KinKi Kids&吉田拓郎が語る、初の合作曲「Sayonara あいしてる」制作の舞台裏
7月21日(木)20時~『LOVE LOVE あいしてる 最終回・吉田拓郎卒業SP』
https://t.cn/A6a4xrnf
見どころ調査隊
2022年6月25日
バラエティ
『LOVE LOVE あいしてる 最終回・吉田拓郎卒業SP』より、KinKi Kids、吉田拓郎さんのコメントが到着。
KinKi Kids(堂本光一さん、堂本剛さん)と吉田拓郎さんという異色のタッグによる、伝説の音楽バラエティ番組『LOVE LOVE あいしてる』(1996年10月~2001年3月/フジテレビ)が、特別番組『LOVE LOVE あいしてる 最終回・吉田拓郎卒業SP』(7月21日放送)として、5年ぶりに放送されます。
放送は、KinKi KidsがCDデビュー25年目を迎える、7月21日(木)20時~。
また、吉田さんは、この番組が最後のテレビ出演となり、番組も最終回を迎えることとなります。
吉田さんの“卒業式”には、篠原ともえさんや坂崎幸之助(THE ALFEE)さんら番組レギュラー陣に加えて、吉田さんが「最後のテレビ出演に会いたい」とオファーした超豪華ゲストも集結。
さらに、今回のためにKinKi Kidsと吉田さん、3人が初の合作に挑んだ楽曲「Sayonara あいしてる」を披露します。
番組開始から26年の集大成を飾る『LOVE LOVE あいしてる 最終回・吉田拓郎卒業SP』は、7月21日(木)20時より、フジテレビで放送されます。
偶然から始まった奇跡が続いていて、今もその中に僕らが置かれている
<KinKi Kids&吉田拓郎 コメント>
フォトを見る『LOVE LOVE あいしてる 最終回・吉田拓郎卒業SP』放送決定!
左から)堂本剛、吉田拓郎、堂本光一
――放送が決まったときは、どう思いましたか?
堂本光一:拓郎さんの一声で始まりました。『LOVE LOVE~』レギュラー放送のころから、拓郎さんの一声で、みんなが集中してひとつの方向に動き始めるということが多かった気がします。
昔はそういう感覚で物事が進むことは少なくなかったと思うんですけど、今の時代においては、なかなかないこと。今回実現できたのは、拓郎さんのリーダーシップのおかげですし、昔もそうやってやったなという感覚を思い出してうれしかったです。
堂本剛:番組が終わってからも、「『LOVE LOVE~』見てました」と、いろいろな方に言っていただける人生なので、『LOVE LOVE~』という番組が自分だけじゃなくて、いろいろな人たちの記憶に残ってるんだと、影響があった番組なんだなと実感することが多かったんです。
なので、すごくうれしいとともに「ラストか」という気持ちももちろんあります。
でも、リハーサルをやって、「こういう雰囲気だったよな」と、みんなでお話をして。番組が終わってから、長い時間がたったはずなのに、「先月もやっていた」みたいな雰囲気が、めちゃくちゃ不思議で。
篠原(ともえ)も随分会っていなかったですが、あっという間に当時に戻れる感覚。そういう関係性を、画面を通して改めて、みなさんにお届けできることがすごく幸せです。
だから、「放送が決まった」と聞いたときは、そこまで想像できていなかったですけど、改めてリハーサルをしてみてそういう空気感とともに、みなさんに伝えられるという機会をまたいただけたのでうれしいなと思っています。
吉田拓郎:僕は、年齢的にも2人より全然上で、いろいろなことをリタイアしたいなと考えていまして。そういう意味でいうと、テレビとのお付き合いも『LOVE LOVE~』で最後にしたいな、という決心が随分前からありました。
光一と剛と最後に一緒にやって、一緒の時間を過ごして、それを最後のテレビ出演とするのはどうかなと、かねてから思っていました。
それで、プロデューサーと話して、特番などでやれるといいんだけどねと話をさせてもらって。
僕は、とてもすてきな有終の美を飾れそうで、とても幸せ。光一、剛、篠原さん、みなさんに感謝しています。
――改めて、『LOVE LOVE あいしてる』という番組はどんな存在ですか?
吉田:2人ともよく話すのですが、この番組の始まりは偶然だった。海の物とも山の物ともお互いに何も面識もなく、年齢差もすごくあった僕らが集められて、僕らが意識して集まったわけではなく、集められたわけですから。
その偶然からいろんな奇跡が起き始めて、その奇跡をみんなで、僕ら3人だけでなくスタッフも含めて作り上げてきた。
番組が終わって、毎週スタジオに行くことがなくなった寂しさを考え、感じながら、「あの数年間は奇跡的だったな」と思うようになりました。
5年前の特番のときは、終わってから16年もたってから集まったのに、ずっと続けてやっていたような感覚に陥って。不思議なこと起こってるなって。
偶然から始まった奇跡が続いていて、今もその中に僕らが置かれている。残念ながら、この感覚はどなたにもわかっていただけないかもしれない。
でも、光一も剛も、篠原さんも、僕もずっと「何だろう、これ」という感覚を抱きながら、今ここにいるんじゃないかな。僕は、この感覚を感じられることがすごく幸せです。
「番組が特番として帰ってくることも奇跡だと思う」(光一)
――「最後のテレビ出演にする」と聞いたときの心境は?
光一:今回の特番が終わったあとに、拓郎さんに「最後を飾るのに本当にふさわしかったよ」と言っていただけることもすばらしいことだし、「いや、楽しいからもうちょっとやろうかな」と言っていただけるのもうれしいことです。
どっちに転がるかわからないですし、どっちに転がそうとも思っていません。だから拓郎さんがおっしゃったように、ずっと奇跡の中でやってきたので、終わりという言葉というよりも、これからまたどんな奇跡が起きるんだろうという思いでやれば、また奇跡が起きるかもしれない。
フワッとしてるかもしれないんですけど、そんな感覚です。
今こうやって改めて番組が特番として帰ってくることも奇跡だと思います。そこを大事にやっていけば、何かまた生まれるんじゃないかという期待感も込めながら、やりたいなと思います。
剛:僕も同じような気持ちですし、ひとりの人間の人生というのは、それぞれあるわけで。その中で出会いも別れもありますし、思うこともそれぞれ違うし、でも、お互いを尊重し合いながら生きていくのが“仲間”だと思うし、愛する人のためにできることだと思うんです。
リハーサルをして楽しかったし、収録の日も、どんな日も二度とないので、当たり前の中にある喜びをかみ締めながら当日は過ごしたいです。そこで生まれたコミュニケーションがまた何かに繋がるかもしれない。
コロナ禍で、自分自身が部屋でずっと過ごしていたら、拓郎さんから「アレンジをお願いしたい」と電話をいただいて。まったく予想していなかったです。
この大変な時代を、何とか自分なりに耐えている中で、そういうご連絡をいただいたときから今日までがどんどん繋がってるんです。
だから、収録の日も何かが生まれるかもしれないし、生まれないかもしれないけど、でも拓郎さんの言葉にもあったように、わかってもらえないような不思議な関係性の人たちが集う日だし、何かが、始まるんだろうなとは僕は思っています。
光一の言うように、何かが起こるようにわざと導こうとも思ってないし、自分たちらしく楽しく過ごせたら、まずはそれが幸せなんで、そんな日になればいいなと思います。
「久しぶりにこのメンバーで過ごして、めちゃくちゃ楽しい」(剛)
――初の合作曲「Sayonara あいしてる」についての思いは?
吉田:3人で一緒に作った曲を番組で演奏してみたいね、と以前、話をしていました。2人がその場で「ぜひ」と言ってくれたので、俺が詩を書くよ、と。それで、詩を光一と剛に送ったんです。
剛:次の日にきたんですよ。
光一:思いつきが過ぎるんです、拓郎さん(笑)。
剛:次の日にきちゃったから、そのスピード感で返したいと思って。僕は、たまたま家で作業だったので、やっていた作業をいったん止めました。
拓郎さんのスピードに対して、反応した自分のものを作りたいと思って、すぐに作ったんです。光一も、サビの部分を思い浮かべていたから、混ぜてみよう、と。
光一:お互いに拓郎さんの詩を見て、剛もスピード感を持ってやっていたし、僕は舞台中だったんですが、サビに関してはメロディが浮かんでいて。でも、それぞれ思いついたことを形にしていたので、作ってる曲のキーが違ってたので時間がかかってしまって…。
剛:世界観から全然違う。
光一:すり合わせる作業をしていましたが、最終的には「拓郎さんに丸投げするか!何とかしてくれるだろう!」という感じでした(笑)。
吉田:いや~早かった!俺が送ったら、すぐ2人からも「できました」と返事がきて。ずいぶん安易に作るなと思ったよ(笑)。
光一:安易じゃないですよ。
吉田:「人の詩をもっと練って、よく考えたらどうなんだ!」というくらい早かった(笑)。
剛:反射的に作りましたから!
吉田:前もって作ってあったんじゃないの(笑)?舞台中なのに、光一も早かったね。
光一:帝国劇場の楽屋に、拓郎さんの詩をずっと置いていました。
剛:だから、幻のサビがあることにもなるんで、これはいつか歌ってもいいかなとも思っています。拓郎さんは思いつく人だから、僕も同じ鮮度で返したいと思って。そこで躊躇(ちゅうちょ)したりいろいろやったりするよりかは、拓郎さんの詩にお互いに反応したものを見せ合って、それでひとつの曲を作る。それが正解の作り方だと思う。
今回は、サビを光一のサビにしようと決めて混ぜました。だから、ゼロから一緒に考えて作っていたら生まれなかったかもしれないメロディ。そんな制作過程が、この曲ならではの温度感につながったかなと思っています。でも、本当に大変でした(笑)。
吉田:「詩を読みました。感動しました。メロディが浮かんできました」と光一からメールがきて。「これから剛と二人で構築していきます」とメールがきたんですよ。そしたら何日かあとに、「僕と剛は、構築するために何かしたことがないんです」なんて言ってきて(笑)。
光一:お互いに連携を取ってやろうと考えていたんですけど、思えば連携なんて取ったことないなって(笑)。
吉田:剛からAというメロディがきて、光一からはBというメロディが届いて、俺にこれをくっつけてくれと。いかにも、KinKi Kids。委ねられたというか、勝手すぎる(笑)!
剛:光一は舞台をやっていたから、なかなか時間が取れなくて…。
吉田:お前たちは、連携を取るのがイヤなのか(笑)。
光一:なにしろ、会う時間がなかったんです。剛は、さっき言ったようにすごく早くて。勢いを殺したくないという思いはもちろんわかるし。でも、僕は僕の中で思い浮かんでいるものもあって…。
吉田:俺は、2人がどこかの喫茶店で話し合いながら頭を突き合わせて「剛、そこはこうじゃないの?」「光一、それはおかしいよ」なんて言いながら作っているのかと思ってたよ!
光一:そんな2人じゃないことは、わかっているじゃないですか(笑)。
剛:(笑)。大変でしたが、拓郎さんの詩がとてもすてきなので、とても良い曲ができました。久しぶりにこのメンバーで過ごして、めちゃくちゃ楽しいです。
『LOVE LOVE~』をもう一度やりたいなと思うくらい。この空気感を、みなさんに伝えるべく、本番はナチュラルに過ごそうかなと思っています。
光一:冒頭に言ったように「番組をやろう!」という拓郎さんの一言から始まって、「お前ら、曲作れ」と言われて。
「どうしよう!」と思いながらも、みんなでひとつに向かっていくエネルギーが生まれるんです。そのきっかけをくれる方で、それは昔からずっと変わらない。
剛:言い方を変えると「ちょっと、YOUやっちゃいなよ」です(笑)。
光一:本当にそう!今の時代、守りに入らず、そういうエネルギーを持っている人は、なかなか出会えないと思います。
おのずと道ができていく、そこに全員が向かっていってしまう、それが拓郎さんの持つエネルギー。
昔も今もそうやって変わらないのがすてきだし、そこにいられることが幸せだと感じながら準備しています。
公式HP:https://t.cn/A6a4ViJM
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2022年6月25日
バラエティ
『LOVE LOVE あいしてる 最終回・吉田拓郎卒業SP』より、KinKi Kids、吉田拓郎さんのコメントが到着。
KinKi Kids(堂本光一さん、堂本剛さん)と吉田拓郎さんという異色のタッグによる、伝説の音楽バラエティ番組『LOVE LOVE あいしてる』(1996年10月~2001年3月/フジテレビ)が、特別番組『LOVE LOVE あいしてる 最終回・吉田拓郎卒業SP』(7月21日放送)として、5年ぶりに放送されます。
放送は、KinKi KidsがCDデビュー25年目を迎える、7月21日(木)20時~。
また、吉田さんは、この番組が最後のテレビ出演となり、番組も最終回を迎えることとなります。
吉田さんの“卒業式”には、篠原ともえさんや坂崎幸之助(THE ALFEE)さんら番組レギュラー陣に加えて、吉田さんが「最後のテレビ出演に会いたい」とオファーした超豪華ゲストも集結。
さらに、今回のためにKinKi Kidsと吉田さん、3人が初の合作に挑んだ楽曲「Sayonara あいしてる」を披露します。
番組開始から26年の集大成を飾る『LOVE LOVE あいしてる 最終回・吉田拓郎卒業SP』は、7月21日(木)20時より、フジテレビで放送されます。
偶然から始まった奇跡が続いていて、今もその中に僕らが置かれている
<KinKi Kids&吉田拓郎 コメント>
フォトを見る『LOVE LOVE あいしてる 最終回・吉田拓郎卒業SP』放送決定!
左から)堂本剛、吉田拓郎、堂本光一
――放送が決まったときは、どう思いましたか?
堂本光一:拓郎さんの一声で始まりました。『LOVE LOVE~』レギュラー放送のころから、拓郎さんの一声で、みんなが集中してひとつの方向に動き始めるということが多かった気がします。
昔はそういう感覚で物事が進むことは少なくなかったと思うんですけど、今の時代においては、なかなかないこと。今回実現できたのは、拓郎さんのリーダーシップのおかげですし、昔もそうやってやったなという感覚を思い出してうれしかったです。
堂本剛:番組が終わってからも、「『LOVE LOVE~』見てました」と、いろいろな方に言っていただける人生なので、『LOVE LOVE~』という番組が自分だけじゃなくて、いろいろな人たちの記憶に残ってるんだと、影響があった番組なんだなと実感することが多かったんです。
なので、すごくうれしいとともに「ラストか」という気持ちももちろんあります。
でも、リハーサルをやって、「こういう雰囲気だったよな」と、みんなでお話をして。番組が終わってから、長い時間がたったはずなのに、「先月もやっていた」みたいな雰囲気が、めちゃくちゃ不思議で。
篠原(ともえ)も随分会っていなかったですが、あっという間に当時に戻れる感覚。そういう関係性を、画面を通して改めて、みなさんにお届けできることがすごく幸せです。
だから、「放送が決まった」と聞いたときは、そこまで想像できていなかったですけど、改めてリハーサルをしてみてそういう空気感とともに、みなさんに伝えられるという機会をまたいただけたのでうれしいなと思っています。
吉田拓郎:僕は、年齢的にも2人より全然上で、いろいろなことをリタイアしたいなと考えていまして。そういう意味でいうと、テレビとのお付き合いも『LOVE LOVE~』で最後にしたいな、という決心が随分前からありました。
光一と剛と最後に一緒にやって、一緒の時間を過ごして、それを最後のテレビ出演とするのはどうかなと、かねてから思っていました。
それで、プロデューサーと話して、特番などでやれるといいんだけどねと話をさせてもらって。
僕は、とてもすてきな有終の美を飾れそうで、とても幸せ。光一、剛、篠原さん、みなさんに感謝しています。
――改めて、『LOVE LOVE あいしてる』という番組はどんな存在ですか?
吉田:2人ともよく話すのですが、この番組の始まりは偶然だった。海の物とも山の物ともお互いに何も面識もなく、年齢差もすごくあった僕らが集められて、僕らが意識して集まったわけではなく、集められたわけですから。
その偶然からいろんな奇跡が起き始めて、その奇跡をみんなで、僕ら3人だけでなくスタッフも含めて作り上げてきた。
番組が終わって、毎週スタジオに行くことがなくなった寂しさを考え、感じながら、「あの数年間は奇跡的だったな」と思うようになりました。
5年前の特番のときは、終わってから16年もたってから集まったのに、ずっと続けてやっていたような感覚に陥って。不思議なこと起こってるなって。
偶然から始まった奇跡が続いていて、今もその中に僕らが置かれている。残念ながら、この感覚はどなたにもわかっていただけないかもしれない。
でも、光一も剛も、篠原さんも、僕もずっと「何だろう、これ」という感覚を抱きながら、今ここにいるんじゃないかな。僕は、この感覚を感じられることがすごく幸せです。
「番組が特番として帰ってくることも奇跡だと思う」(光一)
――「最後のテレビ出演にする」と聞いたときの心境は?
光一:今回の特番が終わったあとに、拓郎さんに「最後を飾るのに本当にふさわしかったよ」と言っていただけることもすばらしいことだし、「いや、楽しいからもうちょっとやろうかな」と言っていただけるのもうれしいことです。
どっちに転がるかわからないですし、どっちに転がそうとも思っていません。だから拓郎さんがおっしゃったように、ずっと奇跡の中でやってきたので、終わりという言葉というよりも、これからまたどんな奇跡が起きるんだろうという思いでやれば、また奇跡が起きるかもしれない。
フワッとしてるかもしれないんですけど、そんな感覚です。
今こうやって改めて番組が特番として帰ってくることも奇跡だと思います。そこを大事にやっていけば、何かまた生まれるんじゃないかという期待感も込めながら、やりたいなと思います。
剛:僕も同じような気持ちですし、ひとりの人間の人生というのは、それぞれあるわけで。その中で出会いも別れもありますし、思うこともそれぞれ違うし、でも、お互いを尊重し合いながら生きていくのが“仲間”だと思うし、愛する人のためにできることだと思うんです。
リハーサルをして楽しかったし、収録の日も、どんな日も二度とないので、当たり前の中にある喜びをかみ締めながら当日は過ごしたいです。そこで生まれたコミュニケーションがまた何かに繋がるかもしれない。
コロナ禍で、自分自身が部屋でずっと過ごしていたら、拓郎さんから「アレンジをお願いしたい」と電話をいただいて。まったく予想していなかったです。
この大変な時代を、何とか自分なりに耐えている中で、そういうご連絡をいただいたときから今日までがどんどん繋がってるんです。
だから、収録の日も何かが生まれるかもしれないし、生まれないかもしれないけど、でも拓郎さんの言葉にもあったように、わかってもらえないような不思議な関係性の人たちが集う日だし、何かが、始まるんだろうなとは僕は思っています。
光一の言うように、何かが起こるようにわざと導こうとも思ってないし、自分たちらしく楽しく過ごせたら、まずはそれが幸せなんで、そんな日になればいいなと思います。
「久しぶりにこのメンバーで過ごして、めちゃくちゃ楽しい」(剛)
――初の合作曲「Sayonara あいしてる」についての思いは?
吉田:3人で一緒に作った曲を番組で演奏してみたいね、と以前、話をしていました。2人がその場で「ぜひ」と言ってくれたので、俺が詩を書くよ、と。それで、詩を光一と剛に送ったんです。
剛:次の日にきたんですよ。
光一:思いつきが過ぎるんです、拓郎さん(笑)。
剛:次の日にきちゃったから、そのスピード感で返したいと思って。僕は、たまたま家で作業だったので、やっていた作業をいったん止めました。
拓郎さんのスピードに対して、反応した自分のものを作りたいと思って、すぐに作ったんです。光一も、サビの部分を思い浮かべていたから、混ぜてみよう、と。
光一:お互いに拓郎さんの詩を見て、剛もスピード感を持ってやっていたし、僕は舞台中だったんですが、サビに関してはメロディが浮かんでいて。でも、それぞれ思いついたことを形にしていたので、作ってる曲のキーが違ってたので時間がかかってしまって…。
剛:世界観から全然違う。
光一:すり合わせる作業をしていましたが、最終的には「拓郎さんに丸投げするか!何とかしてくれるだろう!」という感じでした(笑)。
吉田:いや~早かった!俺が送ったら、すぐ2人からも「できました」と返事がきて。ずいぶん安易に作るなと思ったよ(笑)。
光一:安易じゃないですよ。
吉田:「人の詩をもっと練って、よく考えたらどうなんだ!」というくらい早かった(笑)。
剛:反射的に作りましたから!
吉田:前もって作ってあったんじゃないの(笑)?舞台中なのに、光一も早かったね。
光一:帝国劇場の楽屋に、拓郎さんの詩をずっと置いていました。
剛:だから、幻のサビがあることにもなるんで、これはいつか歌ってもいいかなとも思っています。拓郎さんは思いつく人だから、僕も同じ鮮度で返したいと思って。そこで躊躇(ちゅうちょ)したりいろいろやったりするよりかは、拓郎さんの詩にお互いに反応したものを見せ合って、それでひとつの曲を作る。それが正解の作り方だと思う。
今回は、サビを光一のサビにしようと決めて混ぜました。だから、ゼロから一緒に考えて作っていたら生まれなかったかもしれないメロディ。そんな制作過程が、この曲ならではの温度感につながったかなと思っています。でも、本当に大変でした(笑)。
吉田:「詩を読みました。感動しました。メロディが浮かんできました」と光一からメールがきて。「これから剛と二人で構築していきます」とメールがきたんですよ。そしたら何日かあとに、「僕と剛は、構築するために何かしたことがないんです」なんて言ってきて(笑)。
光一:お互いに連携を取ってやろうと考えていたんですけど、思えば連携なんて取ったことないなって(笑)。
吉田:剛からAというメロディがきて、光一からはBというメロディが届いて、俺にこれをくっつけてくれと。いかにも、KinKi Kids。委ねられたというか、勝手すぎる(笑)!
剛:光一は舞台をやっていたから、なかなか時間が取れなくて…。
吉田:お前たちは、連携を取るのがイヤなのか(笑)。
光一:なにしろ、会う時間がなかったんです。剛は、さっき言ったようにすごく早くて。勢いを殺したくないという思いはもちろんわかるし。でも、僕は僕の中で思い浮かんでいるものもあって…。
吉田:俺は、2人がどこかの喫茶店で話し合いながら頭を突き合わせて「剛、そこはこうじゃないの?」「光一、それはおかしいよ」なんて言いながら作っているのかと思ってたよ!
光一:そんな2人じゃないことは、わかっているじゃないですか(笑)。
剛:(笑)。大変でしたが、拓郎さんの詩がとてもすてきなので、とても良い曲ができました。久しぶりにこのメンバーで過ごして、めちゃくちゃ楽しいです。
『LOVE LOVE~』をもう一度やりたいなと思うくらい。この空気感を、みなさんに伝えるべく、本番はナチュラルに過ごそうかなと思っています。
光一:冒頭に言ったように「番組をやろう!」という拓郎さんの一言から始まって、「お前ら、曲作れ」と言われて。
「どうしよう!」と思いながらも、みんなでひとつに向かっていくエネルギーが生まれるんです。そのきっかけをくれる方で、それは昔からずっと変わらない。
剛:言い方を変えると「ちょっと、YOUやっちゃいなよ」です(笑)。
光一:本当にそう!今の時代、守りに入らず、そういうエネルギーを持っている人は、なかなか出会えないと思います。
おのずと道ができていく、そこに全員が向かっていってしまう、それが拓郎さんの持つエネルギー。
昔も今もそうやって変わらないのがすてきだし、そこにいられることが幸せだと感じながら準備しています。
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挡烟垂壁施工质量验收规范
(一)放线定位
(1)挡烟垂壁定位轴线的测量放线必须与主体结构的主轴线平行或垂直,以免挡烟垂壁施工和室内装饰施工发生矛盾,造成阴阳角不方正和装饰面不平行等缺陷。
(2)要使用高精度的激光水准仪、经纬仪,配合用标准钢卷尺、重锤、水平尺等复核。以确保挡烟垂壁的垂直精度。要求上、下中心线偏差小于 1~2mm。
(二)上部吊杆安装
(1)注意检查丝杆和金属膨胀管的牢固,选用的丝杆和金属膨胀管质量要可靠,打孔位置不宜靠近钢筋混凝土构件的边缘,钻孔孔径和高层度要符合金属膨胀管厂家的技术规定,孔内灰渣要清吹干净。
(2)每个丝杆安装位置和高度都应严格按照放线定位和设计图纸要求进行。较主要的是丝杆的中心线必须与铝合金构件中心线相一致,并且椭圆螺孔中心要与设计的吊杆螺栓位置一致。
(3)所有丝杆安装完毕后,应进行隐蔽工程质量验收,请监理工程师验收签字,验收合格后再涂刷防锈漆。
(三)玻璃安装就位
1.玻璃吊装
玻璃的安装是一项十分细致、准确的整体筹备施工。施工前要检查每个工位的人员到位,各种机具工具是否齐全正常,安全措施是否可靠。高空作业的工具和零件要有工具包和可靠放置,防止物件掉落伤人或击破玻璃。待一切检查完毕后方可吊装玻璃。
(1)再一次检查玻璃的质量,尤其要注意玻璃有无裂纹和崩边,吊夹铜片位置是否正确。用干布将玻璃的表面浮灰抹净,用记号笔标注玻璃的中心位置。
(2)安装电动吸盘机。电动吸盘机必须定位,左右对称,且略偏玻璃中心上方,使起吊后的玻璃不会左右偏斜,也不会发生转动。
(3)在玻璃适当位置安装手动吸盘、侧边保护胶套。玻璃上的手动吸盘可使在玻璃就位时,在不同高度工作的工人都能用手协助玻璃就位。
2.玻璃就位
(1)手工或电动将玻璃移近就位位置后,搬运工要听从指挥长的命令操作,使玻璃对准位置徐徐靠近。
(2)上层工人要把握好玻璃,防止玻璃在升降移位时碰撞吊顶。待下层各工位工人都能把握住手动吸盘后,可将拼缝一侧的保护胶套摘去。使用手动倒链将玻璃徐徐吊高,使玻璃上端略低出上部边框少许。此时,下部工人要及时将玻璃轻轻拉入槽口,并用木板隔挡,防止与相邻玻璃碰撞。另外,有工人用木板依靠玻璃下端,保证在倒链慢慢上放玻璃时,玻璃能被放入到上框槽口内,要避免玻璃上端与金属槽口磕碰。
(3)玻璃定位。安装好玻璃吊夹具,将玻璃的孔与铝合金的孔对牢并用对撬螺杆将玻璃和铝构件对穿固定。靠前块玻璃就位后要检查玻璃侧边的垂直度,以后就位的玻璃只需检查与已就位好的玻璃上下缝隙是否相等,且符合设计要求。
(4)在一个洞口的玻璃挡烟垂壁的全部安装固定以后将搽干净的下封边的铝合金拿出在玻璃的下底边用玻璃胶封边
(五)注密封胶
(1)所有注胶部位的玻璃和金属表面都要用丙酮或专用清洁剂擦拭干净,不能用湿布和清水擦洗,注胶部位表面必须干燥。
(2)沿胶缝位置粘贴胶带纸带,防止硅胶污染玻璃。
(3)要安排受过训练的专业注胶工施工,注胶时应内外双方同时进行,注胶要匀速、匀厚,不夹气泡。
(4)注胶后用专用工具刮胶,使胶缝呈微凹曲面。
(5)注胶也不宜在低于 5的低温条件下进行,温度太低胶液会发生流淌、延缓固化时间,甚至会影响拉伸强度。严格遵照产品说明书要求施工。
(6)耐候硅酮嵌缝胶的施工厚度应介于 3 5mm-4 5mm之间,太薄的胶缝对保证密封质量。
(7)胶缝的宽度通过设计计算确定,较小宽度为 1mm,常用宽度为 2mm。
(8)密封胶必须在产品有效期内使用,施工验收报告要有产品证明文件和记录。
(六)表面清洁和验收
(1)将玻璃内外表面清洗干净。
(2)再一次检查胶缝并进行必要的修补。
(3)整理施工记录和验收文件,积累经验和资料
挡烟垂壁放线定位
1.挡烟垂壁定位轴线的测量放线必须和主题结构的主轴线平行或垂直,以免挡烟垂壁施工和室内装饰施工发生矛盾,造成阴阳角不方正和装饰面不平行等缺陷
2.要使用高精度的激光水准仪、经纬仪、配合用标准钢卷尺、重锤、水平吃等复核。以确保挡烟垂壁的垂直精度,要求上、下中心线偏差小于1-2mm
挡烟垂壁上部吊杆安装
1.注意检查丝杆和金属膨胀管的牢固,选用的丝杆和金属膨胀管质量要可靠,打孔位置不宜靠近钢筋混凝土构建的边缘,钻孔孔径和深度要符合金属膨胀管厂家的技术规定,孔内灰渣要清吹干净。
2.每个丝杆安装位置和高度都应严格按照放线定位和设计图纸要求进行。最主要的是丝杆的中心线和铝合金构件中心线一致,并且椭圆螺孔中心要和设计的吊杆螺栓位置一致
3.所有丝杆安装完毕后,应进行隐藏工程质量验收,请监理工程师验收签字,验收合格后再涂刷防锈漆。
只有符合了这些验收标准的挡烟垂壁才算是合格的挡烟垂壁,才能通过消防验收投入使用。所以一定要找一个专业的厂家去做,避免后期影响工程进度。
(一)放线定位
(1)挡烟垂壁定位轴线的测量放线必须与主体结构的主轴线平行或垂直,以免挡烟垂壁施工和室内装饰施工发生矛盾,造成阴阳角不方正和装饰面不平行等缺陷。
(2)要使用高精度的激光水准仪、经纬仪,配合用标准钢卷尺、重锤、水平尺等复核。以确保挡烟垂壁的垂直精度。要求上、下中心线偏差小于 1~2mm。
(二)上部吊杆安装
(1)注意检查丝杆和金属膨胀管的牢固,选用的丝杆和金属膨胀管质量要可靠,打孔位置不宜靠近钢筋混凝土构件的边缘,钻孔孔径和高层度要符合金属膨胀管厂家的技术规定,孔内灰渣要清吹干净。
(2)每个丝杆安装位置和高度都应严格按照放线定位和设计图纸要求进行。较主要的是丝杆的中心线必须与铝合金构件中心线相一致,并且椭圆螺孔中心要与设计的吊杆螺栓位置一致。
(3)所有丝杆安装完毕后,应进行隐蔽工程质量验收,请监理工程师验收签字,验收合格后再涂刷防锈漆。
(三)玻璃安装就位
1.玻璃吊装
玻璃的安装是一项十分细致、准确的整体筹备施工。施工前要检查每个工位的人员到位,各种机具工具是否齐全正常,安全措施是否可靠。高空作业的工具和零件要有工具包和可靠放置,防止物件掉落伤人或击破玻璃。待一切检查完毕后方可吊装玻璃。
(1)再一次检查玻璃的质量,尤其要注意玻璃有无裂纹和崩边,吊夹铜片位置是否正确。用干布将玻璃的表面浮灰抹净,用记号笔标注玻璃的中心位置。
(2)安装电动吸盘机。电动吸盘机必须定位,左右对称,且略偏玻璃中心上方,使起吊后的玻璃不会左右偏斜,也不会发生转动。
(3)在玻璃适当位置安装手动吸盘、侧边保护胶套。玻璃上的手动吸盘可使在玻璃就位时,在不同高度工作的工人都能用手协助玻璃就位。
2.玻璃就位
(1)手工或电动将玻璃移近就位位置后,搬运工要听从指挥长的命令操作,使玻璃对准位置徐徐靠近。
(2)上层工人要把握好玻璃,防止玻璃在升降移位时碰撞吊顶。待下层各工位工人都能把握住手动吸盘后,可将拼缝一侧的保护胶套摘去。使用手动倒链将玻璃徐徐吊高,使玻璃上端略低出上部边框少许。此时,下部工人要及时将玻璃轻轻拉入槽口,并用木板隔挡,防止与相邻玻璃碰撞。另外,有工人用木板依靠玻璃下端,保证在倒链慢慢上放玻璃时,玻璃能被放入到上框槽口内,要避免玻璃上端与金属槽口磕碰。
(3)玻璃定位。安装好玻璃吊夹具,将玻璃的孔与铝合金的孔对牢并用对撬螺杆将玻璃和铝构件对穿固定。靠前块玻璃就位后要检查玻璃侧边的垂直度,以后就位的玻璃只需检查与已就位好的玻璃上下缝隙是否相等,且符合设计要求。
(4)在一个洞口的玻璃挡烟垂壁的全部安装固定以后将搽干净的下封边的铝合金拿出在玻璃的下底边用玻璃胶封边
(五)注密封胶
(1)所有注胶部位的玻璃和金属表面都要用丙酮或专用清洁剂擦拭干净,不能用湿布和清水擦洗,注胶部位表面必须干燥。
(2)沿胶缝位置粘贴胶带纸带,防止硅胶污染玻璃。
(3)要安排受过训练的专业注胶工施工,注胶时应内外双方同时进行,注胶要匀速、匀厚,不夹气泡。
(4)注胶后用专用工具刮胶,使胶缝呈微凹曲面。
(5)注胶也不宜在低于 5的低温条件下进行,温度太低胶液会发生流淌、延缓固化时间,甚至会影响拉伸强度。严格遵照产品说明书要求施工。
(6)耐候硅酮嵌缝胶的施工厚度应介于 3 5mm-4 5mm之间,太薄的胶缝对保证密封质量。
(7)胶缝的宽度通过设计计算确定,较小宽度为 1mm,常用宽度为 2mm。
(8)密封胶必须在产品有效期内使用,施工验收报告要有产品证明文件和记录。
(六)表面清洁和验收
(1)将玻璃内外表面清洗干净。
(2)再一次检查胶缝并进行必要的修补。
(3)整理施工记录和验收文件,积累经验和资料
挡烟垂壁放线定位
1.挡烟垂壁定位轴线的测量放线必须和主题结构的主轴线平行或垂直,以免挡烟垂壁施工和室内装饰施工发生矛盾,造成阴阳角不方正和装饰面不平行等缺陷
2.要使用高精度的激光水准仪、经纬仪、配合用标准钢卷尺、重锤、水平吃等复核。以确保挡烟垂壁的垂直精度,要求上、下中心线偏差小于1-2mm
挡烟垂壁上部吊杆安装
1.注意检查丝杆和金属膨胀管的牢固,选用的丝杆和金属膨胀管质量要可靠,打孔位置不宜靠近钢筋混凝土构建的边缘,钻孔孔径和深度要符合金属膨胀管厂家的技术规定,孔内灰渣要清吹干净。
2.每个丝杆安装位置和高度都应严格按照放线定位和设计图纸要求进行。最主要的是丝杆的中心线和铝合金构件中心线一致,并且椭圆螺孔中心要和设计的吊杆螺栓位置一致
3.所有丝杆安装完毕后,应进行隐藏工程质量验收,请监理工程师验收签字,验收合格后再涂刷防锈漆。
只有符合了这些验收标准的挡烟垂壁才算是合格的挡烟垂壁,才能通过消防验收投入使用。所以一定要找一个专业的厂家去做,避免后期影响工程进度。
《最敢赌的福建首富:2天赚7亿,押上254亿赌8年,终鲸吞云南白药》2018年6月11日,云南白药控股有限公司正式完成工商变更,陈发树接任公司法定代表人,并成为公司董事长。https://t.cn/A66JDpep 前后历经八年时间,陈发树终于在耗费1700余万诉讼费、差点倾尽家产的情况下,成功坐上了云南白药的董事长之位。
这一次的成功不过是他事业版图中的其中一次“赌博”。
创业40年来,陈发树的经历颇为传奇,被称为最敢赌的福建首富。
那么,他的创业之路究竟有着怎样传奇的故事呢?历经8年的云南白药诉讼案,中间又经历了哪些曲折过程?
01 第一次追逐云南白药失败
2009年9月10日,陈发树与云南白药旗下第二大股东——云南红塔集团有限公司签订了股权转让合同,以22亿余元收购了红塔集团在云南白药的6581.3912万股股份。

终于将心心念念的云南白药纳入自己的商业版图,陈发树当晚就忍不住庆祝起来,甚至还办了一场庆祝酒会。
可他没想到的是,这次的股权转让远比他想象得要复杂、艰难。
按照规定,合同签署的5天之内陈发树一方就要把22亿元尽数汇到红塔公司账户。
为了避免夜长梦多,陈发树签订合同的当天就开始筹集资金,第二天就把钱打了过去。
然而,红塔公司的股权却迟迟没有转让到陈发树手中,云南白药公司也一直没有发布任何有关股权变动的工商变更。
陈发树预感到可能有变,只能多番催促红塔公司尽快执行股权变更。
面对陈发树的催促,红塔始终以“股权协议签订后,须获得国有资产监督管理机构的批准才能生效”回复。

后面的两年中,红塔公司也一直以此为理由拒绝进行股权的分割与转让。
虽然陈发树也多次亲自上门协商,但最终都是不了了事。
股权拿不到手,22亿元流动资金也被暂时扣在了红塔公司一方,这让陈发树感到非常憋屈。
到了2011年底,陈发树苦等800多天,终于收到了总公司的回复,但回复内容并不是股权转让得到批准,而是一则否定书。
两年的苦等,最后却被一句“不同意”给打发了,陈发树再也忍不住心中的怒火,一纸诉状将红塔公司告上了法庭。
随后,云南省高级人民法院随即介入此案件。
据调查,2009年双方签订的股权转让协议中的确有一条说明:转让完成尚需监管部门审核批准。
当然,协议中同样有说明:倘若股权转让协议未得到上级批复同意,22亿元将无息退还给陈发树一方。

就这样,陈发树一方以:红塔公司拖延合同执行时间,22亿元白白存放在其账户上为由向红塔公司发难。
可是,这样的方法很难如陈发树所愿。
事实也的确如此,5天后陈发树了书面答复:经查,你的请求不属于行政复议范围。
短短一句话,宣告了陈发树的第一次上诉失败。
自此,陈发树已经花费了1000万的打官司费用,面对这样的结果,陈发树的律师表示:“我们很快会有下一步的举措。”
显然,陈发树还没有放弃云南白药这块商业版图。
而让所有人都没想到的是,陈发树会倾其所有,为了云南白药前后“豪赌”8年时间。
02 “豪赌”8年终入主云南白药
红塔公司没了指望,陈发树开始将眼光放到二级市场。他通过二级市场大肆收购云南白药股权,并且顺利进入十大股东之列。

彼时,一个契机使得陈发树再次向云南白药发起了进攻。
2014年,云南省对云南白药提出混改的要求。
这就意味着云南白药的股权要在市场抛售,股权结构方面民企也可以光明正大的涉足。
后面的两年中,云南省和云南白药公司先后约谈了阿里巴巴、新华都(陈发树公司)、华润等公司,并于2016年4月在昆明展开竞标。
这次竞标对于陈发树来说异常重要,这不仅关乎着他的商业版图能否顺利扩张,更重要的是他要一雪前耻。
竞标前陈发树就做足了准备。
为了聚拢资金,他将新华都公司的流动资金尽数拿出;在工作重心上,他更是不顾新华都最近几年连年亏损的情况,眼睛死死地盯住云南白药。
所幸,陈发树的付出没有白费。
在竞标答辩时,他对云南白药发展前景的判断与描述深得人心;在资金支持上,新华都虽不比其他几个巨头公司占优,但也是诚意满满。

最终,新华都一路过关斩将,成功拿到云南白药45%的股份。
2016年7月19日,云南白药发布重大事项停牌公告,正式宣布新华都集团进入云南白药。
此外,陈发树为了彻底掌控云南白药集团,则是又将自身的“赌徒”特质发挥到淋漓尽致。
云南白药宣布停牌5个月后,陈发树单方面对公司增资254亿元,再次间接控股云南白药25%的股权。
自此,陈发树终于入主云南白药公司。
不过,这是一步非常险的棋,254亿元几乎是陈发树的全部身家,为了拿到这笔钱,他卖掉了在厦门的数千亩优质土地资源,还把新华都公司的股份抵押给了银行。
陈发树已经倾尽家产,在8年“豪赌”的最后关头押上了自己的全部筹码,倘若一旦出现意外,他的商业帝国将会轰然倒塌。

幸运的是,这场持续了8年的“豪赌”终究还是赌赢了。
其实,这次“豪赌”也只是他在资本市场上的诸多“赌博”之一,甚至可以说,他之所以能从一个小学都没读过的农村孩子,一步步坐到福建首富的位子很大一部分原因都要归结于他“敢赌”。
03 靠“赌”发家
1982年,刚刚20岁出头的陈发树,为了自己的梦想想方设法地换来了一张开往厦门的车票。
陈发树深知一成不变只能得过且过,所以他想要去看看外面的世界。
陈发树此行的目的是见识一下外面的广阔世界,顺便看看能不能找到赚钱的路子。
事情发的发展出乎意料,这个机会竟然还真被他找到了。
原来,当陈发树来到厦门后,他发现厦门各行业普遍缺少稳定、优质的木材供应商。

市场上的木材价格远高于其他地区,而自己正是在安溪林场工作,要是能用安溪的木材打开厦门市场,中间肯定有很大利润。
巨大利益的同时也伴随着不小风险。
一方面陈发树是第一次来到厦门,摸不准哪些企业靠谱,就算找到合适的企业,别人也未必会跟自己合作;另一方面他也没什么积蓄,要想靠贩卖木材赚取差价,只能借钱周转。
这也就是说,一旦这中间出现了意外,自己就会负债累累。
面对极大的“未知性”,陈发树为了完成自己的梦想,他愿意冒险“赌一把”。
很快,陈发树坐公交车再一次来到了厦门。
他找到一家家具公司,好说歹说才与其签下两车木材的交易合同。
签完合同后,他激动地返回了林场,从老板那里赊来两车木头,并于第二天成功交付到了家具厂。

一来一回,陈发树净赚1000元,他人生中的第一次“赌博”赌赢了。
尝到甜头的陈发树很快就与越来越多厂家签订了合同,一步步成为了泉州、厦门一带最大的木材供应商。
后来,陈发树又将目光放到了百货行业。
经过几年的打拼,他所创立的新华都百货一步步成为了国内首屈一指的百货公司。也正是因为有了新华都百货作为基础,陈发树才有了后面的多番“豪赌”。
1997年,陈发树豪掷6000万买下一批水电站设备,进军工程行业。
后来,陈发树结识了紫金矿业的董事长陈景河,双方很聊得来。
于是,陈景河就将紫金矿业的外包工程交给了陈发树来做,陈发树也借此一举进入矿山产业。
2000年,紫金矿业为了盘活资金决定改制,大规模引进外部资本。
可当时的紫金矿业受限于开采技术,探测到的可开采量仅剩余5.45吨,市场评估价值不到1.5亿元。

这种规模的金属矿算得上是非常贫瘠,且毫无发展潜力,所以紫金矿业的股价即使压得很低也一直没有人购买。
就在这时,陈发树在所有同行异样的目光中果断出手,通过新华都及其下属的三家公司,共出资4800万拿下紫金矿业33%的股份,再加上陈发树个人持有的7%份额,他一跃成为了紫金矿业的最大股东。
陈发树之所以敢这么“赌”,就是因为他的眼光非常长远。
他知道紫金矿业的贫瘠只是暂时的,一旦开采技术有了突破,紫金矿业的价值立马就会上去。
果然,仅仅过了几个月,紫金矿业就宣布因为技术的更新,金矿可开采储量已由5.5吨飙涨到了200吨。
消息一经传出,紫金矿业股价一路飞升,并于2003年重新上市,作为最大持股人的陈发树身价剧增10亿港元。

2009年4月起,为了筹措收购云南白药股权所需资金,陈发树大手笔抛售紫金矿业股权,半年时间就从A股市场套现42亿元。
紫金矿业的这次“豪赌”,让陈发树赚得盆满钵满,也让他在业界一炮而红,被称为“最敢赌”的福建首富。
而几年后,陈发树的另一手操作再次震惊业界。
2014年12月9日晚间,三一重工发布公告:三一集团与陈发树及上海朱雀珠玉橙投资中心签订《股权转让协议》。
三一集团持有的45000万股份以21亿元的市场价格转让给陈发树和上海朱雀投资,其中,陈发树占股3.94%。
在刚刚经历了云南白药股权收购的失败后,陈发树并没有因此一蹶不振,反而转手就将之前压在红塔集团的22亿元注资到了三一集团,业界无不佩服他的勇气和魄力。
可他们不知道的是,陈发树每一次“赌博”的背后,是对市场、政策、行情年复一年、日复一日的刻苦研究。

这一次他之所以大手笔入股三一重工,就是嗅到了“一带一路”计划即将带来的市场变化。
随着“一带一路”计划不断发酵,陈发树大胆预测:不久的未来,中国的重工业将会大跨步走出国门,届时三一重工的股价将会飞涨。
或许是命运的眷顾 ,也可能是上天在补偿陈发树前几年在云南白药上吃的亏。他在签订股权转让合同后,三一重工的股价就开始一路上涨,仅仅两天时间陈发树就实现了7亿元的盈利。
这一次的成功不过是他事业版图中的其中一次“赌博”。
创业40年来,陈发树的经历颇为传奇,被称为最敢赌的福建首富。
那么,他的创业之路究竟有着怎样传奇的故事呢?历经8年的云南白药诉讼案,中间又经历了哪些曲折过程?
01 第一次追逐云南白药失败
2009年9月10日,陈发树与云南白药旗下第二大股东——云南红塔集团有限公司签订了股权转让合同,以22亿余元收购了红塔集团在云南白药的6581.3912万股股份。

终于将心心念念的云南白药纳入自己的商业版图,陈发树当晚就忍不住庆祝起来,甚至还办了一场庆祝酒会。
可他没想到的是,这次的股权转让远比他想象得要复杂、艰难。
按照规定,合同签署的5天之内陈发树一方就要把22亿元尽数汇到红塔公司账户。
为了避免夜长梦多,陈发树签订合同的当天就开始筹集资金,第二天就把钱打了过去。
然而,红塔公司的股权却迟迟没有转让到陈发树手中,云南白药公司也一直没有发布任何有关股权变动的工商变更。
陈发树预感到可能有变,只能多番催促红塔公司尽快执行股权变更。
面对陈发树的催促,红塔始终以“股权协议签订后,须获得国有资产监督管理机构的批准才能生效”回复。

后面的两年中,红塔公司也一直以此为理由拒绝进行股权的分割与转让。
虽然陈发树也多次亲自上门协商,但最终都是不了了事。
股权拿不到手,22亿元流动资金也被暂时扣在了红塔公司一方,这让陈发树感到非常憋屈。
到了2011年底,陈发树苦等800多天,终于收到了总公司的回复,但回复内容并不是股权转让得到批准,而是一则否定书。
两年的苦等,最后却被一句“不同意”给打发了,陈发树再也忍不住心中的怒火,一纸诉状将红塔公司告上了法庭。
随后,云南省高级人民法院随即介入此案件。
据调查,2009年双方签订的股权转让协议中的确有一条说明:转让完成尚需监管部门审核批准。
当然,协议中同样有说明:倘若股权转让协议未得到上级批复同意,22亿元将无息退还给陈发树一方。

就这样,陈发树一方以:红塔公司拖延合同执行时间,22亿元白白存放在其账户上为由向红塔公司发难。
可是,这样的方法很难如陈发树所愿。
事实也的确如此,5天后陈发树了书面答复:经查,你的请求不属于行政复议范围。
短短一句话,宣告了陈发树的第一次上诉失败。
自此,陈发树已经花费了1000万的打官司费用,面对这样的结果,陈发树的律师表示:“我们很快会有下一步的举措。”
显然,陈发树还没有放弃云南白药这块商业版图。
而让所有人都没想到的是,陈发树会倾其所有,为了云南白药前后“豪赌”8年时间。
02 “豪赌”8年终入主云南白药
红塔公司没了指望,陈发树开始将眼光放到二级市场。他通过二级市场大肆收购云南白药股权,并且顺利进入十大股东之列。

彼时,一个契机使得陈发树再次向云南白药发起了进攻。
2014年,云南省对云南白药提出混改的要求。
这就意味着云南白药的股权要在市场抛售,股权结构方面民企也可以光明正大的涉足。
后面的两年中,云南省和云南白药公司先后约谈了阿里巴巴、新华都(陈发树公司)、华润等公司,并于2016年4月在昆明展开竞标。
这次竞标对于陈发树来说异常重要,这不仅关乎着他的商业版图能否顺利扩张,更重要的是他要一雪前耻。
竞标前陈发树就做足了准备。
为了聚拢资金,他将新华都公司的流动资金尽数拿出;在工作重心上,他更是不顾新华都最近几年连年亏损的情况,眼睛死死地盯住云南白药。
所幸,陈发树的付出没有白费。
在竞标答辩时,他对云南白药发展前景的判断与描述深得人心;在资金支持上,新华都虽不比其他几个巨头公司占优,但也是诚意满满。

最终,新华都一路过关斩将,成功拿到云南白药45%的股份。
2016年7月19日,云南白药发布重大事项停牌公告,正式宣布新华都集团进入云南白药。
此外,陈发树为了彻底掌控云南白药集团,则是又将自身的“赌徒”特质发挥到淋漓尽致。
云南白药宣布停牌5个月后,陈发树单方面对公司增资254亿元,再次间接控股云南白药25%的股权。
自此,陈发树终于入主云南白药公司。
不过,这是一步非常险的棋,254亿元几乎是陈发树的全部身家,为了拿到这笔钱,他卖掉了在厦门的数千亩优质土地资源,还把新华都公司的股份抵押给了银行。
陈发树已经倾尽家产,在8年“豪赌”的最后关头押上了自己的全部筹码,倘若一旦出现意外,他的商业帝国将会轰然倒塌。

幸运的是,这场持续了8年的“豪赌”终究还是赌赢了。
其实,这次“豪赌”也只是他在资本市场上的诸多“赌博”之一,甚至可以说,他之所以能从一个小学都没读过的农村孩子,一步步坐到福建首富的位子很大一部分原因都要归结于他“敢赌”。
03 靠“赌”发家
1982年,刚刚20岁出头的陈发树,为了自己的梦想想方设法地换来了一张开往厦门的车票。
陈发树深知一成不变只能得过且过,所以他想要去看看外面的世界。
陈发树此行的目的是见识一下外面的广阔世界,顺便看看能不能找到赚钱的路子。
事情发的发展出乎意料,这个机会竟然还真被他找到了。
原来,当陈发树来到厦门后,他发现厦门各行业普遍缺少稳定、优质的木材供应商。

市场上的木材价格远高于其他地区,而自己正是在安溪林场工作,要是能用安溪的木材打开厦门市场,中间肯定有很大利润。
巨大利益的同时也伴随着不小风险。
一方面陈发树是第一次来到厦门,摸不准哪些企业靠谱,就算找到合适的企业,别人也未必会跟自己合作;另一方面他也没什么积蓄,要想靠贩卖木材赚取差价,只能借钱周转。
这也就是说,一旦这中间出现了意外,自己就会负债累累。
面对极大的“未知性”,陈发树为了完成自己的梦想,他愿意冒险“赌一把”。
很快,陈发树坐公交车再一次来到了厦门。
他找到一家家具公司,好说歹说才与其签下两车木材的交易合同。
签完合同后,他激动地返回了林场,从老板那里赊来两车木头,并于第二天成功交付到了家具厂。

一来一回,陈发树净赚1000元,他人生中的第一次“赌博”赌赢了。
尝到甜头的陈发树很快就与越来越多厂家签订了合同,一步步成为了泉州、厦门一带最大的木材供应商。
后来,陈发树又将目光放到了百货行业。
经过几年的打拼,他所创立的新华都百货一步步成为了国内首屈一指的百货公司。也正是因为有了新华都百货作为基础,陈发树才有了后面的多番“豪赌”。
1997年,陈发树豪掷6000万买下一批水电站设备,进军工程行业。
后来,陈发树结识了紫金矿业的董事长陈景河,双方很聊得来。
于是,陈景河就将紫金矿业的外包工程交给了陈发树来做,陈发树也借此一举进入矿山产业。
2000年,紫金矿业为了盘活资金决定改制,大规模引进外部资本。
可当时的紫金矿业受限于开采技术,探测到的可开采量仅剩余5.45吨,市场评估价值不到1.5亿元。

这种规模的金属矿算得上是非常贫瘠,且毫无发展潜力,所以紫金矿业的股价即使压得很低也一直没有人购买。
就在这时,陈发树在所有同行异样的目光中果断出手,通过新华都及其下属的三家公司,共出资4800万拿下紫金矿业33%的股份,再加上陈发树个人持有的7%份额,他一跃成为了紫金矿业的最大股东。
陈发树之所以敢这么“赌”,就是因为他的眼光非常长远。
他知道紫金矿业的贫瘠只是暂时的,一旦开采技术有了突破,紫金矿业的价值立马就会上去。
果然,仅仅过了几个月,紫金矿业就宣布因为技术的更新,金矿可开采储量已由5.5吨飙涨到了200吨。
消息一经传出,紫金矿业股价一路飞升,并于2003年重新上市,作为最大持股人的陈发树身价剧增10亿港元。

2009年4月起,为了筹措收购云南白药股权所需资金,陈发树大手笔抛售紫金矿业股权,半年时间就从A股市场套现42亿元。
紫金矿业的这次“豪赌”,让陈发树赚得盆满钵满,也让他在业界一炮而红,被称为“最敢赌”的福建首富。
而几年后,陈发树的另一手操作再次震惊业界。
2014年12月9日晚间,三一重工发布公告:三一集团与陈发树及上海朱雀珠玉橙投资中心签订《股权转让协议》。
三一集团持有的45000万股份以21亿元的市场价格转让给陈发树和上海朱雀投资,其中,陈发树占股3.94%。
在刚刚经历了云南白药股权收购的失败后,陈发树并没有因此一蹶不振,反而转手就将之前压在红塔集团的22亿元注资到了三一集团,业界无不佩服他的勇气和魄力。
可他们不知道的是,陈发树每一次“赌博”的背后,是对市场、政策、行情年复一年、日复一日的刻苦研究。

这一次他之所以大手笔入股三一重工,就是嗅到了“一带一路”计划即将带来的市场变化。
随着“一带一路”计划不断发酵,陈发树大胆预测:不久的未来,中国的重工业将会大跨步走出国门,届时三一重工的股价将会飞涨。
或许是命运的眷顾 ,也可能是上天在补偿陈发树前几年在云南白药上吃的亏。他在签订股权转让合同后,三一重工的股价就开始一路上涨,仅仅两天时间陈发树就实现了7亿元的盈利。
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