【《易经》困卦智慧_安身立命,安身崇德,凶困之局,化解之道。】
《系辞.下》第5章与《困卦》六三爻
《系辞.下》第5章,以孔子对《咸卦》九四爻爻辞的解读为开端,以青年男女对世界的感知为开端,为青年男女指出了人生的前进方向,是在身存、身安的基础上,崇德广业;
过此以往,未之或知也。除了崇德广业以外,孔子也想不出什么,其他的人生终极意义,除了以崇德广业以外,生而为人的终极意义将无法达成,想都不用想就能知道。
孔子当然知道,在实现生而为人的终极意义的道路上,难免会遇见各种各样的问题,有时甚至会遇见一些极端的困境,这些极端的困境,如果处理不当,赖以实现人生终极意义的生命将不复存在,身将不存,人死万事休,再谈什么终极意义,就是个笑话。
因此,《系辞.下》第5章,在指出人生的终极意义之后,紧接着当头一棒,就列举了一个身死名灭的极端例子,这个例子,就是《困卦》的六三爻:困于石,据于蒺藜,入于其宫,不见其妻,凶。
《困卦》的六三爻,是怎么把自己作死的呢?应该从《困卦》六三爻的身上吸取哪些经验教训呢?如果处在《困卦》六三爻的位置上,有什么能免一死的应对之策?这些问题,都是在读《困卦》六三爻时,应该思考的问题。结合《困卦》六三爻的爻象、爻辞,对这几个问题,试做探讨:
《困卦》的六三爻的爻象境遇
《困卦》六三爻,处困无疑,因为六三爻本身处在《困卦》的大环境当中。《困卦》六三爻,在这个大环境中是个什么状况呢?
首先,六三阴爻,阴柔无阳爻之刚明才德,可视为内心摇摆不定、又没有经世济用之大才的阴柔小人。
其次,六三阴爻,以阴爻处下卦的第三位,以阴爻处阳位,处位不正,又不得中,还在下卦坎卦的最高位,处《困》之中,处险之极,处不得正,处不得中;
六三阴爻,不仅处《困》之中,处险之极,处不得正,处不得中,还是孤家寡人一个,因为处上卦兑卦的上六阴爻,与六三阴爻,同性相斥,是敌应。
六三阴爻,处《困》之中不仅无应,更是上为九四、九五阳爻所困,下为九二阳爻所困,里外都不是人;
六三阴爻,处《困》之中,就是这么一个处险之极,处不得正,处不得中,困于上下,又无外援,内心不坚定,又没有经世济用之大才的阴柔小人。
六三阴爻,是怎么把自己作死的呢?
六三阴爻,进退失据,把自己作死了。孔子的原话是:子曰:“非所困而困焉,名必辱。非所据而据焉,身必危。既辱且危,死期当至,妻其可得见耶!”
孔子为什么说六三爻是非所困而困呢?那是因为六三阴爻处阳位,有躁动之象,有冒进之象,以六三之才、六三之境遇,处困之中而用刚,躁动冒进,犯险而上,为九四、九五阳爻所困。
六三阴爻,本就处困,以六三阴柔之才、六三之境遇,而以己之力,冒险而进,所遇二阳之阻,坚如磐石,非六三阴柔之才所能突破,六三阴爻,不过以卵击石,徒自取困,困上加困,六三,困于石。六三阴爻,进则徒自取困于上卦二阳,非所困而困,不自量力,名必辱。
六三阴爻处困,孔子不仅说六三非所困而困,还说六三非所据而据。六三阴爻所据之位乃是阳位,非六三阴爻所据之正位。
六三阴爻,在下卦之中,乘刚而据于九二阳爻之上,不仅非所据而据,还以阴柔之才压制着九二阳爻,困着九二阳爻。时刻还要提防着九二阳爻,让处困之中的六三阴爻,如坐针毡。
六三阴爻,乘刚而据于九二阳爻之上,如同坐在荆棘之上,如同坐在蒺藜之上,六三,据于蒺藜。处困之中,整天坐在荆棘之上,整天坐在蒺藜之上,整天不得安处,身必危。
六三阴爻,处困之中,进也不是,退也不是,想安处于位而不可得,想安处于困而不可得,整天不得安处,如同回到家里,却见不到能让人心安的妻子,六三,入于其宫,不见其妻。
六三阴爻,处困之中,非所困而困,非所据而据,进退失据,失其所安,进、退、处,三者皆不可得,如六三阴爻之处《困》,唯有一死,六三,困于石,据于蒺藜,入于其宫,不见其妻,凶。六三阴爻,就这样把自己作死了。
《困卦》六三爻的经验教训
六三处困,阴柔无刚明才德,内心摇摆不定,处《困》之中,处险之极,处不得正,处不得中,外无应援,不自量力、盲目冒进,不知进退,都是六三阴爻,处《困》致凶的原因。
行有不得,反求诸己。要说经验教训,当从六三自己的说起,首当其冲的是没有刚明才德,内心不知其所当止。
诗经《旄丘》有云:何其处也?必有与也!何其久也?必有以也!存身,安身,首先还得从知其所止开始,一开始就应当坚定的知道自己要的是什么。
除此之外,《易》之为道,危者使平,易者使倾。其道甚大,百物不废。惧以终始,其要无咎。《易经》必有脱《困》之道,如六三处困,何以脱《困》呢?诸君自解。感谢阅读!!!
《系辞.下》第5章与《困卦》六三爻
《系辞.下》第5章,以孔子对《咸卦》九四爻爻辞的解读为开端,以青年男女对世界的感知为开端,为青年男女指出了人生的前进方向,是在身存、身安的基础上,崇德广业;
过此以往,未之或知也。除了崇德广业以外,孔子也想不出什么,其他的人生终极意义,除了以崇德广业以外,生而为人的终极意义将无法达成,想都不用想就能知道。
孔子当然知道,在实现生而为人的终极意义的道路上,难免会遇见各种各样的问题,有时甚至会遇见一些极端的困境,这些极端的困境,如果处理不当,赖以实现人生终极意义的生命将不复存在,身将不存,人死万事休,再谈什么终极意义,就是个笑话。
因此,《系辞.下》第5章,在指出人生的终极意义之后,紧接着当头一棒,就列举了一个身死名灭的极端例子,这个例子,就是《困卦》的六三爻:困于石,据于蒺藜,入于其宫,不见其妻,凶。
《困卦》的六三爻,是怎么把自己作死的呢?应该从《困卦》六三爻的身上吸取哪些经验教训呢?如果处在《困卦》六三爻的位置上,有什么能免一死的应对之策?这些问题,都是在读《困卦》六三爻时,应该思考的问题。结合《困卦》六三爻的爻象、爻辞,对这几个问题,试做探讨:
《困卦》的六三爻的爻象境遇
《困卦》六三爻,处困无疑,因为六三爻本身处在《困卦》的大环境当中。《困卦》六三爻,在这个大环境中是个什么状况呢?
首先,六三阴爻,阴柔无阳爻之刚明才德,可视为内心摇摆不定、又没有经世济用之大才的阴柔小人。
其次,六三阴爻,以阴爻处下卦的第三位,以阴爻处阳位,处位不正,又不得中,还在下卦坎卦的最高位,处《困》之中,处险之极,处不得正,处不得中;
六三阴爻,不仅处《困》之中,处险之极,处不得正,处不得中,还是孤家寡人一个,因为处上卦兑卦的上六阴爻,与六三阴爻,同性相斥,是敌应。
六三阴爻,处《困》之中不仅无应,更是上为九四、九五阳爻所困,下为九二阳爻所困,里外都不是人;
六三阴爻,处《困》之中,就是这么一个处险之极,处不得正,处不得中,困于上下,又无外援,内心不坚定,又没有经世济用之大才的阴柔小人。
六三阴爻,是怎么把自己作死的呢?
六三阴爻,进退失据,把自己作死了。孔子的原话是:子曰:“非所困而困焉,名必辱。非所据而据焉,身必危。既辱且危,死期当至,妻其可得见耶!”
孔子为什么说六三爻是非所困而困呢?那是因为六三阴爻处阳位,有躁动之象,有冒进之象,以六三之才、六三之境遇,处困之中而用刚,躁动冒进,犯险而上,为九四、九五阳爻所困。
六三阴爻,本就处困,以六三阴柔之才、六三之境遇,而以己之力,冒险而进,所遇二阳之阻,坚如磐石,非六三阴柔之才所能突破,六三阴爻,不过以卵击石,徒自取困,困上加困,六三,困于石。六三阴爻,进则徒自取困于上卦二阳,非所困而困,不自量力,名必辱。
六三阴爻处困,孔子不仅说六三非所困而困,还说六三非所据而据。六三阴爻所据之位乃是阳位,非六三阴爻所据之正位。
六三阴爻,在下卦之中,乘刚而据于九二阳爻之上,不仅非所据而据,还以阴柔之才压制着九二阳爻,困着九二阳爻。时刻还要提防着九二阳爻,让处困之中的六三阴爻,如坐针毡。
六三阴爻,乘刚而据于九二阳爻之上,如同坐在荆棘之上,如同坐在蒺藜之上,六三,据于蒺藜。处困之中,整天坐在荆棘之上,整天坐在蒺藜之上,整天不得安处,身必危。
六三阴爻,处困之中,进也不是,退也不是,想安处于位而不可得,想安处于困而不可得,整天不得安处,如同回到家里,却见不到能让人心安的妻子,六三,入于其宫,不见其妻。
六三阴爻,处困之中,非所困而困,非所据而据,进退失据,失其所安,进、退、处,三者皆不可得,如六三阴爻之处《困》,唯有一死,六三,困于石,据于蒺藜,入于其宫,不见其妻,凶。六三阴爻,就这样把自己作死了。
《困卦》六三爻的经验教训
六三处困,阴柔无刚明才德,内心摇摆不定,处《困》之中,处险之极,处不得正,处不得中,外无应援,不自量力、盲目冒进,不知进退,都是六三阴爻,处《困》致凶的原因。
行有不得,反求诸己。要说经验教训,当从六三自己的说起,首当其冲的是没有刚明才德,内心不知其所当止。
诗经《旄丘》有云:何其处也?必有与也!何其久也?必有以也!存身,安身,首先还得从知其所止开始,一开始就应当坚定的知道自己要的是什么。
除此之外,《易》之为道,危者使平,易者使倾。其道甚大,百物不废。惧以终始,其要无咎。《易经》必有脱《困》之道,如六三处困,何以脱《困》呢?诸君自解。感谢阅读!!!
エキドナ#艾姬多娜#:
「君が持つ特性、『死に戻り』はすさまじい権能だ。
その有用さが、君は本当の意味で理解できていない。
自分の望まない終わりを許容しない、何度でもやり直す、未来へ何度でも手を伸ばせる— —それは、探究者にとって究極に近い理想だ。
だって、そうだろう?本来、ある物事への結果というものは、一つの結果が出てしまったらそこから動かせないんだ。
結果が出るまでの過程でならば、その結果がどうなるかについての仮説は様々なものが立てられる。
こういったアプローチをすれば、あるいはこういう条件にしてみれば、様々な仮説や検証は可能だ。
けれど、実際にその結果を出そうと実験に臨むとなれば、結果も試せる仮説も検証も、一つに集約されざるを得ない。
まったく、本当の意味でまったく同じ条件を作り出すことは不可能なんだ。
どんなに条件を整えたとしても、その時点とまったく同じ条件は絶対に作り出せない。
あのとき、別のやり方をしていたらどんな結果が出ていたのか――それは、ボクたち探究者にとっては決して手を届かせることのできない、理想のその先にある夢想でしかない。
『世界の記憶』を持つボクには、その答えを『知る』手段は確かにあるさ、あるとも。
あるけれど、それを使うことを、用いることをボクはよしとしない。
ボクは『知りたい』んであって、『知っていたい』わけじゃない。ひどく矛盾を生む、ボクにとっては忌むべき物体であるといえるね。
話がそれそうだから本題に戻すけれど……
そう、そんなボクたち、あるべき結果を一つのものとしか受け入れられない、観測手段を一つしか持たないボクたちからすれば、君という存在は、その権能は喉から手が出るほど欲しいものなんだ。
『同じ条件』で、『違う検証』ができ、『本来の結果』とは『別の結果』を見ることができる、究極的な権能— —これを、欲さずにいられるだろうか。
これを目の前にして、あらゆることを試さずにいられるだろうか。
もちろん、ボクとしても決して君にそれを強要するつもりなんてない。
あくまで、君は君の目的のために、その『死に戻り』を大いに利用するべきだ。ボクもまた、君が求める未来へ辿り着くために最善を尽くそう。
そして、その過程でできるならボク自身の好奇心を満たすことにも大いに貢献してもらいたい。
これぐらいは望んでも罰は当たらないはずだ。
君は答えを見られる。
ボクは好奇心を満たせる。
互いの利害は一致している。
ボクだって答えを知っているわけではないから、わざと間違った選択肢に君を誘導して、その上で惨たらしい結末を迎えるような真似はできるはずもない。
直面する問題に対して、最初から正しい答えを持たないという意味ではボクと君はあくまで対等だ。
共に同じ問題に悩み、足掻き、答えを出そうともがくという意味では正しく同志であるというべきだろう。
そのことについてはボクは恥じることなくはっきりと断言できる。
検証する手段が増える、という意味でボクは君をとても好意的に思っているから、君を無碍にするような真似は絶対にしないと誓おう。
もちろん、答えが出ない問題に直面して、ボクの協力があったとしても簡単には乗り越えられない事態も当然あり得るだろう。
知識の面で力を貸すことができても、ボクは決して現実に干渉できるわけではない。
立ちはだかる障害が肉体的な、物理的な力を必要とする問題だった場合、ボクは君の助けになることはできない。
幾度も幾度も、あるいは数百、数千と君は心と体を砕かれるかもしれない。
もしもそうなったとしても、ボクは君の心のケアを行っていきたいと本心から思っている。
そこには君という有用な存在を失いたくないという探究心からなる感情が一片も混じらないとは断言できない。
けれど、君という存在を好ましく思って、君の力になりたいとそう思う気持ちがあるのも本当なんだ。
だから悪いようには思ってもらいたくない。
繰り返しになってしまうが、ボクは君の目的に対して有用な存在だと胸を張れる。
そう、ボクがボクの好奇心といった強欲を満たすために、君の存在をある意味では利用しようと考えるのと同じように、君もまたボクという存在を君の『最善の未来へ至る』という目的のために利用したらいい。
そうやって都合のいい女として、君に扱われるのもボクとしては本望だ。
それで君がやる気になってくれるというのなら、ボクは喜んでボクという存在を捧げよう。
貧相な体ですでに死者であるこの身を、君が望んでくれるかは別としてだけどね。
おっと、こんなことを言っては君の思い人に悪いかな。
君の思い人— —銀色のハーフエルフ、そして青い髪の鬼の少女。
そう君が必ず助け出すと、守ってみせると、心で誓い行動で示している少女たちだ。
二人に対して、そんな強い感情を抱く君の心のありように対するボクの考えはこの場では述べないこととして、しかし純粋に君の前に立ちはだかる壁の高さは想像を絶するものであると断言しよう。
現状、すでにわかっている障害だけでどれだけ君の手に負えないものが乱立していることか。
それらを一人で乗り越えようとする君の覚悟は貴く、そしてあまりにも悲愴なものだ。
ボクがそんな君の道筋の力になりたい、なれればと思う気持ちにも決して偽りはない。
そして、君はボクのそんな気持ちを利用するべきなんだ。
君は、君が持ちえる全てを、君が利用できる全てを利用して、それだけのことをして絆を結んだ人々を助けなくてはならない。
それが君が君自身に誓った誓いで、必要なことであると苦痛の道のりの上で割り切った信念じゃないか。
だからボクは君に問う、君に重ねる、君を想おう。君が自分の命を使い捨てて、それで歩いてきた道のりのことは皮肉にもつい今、第二の『試練』という形で証明された。
あるいはあの『試練』は、君にこれまで歩いてきた道のりを理解させるためにあったんじゃないかとすら錯覚させるほど、必要なものにすら思える。確かに必要のない、自覚することで心がすり減る類の光景であったことは事実だ。
でも、知らなかった状態と知っている状態ならば、ボクはどんな悲劇的な事実であったとしても後者の方を尊く思いたい。
君はこれまで、そしてこれからも、自分の命を『死に戻り』の対価として差し出し、そして未来を引き寄せる必要があるんだ。
そのために犠牲になるものが、世界が、こういった形で『あるのかもしれない』と心に留め置くことは必要なことだったんだ。
いずれ、自分の命を支払うことに何ら感傷を抱かなくなり、人間的な感情が希薄になって、大切な人たちの『死』にすら心を動かさなくなり、無感動で無感情で無気力な日々に沈み、最善の未来へ辿り着いたとしても、そこに君という存在が欠けた状態で辿り着く— —
そんな、徒労感だけが残る未来へ辿り着かないためにも、必要なことだったんだ。
そう、世界の全てに無駄なことなんてものはなく、全ては必要な道行、必要なパズルのピ— —スなんだ。
それを理解するために『試練』はあった。
君が今、こうして足を止めてしまっている理由に、原因にもっともらしい意味をつけて割り切ることが必要なら、こう考えるといい。そして、ボクは君のその考えを肯定する。
君が前へ進むために必要な力を、ボクが言葉で与えられるのならどんな言葉でもかけよう。
それが慰めでも、発破をかけるのでも、愛を囁くのでも、憎悪を掻き立てるものであっても、それが君の力になるのであればボクは躊躇うことなくそれを行使できる。
君はそれを厭うかもしれないが、君のこれからの歩みには必ずボクのような存在の力が必要なんだ。
君がこれから、傷付くことを避けられない孤独の道を歩んでゆくというのなら、その道のりを目を背けることなく一緒に歩ける存在が必ず必要なんだ。
そしてその役割をボクならば、他の誰でもなく、このボクならば何の問題もなく一緒に歩いていくことができる。
繰り返そう、重ねよう、何度だって君に届くように伝えよう。
君には、ボクが必要なはずだ。そして、ボクには君が必要なんだ。
君の存在が、必要なんだ。ボクの好奇心はもはや、君という存在をなくしては決して満たされない。
君という存在だけが、ボクを満たしてくれる。
ボクに、ボクの決して満たされることのない『強欲』に、きっと満足を与えてくれる。
君の存在はもはやボクの、この閉ざされた世界に住まうボクにとっては欠かせない。
君が誰かの希望でありたいと、世界を切り開くために力を行使するのであれば、ボクという哀れな存在にそのおこぼれをいただくことはできないだろうか。
ボクは君がその温情をボクに傾けてくれるというのなら、この身を、知識を、魂を、捧げることを何ら躊躇いはしない。
だからお願いだ。
ボクを信じてほしい。
こうしてこれまで本心を伝えようとしなかったのは、決して君を騙そうとしたりだとか、隠し立てをしようとしていたわけじゃない。
時期を見計らっていただけだ。今、この瞬間に本心の欠片を訴えかけていたとしたら、きっと君はボクから離れてしまったことだろう。
ボクにとってそれは耐え難い損失なんだ。もちろん、それは君にとっても、求める未来を遠ざけるという意味で正しく損失というべきだろう。
いずれ、君は『死に戻り』という特性上、きっと求める未来へ辿り着くことだろう。
けれど、その辿り着ける未来に対し、君が支払う代償は少ない方がいいに決まっている。
ボクは、ボクならばそれを軽減することが可能だ。
最終的に求める結果に辿り着ければいい、などと大目的を理由に小目的を蔑ろにするような、人でなしな考えをするとは誤解しないでほしいんだ。
確かに誘惑に駆られて、こうした場合の結果を見たいがために、最善の道行きに必要な要素に気付いていながら言葉にしない— —というような行いを絶対にしないと断言できるほど、ボクはボクの欲望を抑制できていない。そのことは認めよう。
けれど、誤魔化しはしない。もし仮にそんな信頼に背くような行いに手を染めるようなことがあれば、それを隠すようなことだけは絶対にしない。
必ず打ち明ける。
そして、失った信頼に応えられるよう、何度でも君のために力を尽くそう。
どんなことがあっても、必ずボクは君を君が望む最善の未来へ送り出す。
絶対に、絶対にだ。だからそのために必要な手段であると割り切って、ボクを選んではくれないだろうか。
ボクが君に望み、君に求める要求は契約の際に述べたこと通りだ。
あとは君が、君自身が、欲しいと欲する願いに対してどこまで身を切れるか、という話になってくる。
ボクの覚悟は今述べた通りだ。
あとは、君の覚悟を聞きたい。
君の方こそ、ボクとの契約を交わし、ボクの協力を得て、その上で必ず未来へ辿り着くのだと、その気概があるのだとボクに証明してみせてほしい。
それができてこそ初めて、君は第二の『試練』に打ち勝ったと胸を張って言えるんだ。
第三の『試練』に進み、そしてそれを乗り越えて『聖域』の解放を果たす。
今後、『聖域』と君の思い人、そして大切な人々に降りかかる災厄を思えば、これは越えなくてはならない正しく『試練』なんだ。それを乗り越える力が、覚悟が君にあるのだと、ボクに教えてほしい。
そしてその上で、ボクを奪って、ボクの知識を利用して、その先にあるものを得ていこう。
ボクが君に望み、君に求め、そして代わりに君に差し出せるものは以上だ。
ボクは真摯に、正直に、全てを打ち明けたつもりだ。
その上で、君がどういった判断をするのか— —それを、ボクに教えてほしい。ボクという存在の、好奇心の一端を満たすためにも、ね」
動畫只有1/4的量,原作4000字的超長超硬台詞!
「君が持つ特性、『死に戻り』はすさまじい権能だ。
その有用さが、君は本当の意味で理解できていない。
自分の望まない終わりを許容しない、何度でもやり直す、未来へ何度でも手を伸ばせる— —それは、探究者にとって究極に近い理想だ。
だって、そうだろう?本来、ある物事への結果というものは、一つの結果が出てしまったらそこから動かせないんだ。
結果が出るまでの過程でならば、その結果がどうなるかについての仮説は様々なものが立てられる。
こういったアプローチをすれば、あるいはこういう条件にしてみれば、様々な仮説や検証は可能だ。
けれど、実際にその結果を出そうと実験に臨むとなれば、結果も試せる仮説も検証も、一つに集約されざるを得ない。
まったく、本当の意味でまったく同じ条件を作り出すことは不可能なんだ。
どんなに条件を整えたとしても、その時点とまったく同じ条件は絶対に作り出せない。
あのとき、別のやり方をしていたらどんな結果が出ていたのか――それは、ボクたち探究者にとっては決して手を届かせることのできない、理想のその先にある夢想でしかない。
『世界の記憶』を持つボクには、その答えを『知る』手段は確かにあるさ、あるとも。
あるけれど、それを使うことを、用いることをボクはよしとしない。
ボクは『知りたい』んであって、『知っていたい』わけじゃない。ひどく矛盾を生む、ボクにとっては忌むべき物体であるといえるね。
話がそれそうだから本題に戻すけれど……
そう、そんなボクたち、あるべき結果を一つのものとしか受け入れられない、観測手段を一つしか持たないボクたちからすれば、君という存在は、その権能は喉から手が出るほど欲しいものなんだ。
『同じ条件』で、『違う検証』ができ、『本来の結果』とは『別の結果』を見ることができる、究極的な権能— —これを、欲さずにいられるだろうか。
これを目の前にして、あらゆることを試さずにいられるだろうか。
もちろん、ボクとしても決して君にそれを強要するつもりなんてない。
あくまで、君は君の目的のために、その『死に戻り』を大いに利用するべきだ。ボクもまた、君が求める未来へ辿り着くために最善を尽くそう。
そして、その過程でできるならボク自身の好奇心を満たすことにも大いに貢献してもらいたい。
これぐらいは望んでも罰は当たらないはずだ。
君は答えを見られる。
ボクは好奇心を満たせる。
互いの利害は一致している。
ボクだって答えを知っているわけではないから、わざと間違った選択肢に君を誘導して、その上で惨たらしい結末を迎えるような真似はできるはずもない。
直面する問題に対して、最初から正しい答えを持たないという意味ではボクと君はあくまで対等だ。
共に同じ問題に悩み、足掻き、答えを出そうともがくという意味では正しく同志であるというべきだろう。
そのことについてはボクは恥じることなくはっきりと断言できる。
検証する手段が増える、という意味でボクは君をとても好意的に思っているから、君を無碍にするような真似は絶対にしないと誓おう。
もちろん、答えが出ない問題に直面して、ボクの協力があったとしても簡単には乗り越えられない事態も当然あり得るだろう。
知識の面で力を貸すことができても、ボクは決して現実に干渉できるわけではない。
立ちはだかる障害が肉体的な、物理的な力を必要とする問題だった場合、ボクは君の助けになることはできない。
幾度も幾度も、あるいは数百、数千と君は心と体を砕かれるかもしれない。
もしもそうなったとしても、ボクは君の心のケアを行っていきたいと本心から思っている。
そこには君という有用な存在を失いたくないという探究心からなる感情が一片も混じらないとは断言できない。
けれど、君という存在を好ましく思って、君の力になりたいとそう思う気持ちがあるのも本当なんだ。
だから悪いようには思ってもらいたくない。
繰り返しになってしまうが、ボクは君の目的に対して有用な存在だと胸を張れる。
そう、ボクがボクの好奇心といった強欲を満たすために、君の存在をある意味では利用しようと考えるのと同じように、君もまたボクという存在を君の『最善の未来へ至る』という目的のために利用したらいい。
そうやって都合のいい女として、君に扱われるのもボクとしては本望だ。
それで君がやる気になってくれるというのなら、ボクは喜んでボクという存在を捧げよう。
貧相な体ですでに死者であるこの身を、君が望んでくれるかは別としてだけどね。
おっと、こんなことを言っては君の思い人に悪いかな。
君の思い人— —銀色のハーフエルフ、そして青い髪の鬼の少女。
そう君が必ず助け出すと、守ってみせると、心で誓い行動で示している少女たちだ。
二人に対して、そんな強い感情を抱く君の心のありように対するボクの考えはこの場では述べないこととして、しかし純粋に君の前に立ちはだかる壁の高さは想像を絶するものであると断言しよう。
現状、すでにわかっている障害だけでどれだけ君の手に負えないものが乱立していることか。
それらを一人で乗り越えようとする君の覚悟は貴く、そしてあまりにも悲愴なものだ。
ボクがそんな君の道筋の力になりたい、なれればと思う気持ちにも決して偽りはない。
そして、君はボクのそんな気持ちを利用するべきなんだ。
君は、君が持ちえる全てを、君が利用できる全てを利用して、それだけのことをして絆を結んだ人々を助けなくてはならない。
それが君が君自身に誓った誓いで、必要なことであると苦痛の道のりの上で割り切った信念じゃないか。
だからボクは君に問う、君に重ねる、君を想おう。君が自分の命を使い捨てて、それで歩いてきた道のりのことは皮肉にもつい今、第二の『試練』という形で証明された。
あるいはあの『試練』は、君にこれまで歩いてきた道のりを理解させるためにあったんじゃないかとすら錯覚させるほど、必要なものにすら思える。確かに必要のない、自覚することで心がすり減る類の光景であったことは事実だ。
でも、知らなかった状態と知っている状態ならば、ボクはどんな悲劇的な事実であったとしても後者の方を尊く思いたい。
君はこれまで、そしてこれからも、自分の命を『死に戻り』の対価として差し出し、そして未来を引き寄せる必要があるんだ。
そのために犠牲になるものが、世界が、こういった形で『あるのかもしれない』と心に留め置くことは必要なことだったんだ。
いずれ、自分の命を支払うことに何ら感傷を抱かなくなり、人間的な感情が希薄になって、大切な人たちの『死』にすら心を動かさなくなり、無感動で無感情で無気力な日々に沈み、最善の未来へ辿り着いたとしても、そこに君という存在が欠けた状態で辿り着く— —
そんな、徒労感だけが残る未来へ辿り着かないためにも、必要なことだったんだ。
そう、世界の全てに無駄なことなんてものはなく、全ては必要な道行、必要なパズルのピ— —スなんだ。
それを理解するために『試練』はあった。
君が今、こうして足を止めてしまっている理由に、原因にもっともらしい意味をつけて割り切ることが必要なら、こう考えるといい。そして、ボクは君のその考えを肯定する。
君が前へ進むために必要な力を、ボクが言葉で与えられるのならどんな言葉でもかけよう。
それが慰めでも、発破をかけるのでも、愛を囁くのでも、憎悪を掻き立てるものであっても、それが君の力になるのであればボクは躊躇うことなくそれを行使できる。
君はそれを厭うかもしれないが、君のこれからの歩みには必ずボクのような存在の力が必要なんだ。
君がこれから、傷付くことを避けられない孤独の道を歩んでゆくというのなら、その道のりを目を背けることなく一緒に歩ける存在が必ず必要なんだ。
そしてその役割をボクならば、他の誰でもなく、このボクならば何の問題もなく一緒に歩いていくことができる。
繰り返そう、重ねよう、何度だって君に届くように伝えよう。
君には、ボクが必要なはずだ。そして、ボクには君が必要なんだ。
君の存在が、必要なんだ。ボクの好奇心はもはや、君という存在をなくしては決して満たされない。
君という存在だけが、ボクを満たしてくれる。
ボクに、ボクの決して満たされることのない『強欲』に、きっと満足を与えてくれる。
君の存在はもはやボクの、この閉ざされた世界に住まうボクにとっては欠かせない。
君が誰かの希望でありたいと、世界を切り開くために力を行使するのであれば、ボクという哀れな存在にそのおこぼれをいただくことはできないだろうか。
ボクは君がその温情をボクに傾けてくれるというのなら、この身を、知識を、魂を、捧げることを何ら躊躇いはしない。
だからお願いだ。
ボクを信じてほしい。
こうしてこれまで本心を伝えようとしなかったのは、決して君を騙そうとしたりだとか、隠し立てをしようとしていたわけじゃない。
時期を見計らっていただけだ。今、この瞬間に本心の欠片を訴えかけていたとしたら、きっと君はボクから離れてしまったことだろう。
ボクにとってそれは耐え難い損失なんだ。もちろん、それは君にとっても、求める未来を遠ざけるという意味で正しく損失というべきだろう。
いずれ、君は『死に戻り』という特性上、きっと求める未来へ辿り着くことだろう。
けれど、その辿り着ける未来に対し、君が支払う代償は少ない方がいいに決まっている。
ボクは、ボクならばそれを軽減することが可能だ。
最終的に求める結果に辿り着ければいい、などと大目的を理由に小目的を蔑ろにするような、人でなしな考えをするとは誤解しないでほしいんだ。
確かに誘惑に駆られて、こうした場合の結果を見たいがために、最善の道行きに必要な要素に気付いていながら言葉にしない— —というような行いを絶対にしないと断言できるほど、ボクはボクの欲望を抑制できていない。そのことは認めよう。
けれど、誤魔化しはしない。もし仮にそんな信頼に背くような行いに手を染めるようなことがあれば、それを隠すようなことだけは絶対にしない。
必ず打ち明ける。
そして、失った信頼に応えられるよう、何度でも君のために力を尽くそう。
どんなことがあっても、必ずボクは君を君が望む最善の未来へ送り出す。
絶対に、絶対にだ。だからそのために必要な手段であると割り切って、ボクを選んではくれないだろうか。
ボクが君に望み、君に求める要求は契約の際に述べたこと通りだ。
あとは君が、君自身が、欲しいと欲する願いに対してどこまで身を切れるか、という話になってくる。
ボクの覚悟は今述べた通りだ。
あとは、君の覚悟を聞きたい。
君の方こそ、ボクとの契約を交わし、ボクの協力を得て、その上で必ず未来へ辿り着くのだと、その気概があるのだとボクに証明してみせてほしい。
それができてこそ初めて、君は第二の『試練』に打ち勝ったと胸を張って言えるんだ。
第三の『試練』に進み、そしてそれを乗り越えて『聖域』の解放を果たす。
今後、『聖域』と君の思い人、そして大切な人々に降りかかる災厄を思えば、これは越えなくてはならない正しく『試練』なんだ。それを乗り越える力が、覚悟が君にあるのだと、ボクに教えてほしい。
そしてその上で、ボクを奪って、ボクの知識を利用して、その先にあるものを得ていこう。
ボクが君に望み、君に求め、そして代わりに君に差し出せるものは以上だ。
ボクは真摯に、正直に、全てを打ち明けたつもりだ。
その上で、君がどういった判断をするのか— —それを、ボクに教えてほしい。ボクという存在の、好奇心の一端を満たすためにも、ね」
動畫只有1/4的量,原作4000字的超長超硬台詞!
《法华经》三界火宅
(第五十三段)
【舍利弗!若国邑聚落,有大长者,其年衰迈,财富无量,多有田宅,及诸僮仆。其家广大,唯有一门,多诸人众,一百、二百,乃至五百人,止住其中。堂阁朽故,墙壁隤落,柱根腐败,梁栋倾危,周匝俱时,欻然火起,焚烧舍宅。长者诸子,若十、二十,或至三十,在此宅中。长者见是大火从四面起,即大惊怖,而作是念,我虽能于此所烧之门,安隐得出,而诸子等,于火宅内,乐著嘻戏,不觉不知、不惊不怖,火来逼身,苦痛切已,心不厌患,无求出意。】
世尊说:舍利弗!如果有一个国家、一个城市、一个区县、一个城乡聚落,住在这里面的有一位“大长者”。什么是大长者呢?大长者在世间必须要具有十德才能被称为大长者,此十德的解释出自于《翻译名义》,即:
1、贵姓:贵姓是指勋戚尊贵、世称门阀之族。“门阀”是“门第”和“阀阅”的合称,指世代为官的名门望族,又称门第、衣冠、士族、势族、世家、巨室等。形成于魏晋时期,是具有特殊地位的地主阶层。东汉的累世公卿,经学世家等豪强世族是门阀的前身。由此可见,贵姓指出生在血统高贵的家庭,如权贵或皇亲国戚之家。
2、位高:位高指位居“九卿”、“丞相”、及权位在“卿相之上的三公宰辅”之位高权重者。
3、大富:大富指珍宝货物丰富多饶,所需具足,财产丰厚,富甲一方,一切充足。
4、威猛:威猛指不怒而威、乐善而猛。威严稳重、为人厚道,重情重义,人所敬畏。
5、智深:智深指智虑深远、越格超群。所谋皆当、智慧深睿,谋略过人,处事正确。
6、年耆:年耆指年高。年高者为物仪表、阅历丰富、德高望重、为人表率,受人尊重敬仰。
7、行净:行净指持心律己、廉洁奉公,洁身自好。所行如言,言行一致,皆无玷污,为人公道,爱无偏党,清净无染。
8、礼备:礼备指威仪庠序、世所式瞻。意为威仪有序,具足“仁、知、义、礼、乐、忠、信、天、地、德”等世间礼数,受世人效法瞻仰。
9、上叹:上叹指才德兼备,言行可则,为在上者所叹服。意为才能出众,品德高尚,言必行、行必果,常受到上级或佛菩萨的赞叹。
10、下归:下归指谦以处己、宽以御众,为在下者所归向。意为虽有权势,但绝不仗势欺人,而是谦虚谨慎,以仁爱普被于人,令人尊敬信伏而皈其门下。
具足以上十德,名为世间长者。既有世间长者就一定有出世间长者,那么出世间长者是谁呢?出世间长者就是佛,佛也有十德,就是佛的十个果号,即:
一、如来;二、应供;三、正遍知;四、明行足;五、善逝;六、世间解、无上士;七、调御丈夫;八、天人师;九、佛;十、世尊。本来佛有一万种名号,后来人们记不住,就慢慢简略为上述十种名号。这十个果号具足慧德圆满、福德圆满,功德圆满等一切圆满。
世间长者有十德,唯欠功德,于世间法中可得;佛之十德,不仅具足世间十德、还具足大法师十德、善知识十德、出世间十德。一切法圆满、一切理圆满、一切义圆满、一切事圆满。世间长者住生死、出世间长者住涅槃,二者在本质上是有巨大区别的,但因众生只知世间十德,不知出世间十德,所以常常借此喻彼,用以显现如来大威势,让众生相信如来有能力救众生出离生死苦海。
在比喻法中,以上说的“大长者”比喻的是“佛”;“国”比喻的是实报庄严土即菩萨净土;“邑”比喻的是方便有余土即声闻缘觉之净土;“聚落”比喻的是凡圣同居土,也就是三界内即净即秽土。此三土名“迹”,迹者,路过之意、不是目的地;佛的无余涅槃,名常寂光净土,这才是目的地。
常寂光净土名“本”、指本来具足、本来就有的如来藏性。《仁王经》说:“三贤十圣住果报,唯佛一人居净土。”可见三土为不究竟,还住在因果里;佛土为了义,已超越因果,是真正的净土。
这个大长者,已年迈体衰,但他却拥有无量多的财富,还有很多的田土、宅院、房产,及很多的年轻僮仆。这些“财富、田宅,僮仆”等比喻如来藏中本具之珍宝。何为珍宝呢?能救人慧命即是珍宝,如三藏十二部,戒定慧三学及八万四千解脱法等。大长者的这个家非常广大,但只有一个进出的门。此“一门”比喻为一乘法;比喻在生死面前,要想彻底摆脱轮回,唯有一乘法为真正的逃生之门。
宅院里有许多的人,一百、二百、乃至五百,都住在里面,这“一至五百”比喻的是五道众生。这里有个问题,佛明明讲的是六道众生,怎么变成五道众生了呢?是这样的,阿修罗生前普遍能修善法,除了地狱道没有以外,在鬼道、畜生道、人道、天道里都有,所以不再单列,故只称五道、展开了就是六道,并不矛盾。
这里说的“一百”比喻地狱道、“二百”比喻鬼道、“三百”比喻畜生道、“四百”比喻人道、“五百”比喻天道。此比喻五道众生,同住在一个大宅院里,这个大宅院比喻为三界,即:欲界、色界、无色界。
由于长者年老,力不从心,此大宅院年久失修,厅堂阁楼已出现朽坏,墙壁也开始脱落,屋梁房柱正在腐败,房顶栋梁倾斜,整个大院已摇摇欲坠,危在旦夕。
此处:“堂”比喻欲界。“阁”比喻色界、无色界。“朽”比喻三界弊恶无常、终将坏灭。“墙壁”比喻地水火风四大五蕴之身。“柱根腐败”比喻贪求酒色财气、身体多病,生命渐至衰亡。“梁栋”比喻意识。“梁栋倾危”比喻六识心、念念迁流,生灭无常。
此时,大宅院周匝即周围,忽然火起,大火已开始吞噬房屋,一片火海,但这个火,并非真正的火,而是无明欲火,无明欲火虽然看不见,却能烧坏自己的法身慧命,比能烧坏自己色身的明火更可怕,这一点,世人无知,但佛陀却看得非常清楚,所以佛将大宅院比喻为三界,三界内的众生都困在浴火中,因此而喻为“三界火宅。”
三界火宅里的“周匝”火起,周匝有八个方位,比喻人生有八苦,即:生苦、老苦、病苦、死苦、爱别离苦、怨憎会苦、求不得苦、五阴炽盛苦。此比喻人身四大被诸苦遍满缠缚。“火”比喻烦恼无明火;“宅”有两个含义,一、比喻三界;二、比喻人体五阴即色受想行识之身。意为人体五阴之身被因烦恼而起的无明火燃烧,生死随时都在顷刻之间。
长者有很多的儿子,“十个、二十个、三十个”,都在这火宅中。此“十个至三十个”比喻三界内未断生死的三乘修学人,即声闻乘、缘觉乘、菩萨乘。
长者见火从四面而起,非常惊慌恐怕,心里面想:“我见此险情,虽然有本事能够自己出此火宅之门,出去后就可得安全稳定,而我的那些儿子们,他们在火宅内,还在追求功名利禄,乐著于嘻戏玩乐,对大火逼身而毫无知觉,一点也不惊慌恐怕。已经被火逼身的,虽然感到苦痛,但心里并不厌恶此火,还在想着怎样升官发财的事,也没有想求怎样出离火宅的意愿。”佛陀虽然非常担心,但众生却对三界火宅没有风险性的认识,仍旧还在贪享苦中之乐,并没有出离火宅的意愿。
(第五十三段)
【舍利弗!若国邑聚落,有大长者,其年衰迈,财富无量,多有田宅,及诸僮仆。其家广大,唯有一门,多诸人众,一百、二百,乃至五百人,止住其中。堂阁朽故,墙壁隤落,柱根腐败,梁栋倾危,周匝俱时,欻然火起,焚烧舍宅。长者诸子,若十、二十,或至三十,在此宅中。长者见是大火从四面起,即大惊怖,而作是念,我虽能于此所烧之门,安隐得出,而诸子等,于火宅内,乐著嘻戏,不觉不知、不惊不怖,火来逼身,苦痛切已,心不厌患,无求出意。】
世尊说:舍利弗!如果有一个国家、一个城市、一个区县、一个城乡聚落,住在这里面的有一位“大长者”。什么是大长者呢?大长者在世间必须要具有十德才能被称为大长者,此十德的解释出自于《翻译名义》,即:
1、贵姓:贵姓是指勋戚尊贵、世称门阀之族。“门阀”是“门第”和“阀阅”的合称,指世代为官的名门望族,又称门第、衣冠、士族、势族、世家、巨室等。形成于魏晋时期,是具有特殊地位的地主阶层。东汉的累世公卿,经学世家等豪强世族是门阀的前身。由此可见,贵姓指出生在血统高贵的家庭,如权贵或皇亲国戚之家。
2、位高:位高指位居“九卿”、“丞相”、及权位在“卿相之上的三公宰辅”之位高权重者。
3、大富:大富指珍宝货物丰富多饶,所需具足,财产丰厚,富甲一方,一切充足。
4、威猛:威猛指不怒而威、乐善而猛。威严稳重、为人厚道,重情重义,人所敬畏。
5、智深:智深指智虑深远、越格超群。所谋皆当、智慧深睿,谋略过人,处事正确。
6、年耆:年耆指年高。年高者为物仪表、阅历丰富、德高望重、为人表率,受人尊重敬仰。
7、行净:行净指持心律己、廉洁奉公,洁身自好。所行如言,言行一致,皆无玷污,为人公道,爱无偏党,清净无染。
8、礼备:礼备指威仪庠序、世所式瞻。意为威仪有序,具足“仁、知、义、礼、乐、忠、信、天、地、德”等世间礼数,受世人效法瞻仰。
9、上叹:上叹指才德兼备,言行可则,为在上者所叹服。意为才能出众,品德高尚,言必行、行必果,常受到上级或佛菩萨的赞叹。
10、下归:下归指谦以处己、宽以御众,为在下者所归向。意为虽有权势,但绝不仗势欺人,而是谦虚谨慎,以仁爱普被于人,令人尊敬信伏而皈其门下。
具足以上十德,名为世间长者。既有世间长者就一定有出世间长者,那么出世间长者是谁呢?出世间长者就是佛,佛也有十德,就是佛的十个果号,即:
一、如来;二、应供;三、正遍知;四、明行足;五、善逝;六、世间解、无上士;七、调御丈夫;八、天人师;九、佛;十、世尊。本来佛有一万种名号,后来人们记不住,就慢慢简略为上述十种名号。这十个果号具足慧德圆满、福德圆满,功德圆满等一切圆满。
世间长者有十德,唯欠功德,于世间法中可得;佛之十德,不仅具足世间十德、还具足大法师十德、善知识十德、出世间十德。一切法圆满、一切理圆满、一切义圆满、一切事圆满。世间长者住生死、出世间长者住涅槃,二者在本质上是有巨大区别的,但因众生只知世间十德,不知出世间十德,所以常常借此喻彼,用以显现如来大威势,让众生相信如来有能力救众生出离生死苦海。
在比喻法中,以上说的“大长者”比喻的是“佛”;“国”比喻的是实报庄严土即菩萨净土;“邑”比喻的是方便有余土即声闻缘觉之净土;“聚落”比喻的是凡圣同居土,也就是三界内即净即秽土。此三土名“迹”,迹者,路过之意、不是目的地;佛的无余涅槃,名常寂光净土,这才是目的地。
常寂光净土名“本”、指本来具足、本来就有的如来藏性。《仁王经》说:“三贤十圣住果报,唯佛一人居净土。”可见三土为不究竟,还住在因果里;佛土为了义,已超越因果,是真正的净土。
这个大长者,已年迈体衰,但他却拥有无量多的财富,还有很多的田土、宅院、房产,及很多的年轻僮仆。这些“财富、田宅,僮仆”等比喻如来藏中本具之珍宝。何为珍宝呢?能救人慧命即是珍宝,如三藏十二部,戒定慧三学及八万四千解脱法等。大长者的这个家非常广大,但只有一个进出的门。此“一门”比喻为一乘法;比喻在生死面前,要想彻底摆脱轮回,唯有一乘法为真正的逃生之门。
宅院里有许多的人,一百、二百、乃至五百,都住在里面,这“一至五百”比喻的是五道众生。这里有个问题,佛明明讲的是六道众生,怎么变成五道众生了呢?是这样的,阿修罗生前普遍能修善法,除了地狱道没有以外,在鬼道、畜生道、人道、天道里都有,所以不再单列,故只称五道、展开了就是六道,并不矛盾。
这里说的“一百”比喻地狱道、“二百”比喻鬼道、“三百”比喻畜生道、“四百”比喻人道、“五百”比喻天道。此比喻五道众生,同住在一个大宅院里,这个大宅院比喻为三界,即:欲界、色界、无色界。
由于长者年老,力不从心,此大宅院年久失修,厅堂阁楼已出现朽坏,墙壁也开始脱落,屋梁房柱正在腐败,房顶栋梁倾斜,整个大院已摇摇欲坠,危在旦夕。
此处:“堂”比喻欲界。“阁”比喻色界、无色界。“朽”比喻三界弊恶无常、终将坏灭。“墙壁”比喻地水火风四大五蕴之身。“柱根腐败”比喻贪求酒色财气、身体多病,生命渐至衰亡。“梁栋”比喻意识。“梁栋倾危”比喻六识心、念念迁流,生灭无常。
此时,大宅院周匝即周围,忽然火起,大火已开始吞噬房屋,一片火海,但这个火,并非真正的火,而是无明欲火,无明欲火虽然看不见,却能烧坏自己的法身慧命,比能烧坏自己色身的明火更可怕,这一点,世人无知,但佛陀却看得非常清楚,所以佛将大宅院比喻为三界,三界内的众生都困在浴火中,因此而喻为“三界火宅。”
三界火宅里的“周匝”火起,周匝有八个方位,比喻人生有八苦,即:生苦、老苦、病苦、死苦、爱别离苦、怨憎会苦、求不得苦、五阴炽盛苦。此比喻人身四大被诸苦遍满缠缚。“火”比喻烦恼无明火;“宅”有两个含义,一、比喻三界;二、比喻人体五阴即色受想行识之身。意为人体五阴之身被因烦恼而起的无明火燃烧,生死随时都在顷刻之间。
长者有很多的儿子,“十个、二十个、三十个”,都在这火宅中。此“十个至三十个”比喻三界内未断生死的三乘修学人,即声闻乘、缘觉乘、菩萨乘。
长者见火从四面而起,非常惊慌恐怕,心里面想:“我见此险情,虽然有本事能够自己出此火宅之门,出去后就可得安全稳定,而我的那些儿子们,他们在火宅内,还在追求功名利禄,乐著于嘻戏玩乐,对大火逼身而毫无知觉,一点也不惊慌恐怕。已经被火逼身的,虽然感到苦痛,但心里并不厌恶此火,还在想着怎样升官发财的事,也没有想求怎样出离火宅的意愿。”佛陀虽然非常担心,但众生却对三界火宅没有风险性的认识,仍旧还在贪享苦中之乐,并没有出离火宅的意愿。
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