可哀想にぬーん、ぬーんちゃんの作り笑いが見ててものすごくつらい。こーへいはさあ言葉は綺麗事すぎ、クズしか見えない。別の誰かに好きになる私はそう思う。ぬーんちゃんはこーへいのこと好きって動画からもわかるマジで泣いちゃった。もうこんなクズと別れて別に悪いことじゃない、きっと誰かぬーんちゃんのことを大切するから。
我能有多喜欢一些人,就能有多讨厌一些人。やっぱり古賀のように誰に対しても好感持ってることは私はできない。いくらその人いいといっても、私の一番嫌い点(或は多くの嫌いところ)があったら、私いくら自分に「その人いいところがたくさんあるんだ。君は多くのこと、その人から学ぶべきだ。」と説得しても、無理だった。誰でも欠点があるんだけど。でも、好きな人といえることは、その人の欠点全部受け入れることができるからだと思っている。嫌い人といえるのはちょうどその反対、いくら自分を調整しても、自分の気持ちコントロールしても、嫌いでたまらない。だから、キリスト教徒や仏教教徒たちはやっぱすごい。彼たちは憐憫の目で世間の人たちを見ることができるそうだ。自分の嫌い人であっても、寛容な目でその人を見ることができる。本当に愛の恵まれている人たち。私にはどうしてもできないな。めちゃくちゃ気持ち悪い。[摊手]
一人で歩いて帰る時、眞白の世界の中に、車しか私一人だけだ。その時私は嫌いじゃない、誰にも期待せれていなくって。静くで、気分が自然に落ちてた。その静かな瞬間、f886の中に再生していた歌はコトリンゴの itsumo.好像第一次认真听这首歌的歌词,早上的光亮让我疼痛,这痛感是什么时候到来的?会不会融化,我还能不能走路啊?那么就放开手吧。后知后觉她描述的是一个梦境,之后我想起来一个关于骑行的清晰的诡异梦境,想起来旅途中听到的一个笑话,这个瞬间,我好像不用再去为本来就没必要的事物困惑,不用权衡顾及任何人与物可能会带给我的影响,我真的需要离开一段时间。
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