横浜駅は人の気持ちが行き交う場所だった
人々の暮らしが豊かになり、鉄道が大衆化した時代。ビジネスや観光客が増え、シューマイは飛ぶように売れました。河鰭さんひとりで300箱を売り上げたこともあったといいます。
シウマイ娘の給料は歩合制で、売り上げが良ければお給料も上がり、仕事にやりがいを感じていました。人々でごった返す横浜駅で目まぐるしく働く日々のなか、河鰭さんには忘れられない出来事があるといいます。
人々の暮らしが豊かになり、鉄道が大衆化した時代。ビジネスや観光客が増え、シューマイは飛ぶように売れました。河鰭さんひとりで300箱を売り上げたこともあったといいます。
シウマイ娘の給料は歩合制で、売り上げが良ければお給料も上がり、仕事にやりがいを感じていました。人々でごった返す横浜駅で目まぐるしく働く日々のなか、河鰭さんには忘れられない出来事があるといいます。
河鰭トミ子さん
「『シウマイ娘』はユニフォームがあったんです。見た目がちょっと華やかっていうのもおかしいですけれども、目立ちましたよ。冬の寒い時なんてね、もうちょっと上に服を着たいんだけど着ないで我慢したりなんてね。お客さんに『あなたたちそんな格好で寒くないの?』なんていうことを言われたりしたこともありました。最初のころは、人前でものを売る仕事をすることの恥ずかしさもありましたよね。それと、商品をたくさん入れたかごを持って売るんですけど、重いんですよ、結構。それで腕が強くなったんだと思いますよ(笑)。とにかく、いろいろと初めてのことばかりですから、それを乗り越えてできればいいかなっていう、そういう感じでしたね。」
ある時には、手かごの中に1箱15個入りを40箱も入れて販売を行いました。コンクリートの駅のホームに立ちっぱなしの仕事は、特に、冬になると寒さがこたえ大変だったといいます。
「『シウマイ娘』はユニフォームがあったんです。見た目がちょっと華やかっていうのもおかしいですけれども、目立ちましたよ。冬の寒い時なんてね、もうちょっと上に服を着たいんだけど着ないで我慢したりなんてね。お客さんに『あなたたちそんな格好で寒くないの?』なんていうことを言われたりしたこともありました。最初のころは、人前でものを売る仕事をすることの恥ずかしさもありましたよね。それと、商品をたくさん入れたかごを持って売るんですけど、重いんですよ、結構。それで腕が強くなったんだと思いますよ(笑)。とにかく、いろいろと初めてのことばかりですから、それを乗り越えてできればいいかなっていう、そういう感じでしたね。」
ある時には、手かごの中に1箱15個入りを40箱も入れて販売を行いました。コンクリートの駅のホームに立ちっぱなしの仕事は、特に、冬になると寒さがこたえ大変だったといいます。
元「シウマイ娘」 何もかも初めての体験だった
かつてシウマイ娘をしていたという女性に出会いました。
横浜市に住む河鰭(かわはた)トミ子さん(82歳)です。
河鰭さんがシウマイ娘になったのは1958年のことです。
高校を卒業した河鰭さんは崎陽軒に入社。最初はシューマイを包装する部署に所属して働いていましたが、人手が足りなくなったシウマイ娘の募集が社内であり、河鰭さんが抜擢されたのです。
かつてシウマイ娘をしていたという女性に出会いました。
横浜市に住む河鰭(かわはた)トミ子さん(82歳)です。
河鰭さんがシウマイ娘になったのは1958年のことです。
高校を卒業した河鰭さんは崎陽軒に入社。最初はシューマイを包装する部署に所属して働いていましたが、人手が足りなくなったシウマイ娘の募集が社内であり、河鰭さんが抜擢されたのです。
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