考えてるのである。それを互に取組んでるかのように云うのは、批評家の僻目である。
既成作家と新進作家とを問わず、新しい世界を開拓してゆく者は、常に新らしく生きてゆく。そういう作家から、文壇に力強い光がさしてくる。そういう作家がいることによってのみ、文壇は沈滞腐敗しないで、常に健かに息づいてゆく。
要は、如何に巧みに作品を書くかということではなくて、如何なる世界を自分のために開拓してゆくかということである。
「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
作者の住む世界
豊島与志雄
或る雑誌記者がこんなことを云った――「新進作家に少し書いて貰おうと思って、さて誰に頼んだらよいかと考えてみると、結局誰にしても同じだという気がして、考えるのも厄介になってくる。そう思うと、実に退屈でたまらない。」
この退屈だということは、多くの人の実感であるらしい。
なぜ退屈だかを、もっとよく考えてみると、大抵の作家がみな同じような世界に住んでるからだと思う。
作者の住む世界というのは、作品に現われた材料が所在する、その外部の世界を指すのではない。材料はどんなものでもよい。その材料に対する、作者の感じ方見方腹の据え方など、そんなものをひっくるめた世界、即ち、作者の人としての知情意の内部世界を指すのである。
同じ材料を取扱っても、出来上った作品が作者によって異って、全く別種の感銘を読者に与えるのは、作者の住む世界が異るからである。
そして、新しい文芸は、新らしい世界に住む作者から生れてくる。
明治末年から大正五六年までにかけて、日本の文壇が少しも退屈ではなく、いつも溌剌としていたのは、自然主義的世界に住む作家連の間に、それとは別な世界に住む作家達が頭をもたげてきたからであった。どの国の文壇をみても、文学の主流の変遷は、必ず新しい世界に住む作家連によって齎らされている。
現在の日本の文壇が退屈でなくなり、新たな気運に進展してゆくのには、新しい世界に住む作家が出て来なければいけない。いくら新進作家が出て来ても、いくら既成作家が円熟していっても、彼等の住む世界が変らない限りは、もしくは彼等の住む世界が進展してゆかない限りは、文壇はいつも停滞退屈の感を失わない。
近時批評家の文章などを読んでみると、既成作家と新進作家とが対抗して、既成作家は文壇の地位を確守しようと警戒し、新進作家は文壇を乗っ取ろうと努力してる、とそういった感じを与えられることがある。然しそれは事実にない嘘である。或る人々にはそういうことがあるかも知れないが、本当のいい作家には、既成と新進とを問わず、そうした意識は少しもないし、またあってもいけないのである。
既成作家のよい者は、新進作家などを相手に物を考えてはしない。考えてることはただ、自分の住む世界の進展だけである。新進作家のよい者は、既成作家などを相手に物を考えてはしない。考えてることはただ、新しい世界を開拓しようということだけである。両者は互に取組んでるのではない。別々に別々なことを考えてるのである。それを互に取組んでるかのように云うのは、批評家の僻目である。
既成作家と新進作家とを問わず、新しい世界を開拓してゆく者は、常に新らしく生きてゆく。そういう作家から、文壇に力強い光がさしてくる。そういう作家がいることによってのみ、文壇は沈滞腐敗しないで、常に健かに息づいてゆく。
要は、如何に巧みに作品を書くかということではなくて、如何なる世界を自分のために開拓してゆくかということである。
「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
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