#1968年と宗教#
【なぜ「1968」なのか】
昨日の「1968年と宗教」三回目のシンポジウムに参加してきました。
その後、機会を得て(はじめてなので、かなり緊張してしまって)少しだけ絓さんと話をしました。1968年思想は、なぜ「1968」という数字にしましたのか、という問いを愚直に聞きました。中国の「文化大革命」(1966)の運動に触発されたのに、日本に起きた革命に基づいて、それを「1968」にした途端に、ナルシシズム=ナショナリズムに回収されるでは?と。
それについて、絓さんも優しく答えてくれました。「1968」は単に一つの象徴だと、前後の幅がある、と言いました。時間的な原因で、話の内容を深めることはなかったですが。
その後、色々と考えました。なぜ「1968」という数字にするかは、もしかしたら、フランス五月革命が1968年に起きたことが原因か、それを「世界革命」という文脈の上で語るのは一応理解できます。あるいは、それを「先進国に起きた革命、つまり、マルクスの「史的唯物論」が言うように、資本主義の発展の果てに、そのリミットを越えようとする革命」という風に、「先進国=最前線の国」に起きた「革命」を強調したかった原因だろうか。そういう意味があるならば、西洋中心主義の域に出られないでは、と思いました。1968年を「偽史」(「史的唯物論」という正史に対して)的想像力の端緒と見ること自体とは矛盾しています。
もちろん、68年革命の可能性を津村喬の「華青闘告発」に見出した絓さんも、あえてその2年後、という「ズレ」た時間(ある意味では、「偽史的」に書き換えようとしたかもしれないですが)にこだわったんですね。しかし、それが「1968」という数字に代表=表象された途端に、「華青闘告発」の内実も極端にいえば、「裏切られた」さえ思いました。「1966」と「1970」という、ある意味では、「東洋」=「後進国」の人民から手を挙げた革命は、結局は、「西洋」=「先進国」の小ブル・インテリの「1968」に代表・回収されてしまったのではないか、と疑問に思いました。
なぜ「1968」という数字か、という素朴な質問に聞こえますが、僕にとっては、かなり根源的なものに関係しているように受け止めています。
もちろん、68年革命は、日本の「華青闘告発」だけではなく、フランス五月革命をはじめ、先進国の知識人/学生乃至労働者などがベトナム、中国など地理的に離れたアジアに起きたことを、想像/創造的飛躍によって、連帯=架橋する試みだろうと思います。彼女/彼らの視線には、あるいは「アジア」という「他者」ですね。そして、それが資本主義という「世界帝国」の支配構造下にある「第三世界」という外部でもあります。つまり、その「彼女/彼ら」といった、資本主義社会にありながら、そのリミットを感じた主体を孕んだ歴史的射程を「1968」という数字で記述しているかな、と推測していますが。それでも、先進国の「彼女/彼ら」が触発(あるいは刺激を受けた)されたという「受動的」というか、それなのに、「主体的」に、「能動的」な「語り」で語られています。
まさに、絓さん本人が言うように、「幅がある」ということばがあらわしています。それはいろんな要素、出来事、思想が複合的に相まって、いわば「偶然的」に起きた「革命」ということで、「なぜ文化的に豊かな時代に、革命が起きたのか」、これまでのマルクス主義の「正史」では考えられなかったと言えるでしょう。しかし、僕の質問の意図もまさにそれに関連しているもので、「68年革命」という複合体が「幅がある」故に、「1968」という数字にした時、その曖昧さというか、語りにくさというか、あるいは、その思想性も、革命性も、その曖昧さが故に、弱まっているではないかと言いたかったんです。絓さんも当事者としてきっと、わが子のように、68年革命の革新性と限界性、両方を記述しようとしたんですね。
【なぜ「1968」なのか】
昨日の「1968年と宗教」三回目のシンポジウムに参加してきました。
その後、機会を得て(はじめてなので、かなり緊張してしまって)少しだけ絓さんと話をしました。1968年思想は、なぜ「1968」という数字にしましたのか、という問いを愚直に聞きました。中国の「文化大革命」(1966)の運動に触発されたのに、日本に起きた革命に基づいて、それを「1968」にした途端に、ナルシシズム=ナショナリズムに回収されるでは?と。
それについて、絓さんも優しく答えてくれました。「1968」は単に一つの象徴だと、前後の幅がある、と言いました。時間的な原因で、話の内容を深めることはなかったですが。
その後、色々と考えました。なぜ「1968」という数字にするかは、もしかしたら、フランス五月革命が1968年に起きたことが原因か、それを「世界革命」という文脈の上で語るのは一応理解できます。あるいは、それを「先進国に起きた革命、つまり、マルクスの「史的唯物論」が言うように、資本主義の発展の果てに、そのリミットを越えようとする革命」という風に、「先進国=最前線の国」に起きた「革命」を強調したかった原因だろうか。そういう意味があるならば、西洋中心主義の域に出られないでは、と思いました。1968年を「偽史」(「史的唯物論」という正史に対して)的想像力の端緒と見ること自体とは矛盾しています。
もちろん、68年革命の可能性を津村喬の「華青闘告発」に見出した絓さんも、あえてその2年後、という「ズレ」た時間(ある意味では、「偽史的」に書き換えようとしたかもしれないですが)にこだわったんですね。しかし、それが「1968」という数字に代表=表象された途端に、「華青闘告発」の内実も極端にいえば、「裏切られた」さえ思いました。「1966」と「1970」という、ある意味では、「東洋」=「後進国」の人民から手を挙げた革命は、結局は、「西洋」=「先進国」の小ブル・インテリの「1968」に代表・回収されてしまったのではないか、と疑問に思いました。
なぜ「1968」という数字か、という素朴な質問に聞こえますが、僕にとっては、かなり根源的なものに関係しているように受け止めています。
もちろん、68年革命は、日本の「華青闘告発」だけではなく、フランス五月革命をはじめ、先進国の知識人/学生乃至労働者などがベトナム、中国など地理的に離れたアジアに起きたことを、想像/創造的飛躍によって、連帯=架橋する試みだろうと思います。彼女/彼らの視線には、あるいは「アジア」という「他者」ですね。そして、それが資本主義という「世界帝国」の支配構造下にある「第三世界」という外部でもあります。つまり、その「彼女/彼ら」といった、資本主義社会にありながら、そのリミットを感じた主体を孕んだ歴史的射程を「1968」という数字で記述しているかな、と推測していますが。それでも、先進国の「彼女/彼ら」が触発(あるいは刺激を受けた)されたという「受動的」というか、それなのに、「主体的」に、「能動的」な「語り」で語られています。
まさに、絓さん本人が言うように、「幅がある」ということばがあらわしています。それはいろんな要素、出来事、思想が複合的に相まって、いわば「偶然的」に起きた「革命」ということで、「なぜ文化的に豊かな時代に、革命が起きたのか」、これまでのマルクス主義の「正史」では考えられなかったと言えるでしょう。しかし、僕の質問の意図もまさにそれに関連しているもので、「68年革命」という複合体が「幅がある」故に、「1968」という数字にした時、その曖昧さというか、語りにくさというか、あるいは、その思想性も、革命性も、その曖昧さが故に、弱まっているではないかと言いたかったんです。絓さんも当事者としてきっと、わが子のように、68年革命の革新性と限界性、両方を記述しようとしたんですね。
#丰岛花[超话]#
2023年大河剧《どうする家康》决定出演:
瀬名と命運を共にする少女
たね
豊嶋 花
名門関口家の侍女として、瀬名の世話をする。元康(のちの家康)が織田方に転じたことで、瀬名と共に捕らわれの身となる。武家の娘らしく、信念を持ち義理堅く、苦しい中でも瀬名やその子たちを献身的に支え続ける。心細い瀬名にとっては、頼りになる家族のひとり。
豊嶋 花さんコメント
たねは、侍女として名門関口家に仕えているものの、自分の芯をしっかり持った強い少女だと思います。瀬名の側近であるたねは、どんな人だったのか自分の中で想像力を膨らませて、精いっぱい演じたいです。
2023年大河剧《どうする家康》决定出演:
瀬名と命運を共にする少女
たね
豊嶋 花
名門関口家の侍女として、瀬名の世話をする。元康(のちの家康)が織田方に転じたことで、瀬名と共に捕らわれの身となる。武家の娘らしく、信念を持ち義理堅く、苦しい中でも瀬名やその子たちを献身的に支え続ける。心細い瀬名にとっては、頼りになる家族のひとり。
豊嶋 花さんコメント
たねは、侍女として名門関口家に仕えているものの、自分の芯をしっかり持った強い少女だと思います。瀬名の側近であるたねは、どんな人だったのか自分の中で想像力を膨らませて、精いっぱい演じたいです。
ストーリー
舞台は広島のとある高校。「マコト」は、成績は悪いが小さい頃から想像力豊かなSF大好き 高3女子。中学生の時にCMで見たマグロボに一目惚れし、将来は近畿大学工学部に入学して ロボットを作るのが夢だった。しかし、模試の結果はF判定。そんなある日、未来からやってきた謎の青年シンイチと出会う。シンイチ曰く、ディストピアとなった未来を救うためには、マコトが大学に進学し戦闘ロボットの設計図を完成させるしかない。
そこからふたりの運命は大きく動き出す。
果たして、マコトは無事に大学合格できるのか!?
そして、ふたりは未来を救うことができるのか!?
今夏から受験まで、未来とアイツを救うために激走する180日の物語。
舞台は広島のとある高校。「マコト」は、成績は悪いが小さい頃から想像力豊かなSF大好き 高3女子。中学生の時にCMで見たマグロボに一目惚れし、将来は近畿大学工学部に入学して ロボットを作るのが夢だった。しかし、模試の結果はF判定。そんなある日、未来からやってきた謎の青年シンイチと出会う。シンイチ曰く、ディストピアとなった未来を救うためには、マコトが大学に進学し戦闘ロボットの設計図を完成させるしかない。
そこからふたりの運命は大きく動き出す。
果たして、マコトは無事に大学合格できるのか!?
そして、ふたりは未来を救うことができるのか!?
今夏から受験まで、未来とアイツを救うために激走する180日の物語。
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