学佛人的两大误区,百分之九十以上的人都迷在这里。一个是不懂法理修善业,一个是禅病。一般的学佛人都能明白学佛不识自性,天天放生,超度鬼魂,印经,给死人助念等是修善业,不能算是真正的佛弟子。但很多人不知道那些懂得一些法理的人,天天作禅诗,写开悟偈子,自己没有破一品思惑就忙着去给别人讲佛法,或天天在家里编造一些似禅非禅的小故事,等等这些都是学佛掉入误区的人。别人说一句话你就要往禅上想,见到任何一件事都想把它改编成禅的故事,其实这都是你起心动念后,用妄心编造出来你所认为的禅,这都是没事找事,这就是禅病,佛告诉学佛人应无所住,你非要天天在家编写一些禅的故事。这都属于学佛走入邪道了。
我很爱看有一个能写善画的老居士出版的书和画册,有文化的人那个咬文嚼字的感觉还有一些意思,他的儿子也出了家,他在山里盖了几间房子,参禅打坐,写书作画,搞的还很向那么回事。天天没有事就写禅诗,写了成百上千个开悟的偈子,一读就知道他明白了那个不可说的,看的出他对禅净都是有一定了解。后来他有一次准备去见一个老和尚,而且特地为见这个老和尚又新作了四十八首诗偈,我看了之后不但生不起赞叹之心,而我对他是大跌眼镜。他的书我也不想再看了。他不是一般的执着,是比凡夫还执着,学佛本来是去除执着的,而他又增长了一重对写佛偈的执着,这个是众生想执着也不能做到的。这就是他比众生更执着高人一筹的地方。识得自性写一个两个开悟的偈子无可厚非,要是凭着自己有文化,天天写开悟的诗偈那就是大执着。他修行证道的境界一点都看不出来,把佛法当作了文字游戏,这是严重的禅病。
学佛人有很多傲慢的,觉得学佛就比别人高一个层次,懂得什么是佛性就更是摇身一变成为菩萨了,会写开悟偈又增加了一样骄傲的资本,能解古大德的公案更是圣气凌人。有一个学佛人念佛多次见到过阿弥陀佛,一入定能坐五六天就不知道自己姓什么了,连师父都不尊敬了,对师父说话一点尊敬心都没有,把师父您好四个字变成一个你,连好都不说了,师父不叫了,您改称呼你了,又把您下面的心给省掉了,对师父说话都是用钱时就要,没有事时他就是大师,对师父不理不睬,几天都不理师父,这些人都不自知自己是在修魔行,一切执着都属于魔业。这些都是末法现象,这个禅病陷阱把那些懂点法理的人,和修行得一点邪定的人,都给困在了这个陷阱里,不但今世不容易出离,就是今后生生世世也不容易得正觉。古大德说:宁可百年不学佛,不可学佛走错路。学佛有三不退,入了外道门再退出来其实也很难。我入定能看见我前世有很多世都是和尚,现在世一看见佛法就喜欢,而且遇到邪师讲法佛协没有公布我就能看的出来,这都是因为前世种下的都是菩提种子。要是种了邪道种子也一样见到邪道就喜欢,反而不学如来的正法。我们修行人千万不能盲目的拜邪师求法,不能执着,不要得禅病,学佛第一关就是破除我执,有一点贪嗔痴慢疑你就不能出六道,就不能往生极乐世界,因为极乐世界都是诸上善人聚会一处,没有高傲自满的小人。得禅病的人样子上是明白自性是怎么回事,其实还属于佛门外道,不能见如来。
我很爱看有一个能写善画的老居士出版的书和画册,有文化的人那个咬文嚼字的感觉还有一些意思,他的儿子也出了家,他在山里盖了几间房子,参禅打坐,写书作画,搞的还很向那么回事。天天没有事就写禅诗,写了成百上千个开悟的偈子,一读就知道他明白了那个不可说的,看的出他对禅净都是有一定了解。后来他有一次准备去见一个老和尚,而且特地为见这个老和尚又新作了四十八首诗偈,我看了之后不但生不起赞叹之心,而我对他是大跌眼镜。他的书我也不想再看了。他不是一般的执着,是比凡夫还执着,学佛本来是去除执着的,而他又增长了一重对写佛偈的执着,这个是众生想执着也不能做到的。这就是他比众生更执着高人一筹的地方。识得自性写一个两个开悟的偈子无可厚非,要是凭着自己有文化,天天写开悟的诗偈那就是大执着。他修行证道的境界一点都看不出来,把佛法当作了文字游戏,这是严重的禅病。
学佛人有很多傲慢的,觉得学佛就比别人高一个层次,懂得什么是佛性就更是摇身一变成为菩萨了,会写开悟偈又增加了一样骄傲的资本,能解古大德的公案更是圣气凌人。有一个学佛人念佛多次见到过阿弥陀佛,一入定能坐五六天就不知道自己姓什么了,连师父都不尊敬了,对师父说话一点尊敬心都没有,把师父您好四个字变成一个你,连好都不说了,师父不叫了,您改称呼你了,又把您下面的心给省掉了,对师父说话都是用钱时就要,没有事时他就是大师,对师父不理不睬,几天都不理师父,这些人都不自知自己是在修魔行,一切执着都属于魔业。这些都是末法现象,这个禅病陷阱把那些懂点法理的人,和修行得一点邪定的人,都给困在了这个陷阱里,不但今世不容易出离,就是今后生生世世也不容易得正觉。古大德说:宁可百年不学佛,不可学佛走错路。学佛有三不退,入了外道门再退出来其实也很难。我入定能看见我前世有很多世都是和尚,现在世一看见佛法就喜欢,而且遇到邪师讲法佛协没有公布我就能看的出来,这都是因为前世种下的都是菩提种子。要是种了邪道种子也一样见到邪道就喜欢,反而不学如来的正法。我们修行人千万不能盲目的拜邪师求法,不能执着,不要得禅病,学佛第一关就是破除我执,有一点贪嗔痴慢疑你就不能出六道,就不能往生极乐世界,因为极乐世界都是诸上善人聚会一处,没有高傲自满的小人。得禅病的人样子上是明白自性是怎么回事,其实还属于佛门外道,不能见如来。
学佛人的两大误区,百分之九十以上的人都迷在这里。一个是不懂法理修善业,一个是禅病。一般的学佛人都能明白学佛不识自性,天天放生,超度鬼魂,印经,给死人助念等是修善业,不能算是真正的佛弟子。但很多人不知道那些懂得一些法理的人,天天作禅诗,写开悟偈子,自己没有破一品思惑就忙着去给别人讲佛法,或天天在家里编造一些似禅非禅的小故事,等等这些都是学佛掉入误区的人。别人说一句话你就要往禅上想,见到任何一件事都想把它改编成禅的故事,其实这都是你起心动念后,用妄心编造出来你所认为的禅,这都是没事找事,这就是禅病,佛告诉学佛人应无所住,你非要天天在家编写一些禅的故事。这都属于学佛走入邪道了。
我很爱看有一个能写善画的老居士出版的书和画册,有文化的人那个咬文嚼字的感觉还有一些意思,他的儿子也出了家,他在山里盖了几间房子,参禅打坐,写书作画,搞的还很向那么回事。天天没有事就写禅诗,写了成百上千个开悟的偈子,一读就知道他明白了那个不可说的,看的出他对禅净都是有一定了解。后来他有一次准备去见一个老和尚,而且特地为见这个老和尚又新作了四十八首诗偈,我看了之后不但生不起赞叹之心,而我对他是大跌眼镜。他的书我也不想再看了。他不是一般的执着,是比凡夫还执着,学佛本来是去除执着的,而他又增长了一重对写佛偈的执着,这个是众生想执着也不能做到的。这就是他比众生更执着高人一筹的地方。识得自性写一个两个开悟的偈子无可厚非,要是凭着自己有文化,天天写开悟的诗偈那就是大执着。他修行证道的境界一点都看不出来,把佛法当作了文字游戏,这是严重的禅病。
学佛人有很多傲慢的,觉得学佛就比别人高一个层次,懂得什么是佛性就更是摇身一变成为菩萨了,会写开悟偈又增加了一样骄傲的资本,能解古大德的公案更是圣气凌人。有一个学佛人念佛多次见到过阿弥陀佛,一入定能坐五六天就不知道自己姓什么了,连师父都不尊敬了,对师父说话一点尊敬心都没有,把师父您好四个字变成一个你,连好都不说了,师父不叫了,您改称呼你了,又把您下面的心给省掉了,对师父说话都是用钱时就要,没有事时他就是大师,对师父不理不睬,几天都不理师父,这些人都不自知自己是在修魔行,一切执着都属于魔业。这些都是末法现象,这个禅病陷阱把那些懂点法理的人,和修行得一点邪定的人,都给困在了这个陷阱里,不但今世不容易出离,就是今后生生世世也不容易得正觉。古大德说:宁可百年不学佛,不可学佛走错路。学佛有三不退,入了外道门再退出来其实也很难。我入定能看见我前世有很多世都是和尚,现在世一看见佛法就喜欢,而且遇到邪师讲法佛协没有公布我就能看的出来,这都是因为前世种下的都是菩提种子。要是种了邪道种子也一样见到邪道就喜欢,反而不学如来的正法。我们修行人千万不能盲目的拜邪师求法,不能执着,不要得禅病,学佛第一关就是破除我执,有一点贪嗔痴慢疑你就不能出六道,就不能往生极乐世界,因为极乐世界都是诸上善人聚会一处,没有高傲自满的小人。得禅病的人样子上是明白自性是怎么回事,其实还属于佛门外道,不能见如来。
我很爱看有一个能写善画的老居士出版的书和画册,有文化的人那个咬文嚼字的感觉还有一些意思,他的儿子也出了家,他在山里盖了几间房子,参禅打坐,写书作画,搞的还很向那么回事。天天没有事就写禅诗,写了成百上千个开悟的偈子,一读就知道他明白了那个不可说的,看的出他对禅净都是有一定了解。后来他有一次准备去见一个老和尚,而且特地为见这个老和尚又新作了四十八首诗偈,我看了之后不但生不起赞叹之心,而我对他是大跌眼镜。他的书我也不想再看了。他不是一般的执着,是比凡夫还执着,学佛本来是去除执着的,而他又增长了一重对写佛偈的执着,这个是众生想执着也不能做到的。这就是他比众生更执着高人一筹的地方。识得自性写一个两个开悟的偈子无可厚非,要是凭着自己有文化,天天写开悟的诗偈那就是大执着。他修行证道的境界一点都看不出来,把佛法当作了文字游戏,这是严重的禅病。
学佛人有很多傲慢的,觉得学佛就比别人高一个层次,懂得什么是佛性就更是摇身一变成为菩萨了,会写开悟偈又增加了一样骄傲的资本,能解古大德的公案更是圣气凌人。有一个学佛人念佛多次见到过阿弥陀佛,一入定能坐五六天就不知道自己姓什么了,连师父都不尊敬了,对师父说话一点尊敬心都没有,把师父您好四个字变成一个你,连好都不说了,师父不叫了,您改称呼你了,又把您下面的心给省掉了,对师父说话都是用钱时就要,没有事时他就是大师,对师父不理不睬,几天都不理师父,这些人都不自知自己是在修魔行,一切执着都属于魔业。这些都是末法现象,这个禅病陷阱把那些懂点法理的人,和修行得一点邪定的人,都给困在了这个陷阱里,不但今世不容易出离,就是今后生生世世也不容易得正觉。古大德说:宁可百年不学佛,不可学佛走错路。学佛有三不退,入了外道门再退出来其实也很难。我入定能看见我前世有很多世都是和尚,现在世一看见佛法就喜欢,而且遇到邪师讲法佛协没有公布我就能看的出来,这都是因为前世种下的都是菩提种子。要是种了邪道种子也一样见到邪道就喜欢,反而不学如来的正法。我们修行人千万不能盲目的拜邪师求法,不能执着,不要得禅病,学佛第一关就是破除我执,有一点贪嗔痴慢疑你就不能出六道,就不能往生极乐世界,因为极乐世界都是诸上善人聚会一处,没有高傲自满的小人。得禅病的人样子上是明白自性是怎么回事,其实还属于佛门外道,不能见如来。
相手の中に映る「予想外の自分」を
どう受け入れるか
大切な人が自分の思っていた姿と異なる面を持っていた時、また、相手から見えている自分が予想外の姿だった時、そのギャップに戸惑ってしまい、どう対応してよいか迷ってしまった経験は誰にでもあるのではないでしょうか。
家族、友人、仕事相手、恋人。私たちは、それぞれの関係性の中で、いくつもの異なる顔を持っています。映画『影裏』(2月14日公開)は、そんな人の多面性や、誰もが持っている「影」の部分やそのまた「裏」の姿を描いた作品です。今作で松田龍平さんは、主人公が見知らぬ土地で心を許したただ一人の友人でありながら、ある日突然姿を消してしまう、ミステリアスで謎の多い男・日浅を演じました。
松田さんは、「自分が思う」自分の姿と、「相手から見えている」自分の姿にギャップを感じた時、そのギャップを埋めたり否定したりするのではなく、「それをどう受け入れるか」を考えるのだそうです。ひとつのことに固執せず、流れに身を任せるという松田さんの言葉からは、どんな作品にでも自然体で佇むことのできる、その理由が見えてきました。
自分にも相手にも固執しないことで、
その先にある可能性を見つける
——『影裏』での第2回海南島国際映画祭ベストアクター(最優秀俳優賞)受賞おめでとうございます! 綾野剛さん、大友啓史監督と出席されていましたが、現地の雰囲気はいかがでしたか?
松田 観客の皆様が温かく迎え入れてくれましたね。会場には5000人近くの方が集まっていたと聞いていますが、その熱気も感じました。
——受賞が発表された時、驚いてキョトンとされていたように感じました。
松田 そうですね、セレモニーを観ていて、つい自分もいち観客のような気分になってしまっていたので、本当に驚きました。
——いろんな意味でびっくりされたと(笑)。
松田 まさか自分が賞をいただけるとは思ってもいなかったので。
——受賞スピーチでは「何の言葉も用意していなくて」とおっしゃっていました。
松田 そうですね、今思い返しても、あの時は驚いていて余裕がなかったですね。
——映画祭で、一緒に登壇された綾野剛さんは「龍平君との時間が長かったので彼との時間をすごく大切にしました」とおっしゃっていましたね。綾野さんが演じた主人公・今野と日浅の関係性が、盛岡の自然に重ねられながら描かれた今作で何度も登場する“釣りのシーン”は、二人が関係を深めていく場面として印象深かったです。
松田 最初に台本を読んだ時、釣りが上手いという設定なんですが、これまでまともに魚を触ったこともなかったので、「大丈夫かな」とまず思いました(笑)。
——(笑)。
松田 でも、その釣りのシーンが、日浅と今野の感情が行き交う大切なシーンでもあったので、撮影前に実際に盛岡に行って渓流釣りのレッスンを受けたんです。
——今作では「川」や「雨」など、“水”が重要なモチーフとなっています。日浅の行動と、水の変容が並行して進んでいきましたが、それは松田さんの演技に触発された表現だと大友さんがおっしゃっていました。
松田 この映画の中で僕が演じた日浅というキャラクターは、今野から見えている側面と、家族や同僚など他の視点から語られる側面と、様々な目線から描かれているんですよね。いろんな人の目線から語られる人って実態がつかめないじゃないですか。かといって、自分で「ミステリアスだ」と意識して演じるのもおかしいし。
だから、今野を演じる綾野君と、会話をキャッチボールしていく中で見えてくる日浅を大事にしていました。始めは戸惑いもありましたけど。
——映画祭で綾野さんは、「まずは演じるというよりもその人物を生きるという感覚が強いです。映画の中でちゃんと生活するということを心掛けました」ともおっしゃっていましたが、松田さんもご自身の感覚を大切にされていたと。
松田 シーンを積み重ねていくことで、つかんでいくことが多かったかもしれないです。そうやって現場で感じたことから、役の可能性を広げていくのが楽しかったですね。
こうやって色々話していたら、結構楽しんで演じていたことを思い出しました(笑)。
——楽しかったんですね(笑)。
松田 大友監督は、セリフが終わってもカットをかけずに撮り続けることが多かったんですが、それも楽しかったです。
——大友監督は松田さんについて、「一人の等身大の人物として、日浅の足を地につけさせようとする姿に刺激を受けた」と現場での印象を語っています。
松田 日浅に限らず、人って誰しもいろんな側面を持っているんじゃないかなと思っていました。自分が思う自分自身と、人から見えている自分の姿って違うこともあるじゃないですか。それは家族だったり親友だったりと、相手との関係性によっても変わるし、そういう、人から見えている自分の姿を知ることで、「自分ってこういう人間なんだな」と形作られていく。
今回の『影裏』というタイトルにもあるように、人は誰でもそういう多面性を持っていると思うんです。だから、日浅も普通に生きているだけで、彼だけが何か特別なわけではないと捉えていました。
——松田さんも、自分が思う自身の姿と、人から見えている印象にギャップを感じることはありますか?
松田 「自分ではそんなつもりじゃなかったのに、そんな風に捉えられていたんだ」と、後から思うことはありますね。
——そういう時は、そのギャップを埋めようとしますか?
松田 ネガティブに受け止められていたら、誤解をときたいとは思いますね。 でも、相手の中にある自分の姿、というのはコントロールできないことだと僕は思うので、ある程度は仕方ないと割り切っています。それよりも、相手が見ている「自分」をどう受け入れるのか、ということじゃないかなって。
——今作の中でも、日浅が、今野の中に映っていた予想外の自分の姿に、戸惑う場面がありますよね。
松田 そうですね。日浅は「え、お前そんな風に俺のこと見てたの?」という驚きがあって一度は拒絶するんですが、その後、二人で夜釣りに行くキャンプの焚き火のシーンで、日浅は今野が見ていた「予想外の自分の姿」を、少し受け入れようとしたんじゃないかと思って演じていました。
——ネタバレになるので詳しくは語れませんが、今野が見ていた「予想外の自分の姿」を日浅が受け入れるということは、相当柔軟に「他人の自分像」を受け入れないといけない気がします。
松田 僕自身も人が自分に対してどう思っているかということをコントロールしたいというよりは、そこに対してどう対応していくか、ということを考える方かもしれません。そういう意味では、日浅の人との付き合い方に似ているかもしれないですね。
「心が動く瞬間」を逃さないように
——綾野さんと松田さん演じる今野と日浅は、釣りをしたりお酒を酌み交わしたりすることで意気投合していきますが、松田さん自身は、どういう時間を重ねると人と距離が縮まっていきますか?
松田 食事を一緒にしたからとか、長い時間話したからとか、特にこれというきっかけはないかもしれないですね。一緒に過ごして楽しかったとは思うけど、一生の友だちになれるかどうかはまた別というか。
そういう意味では、僕は人との付き合いも、自分で選んでいるようで選んでいない、わりと流れに身を任せるようなところがあって。
——日浅は、あれだけ同じ時間を共にした今野の元も、あっさり去ってしまいますよね。その行動も、共感できる部分はありますか?
松田 ひとつのことに固執しない感じは、僕もわかります。きっと日浅は、自分が当たり障りなく誰とでも付き合える性格だから、物静かで内向的な今野に対して、興味を持ったと思うんです。どんな奴か知りたい、と思ったんでしょうね。
でもそれで仲良くなっても、その後、他に優先することや心の動くことがあったら、流れに身を任せていくのかなと。自分の興味主体で、正直に生きているのが日浅なのかなと思います。
——松田さんが固執しないというのは、人間関係でもお仕事の中でも同じでしょうか?
松田 ひとつの考えに固執しないことが多いですね。映画の現場も、今回は役のイメージをあまり固めずに撮影に行ったんですが、作品によってはもっと作り込んでいくこともあります。
こだわりとか固執することで、大事な瞬間を逃すんじゃないかなという気がしていて。自分の気持ちが動いた時にちゃんと行動できるような人間でいたい、と思います。それは仕事でも、普段の人付き合いでも、同じですね。
——お忙しいと思うのですが、映画館には最近行かれていますか?
松田 そうですね、最近だと『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(2019)を観に行きましたね。
——1969年のハリウッドを舞台に、かつて西部劇のスターであった落ち目の俳優と、彼の付き人の専属スタントマン、二人の姿を描いた作品ですね。レオナルド・ディカプリオとブラッド・ピットの初共演作としても、話題になりました。
松田 役者としての生き様を見せつけられました。自分に重ねるつもりはなくても、仕事柄、おのずと重ねて観てしまいますよね。
どう受け入れるか
大切な人が自分の思っていた姿と異なる面を持っていた時、また、相手から見えている自分が予想外の姿だった時、そのギャップに戸惑ってしまい、どう対応してよいか迷ってしまった経験は誰にでもあるのではないでしょうか。
家族、友人、仕事相手、恋人。私たちは、それぞれの関係性の中で、いくつもの異なる顔を持っています。映画『影裏』(2月14日公開)は、そんな人の多面性や、誰もが持っている「影」の部分やそのまた「裏」の姿を描いた作品です。今作で松田龍平さんは、主人公が見知らぬ土地で心を許したただ一人の友人でありながら、ある日突然姿を消してしまう、ミステリアスで謎の多い男・日浅を演じました。
松田さんは、「自分が思う」自分の姿と、「相手から見えている」自分の姿にギャップを感じた時、そのギャップを埋めたり否定したりするのではなく、「それをどう受け入れるか」を考えるのだそうです。ひとつのことに固執せず、流れに身を任せるという松田さんの言葉からは、どんな作品にでも自然体で佇むことのできる、その理由が見えてきました。
自分にも相手にも固執しないことで、
その先にある可能性を見つける
——『影裏』での第2回海南島国際映画祭ベストアクター(最優秀俳優賞)受賞おめでとうございます! 綾野剛さん、大友啓史監督と出席されていましたが、現地の雰囲気はいかがでしたか?
松田 観客の皆様が温かく迎え入れてくれましたね。会場には5000人近くの方が集まっていたと聞いていますが、その熱気も感じました。
——受賞が発表された時、驚いてキョトンとされていたように感じました。
松田 そうですね、セレモニーを観ていて、つい自分もいち観客のような気分になってしまっていたので、本当に驚きました。
——いろんな意味でびっくりされたと(笑)。
松田 まさか自分が賞をいただけるとは思ってもいなかったので。
——受賞スピーチでは「何の言葉も用意していなくて」とおっしゃっていました。
松田 そうですね、今思い返しても、あの時は驚いていて余裕がなかったですね。
——映画祭で、一緒に登壇された綾野剛さんは「龍平君との時間が長かったので彼との時間をすごく大切にしました」とおっしゃっていましたね。綾野さんが演じた主人公・今野と日浅の関係性が、盛岡の自然に重ねられながら描かれた今作で何度も登場する“釣りのシーン”は、二人が関係を深めていく場面として印象深かったです。
松田 最初に台本を読んだ時、釣りが上手いという設定なんですが、これまでまともに魚を触ったこともなかったので、「大丈夫かな」とまず思いました(笑)。
——(笑)。
松田 でも、その釣りのシーンが、日浅と今野の感情が行き交う大切なシーンでもあったので、撮影前に実際に盛岡に行って渓流釣りのレッスンを受けたんです。
——今作では「川」や「雨」など、“水”が重要なモチーフとなっています。日浅の行動と、水の変容が並行して進んでいきましたが、それは松田さんの演技に触発された表現だと大友さんがおっしゃっていました。
松田 この映画の中で僕が演じた日浅というキャラクターは、今野から見えている側面と、家族や同僚など他の視点から語られる側面と、様々な目線から描かれているんですよね。いろんな人の目線から語られる人って実態がつかめないじゃないですか。かといって、自分で「ミステリアスだ」と意識して演じるのもおかしいし。
だから、今野を演じる綾野君と、会話をキャッチボールしていく中で見えてくる日浅を大事にしていました。始めは戸惑いもありましたけど。
——映画祭で綾野さんは、「まずは演じるというよりもその人物を生きるという感覚が強いです。映画の中でちゃんと生活するということを心掛けました」ともおっしゃっていましたが、松田さんもご自身の感覚を大切にされていたと。
松田 シーンを積み重ねていくことで、つかんでいくことが多かったかもしれないです。そうやって現場で感じたことから、役の可能性を広げていくのが楽しかったですね。
こうやって色々話していたら、結構楽しんで演じていたことを思い出しました(笑)。
——楽しかったんですね(笑)。
松田 大友監督は、セリフが終わってもカットをかけずに撮り続けることが多かったんですが、それも楽しかったです。
——大友監督は松田さんについて、「一人の等身大の人物として、日浅の足を地につけさせようとする姿に刺激を受けた」と現場での印象を語っています。
松田 日浅に限らず、人って誰しもいろんな側面を持っているんじゃないかなと思っていました。自分が思う自分自身と、人から見えている自分の姿って違うこともあるじゃないですか。それは家族だったり親友だったりと、相手との関係性によっても変わるし、そういう、人から見えている自分の姿を知ることで、「自分ってこういう人間なんだな」と形作られていく。
今回の『影裏』というタイトルにもあるように、人は誰でもそういう多面性を持っていると思うんです。だから、日浅も普通に生きているだけで、彼だけが何か特別なわけではないと捉えていました。
——松田さんも、自分が思う自身の姿と、人から見えている印象にギャップを感じることはありますか?
松田 「自分ではそんなつもりじゃなかったのに、そんな風に捉えられていたんだ」と、後から思うことはありますね。
——そういう時は、そのギャップを埋めようとしますか?
松田 ネガティブに受け止められていたら、誤解をときたいとは思いますね。 でも、相手の中にある自分の姿、というのはコントロールできないことだと僕は思うので、ある程度は仕方ないと割り切っています。それよりも、相手が見ている「自分」をどう受け入れるのか、ということじゃないかなって。
——今作の中でも、日浅が、今野の中に映っていた予想外の自分の姿に、戸惑う場面がありますよね。
松田 そうですね。日浅は「え、お前そんな風に俺のこと見てたの?」という驚きがあって一度は拒絶するんですが、その後、二人で夜釣りに行くキャンプの焚き火のシーンで、日浅は今野が見ていた「予想外の自分の姿」を、少し受け入れようとしたんじゃないかと思って演じていました。
——ネタバレになるので詳しくは語れませんが、今野が見ていた「予想外の自分の姿」を日浅が受け入れるということは、相当柔軟に「他人の自分像」を受け入れないといけない気がします。
松田 僕自身も人が自分に対してどう思っているかということをコントロールしたいというよりは、そこに対してどう対応していくか、ということを考える方かもしれません。そういう意味では、日浅の人との付き合い方に似ているかもしれないですね。
「心が動く瞬間」を逃さないように
——綾野さんと松田さん演じる今野と日浅は、釣りをしたりお酒を酌み交わしたりすることで意気投合していきますが、松田さん自身は、どういう時間を重ねると人と距離が縮まっていきますか?
松田 食事を一緒にしたからとか、長い時間話したからとか、特にこれというきっかけはないかもしれないですね。一緒に過ごして楽しかったとは思うけど、一生の友だちになれるかどうかはまた別というか。
そういう意味では、僕は人との付き合いも、自分で選んでいるようで選んでいない、わりと流れに身を任せるようなところがあって。
——日浅は、あれだけ同じ時間を共にした今野の元も、あっさり去ってしまいますよね。その行動も、共感できる部分はありますか?
松田 ひとつのことに固執しない感じは、僕もわかります。きっと日浅は、自分が当たり障りなく誰とでも付き合える性格だから、物静かで内向的な今野に対して、興味を持ったと思うんです。どんな奴か知りたい、と思ったんでしょうね。
でもそれで仲良くなっても、その後、他に優先することや心の動くことがあったら、流れに身を任せていくのかなと。自分の興味主体で、正直に生きているのが日浅なのかなと思います。
——松田さんが固執しないというのは、人間関係でもお仕事の中でも同じでしょうか?
松田 ひとつの考えに固執しないことが多いですね。映画の現場も、今回は役のイメージをあまり固めずに撮影に行ったんですが、作品によってはもっと作り込んでいくこともあります。
こだわりとか固執することで、大事な瞬間を逃すんじゃないかなという気がしていて。自分の気持ちが動いた時にちゃんと行動できるような人間でいたい、と思います。それは仕事でも、普段の人付き合いでも、同じですね。
——お忙しいと思うのですが、映画館には最近行かれていますか?
松田 そうですね、最近だと『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(2019)を観に行きましたね。
——1969年のハリウッドを舞台に、かつて西部劇のスターであった落ち目の俳優と、彼の付き人の専属スタントマン、二人の姿を描いた作品ですね。レオナルド・ディカプリオとブラッド・ピットの初共演作としても、話題になりました。
松田 役者としての生き様を見せつけられました。自分に重ねるつもりはなくても、仕事柄、おのずと重ねて観てしまいますよね。
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