【blog】2022.09.03
ドードーの落下日誌(前編)
稽古中の日誌です。
観に行くか迷っている人や、劇のことをもっと知りたい人の助けになればと、日誌を書いてみました。
劇の内容に触れている箇所などあります。
「ドードーが落下する」を観に行く予定の方で、まだ読みたくない、読まずに観たいという方がいたらまだ読まないでくださいね。
稽古初日
本読み。
反省しかない。
加藤さんの言葉で「理解し合えない二人が友達でいれるのか」という言葉が印象に残る。
それから、信也(僕)が夏目(平原テツ)をどう受け取っていくかが大事と言われる。おそらくこの劇で最も大切なのがそれで、僕はそれが丁寧にできていなかった。
稽古終、取材。この劇について聞かれ、まだぼんやりしている中で答える。加藤さんがこの劇を立ち上げるということがどういうことか、信也がその瞬間や過去のことをどう見つめていたか、そういうことが全部つながっている。信也の心にはあの頃のことが刻まれている。忘れられない。忘れたくない。そんな劇を立ち上げたい。
稽古二日目
座組のみんながリラックスしていて本読みも昨日よりは良い感じ。加藤さんの、脚本や役柄の説明が入りながら全員で認識のすり合わせをして、ひたすら本読みをする。帰りの電車、加藤さんと二人きり。俺喋りっぱなし。浮かれてるなあ。
鶏肉を焼く。映画ムーンライトシャドウを見ながら眠る。
稽古三日目
加藤さんが「ドードーが落下する」について話してくれる時間がめっちゃ楽しいと気づく。何より本人が一番楽しそう。でも思えば劇団た組の公演の時、加藤さんはいつも楽しそうだ。緊張感もあるけど。三日目だけどとても疲労している。どうしてだろう。この脚本の持つ魔力、ポテンシャルを読めば読むほど感じる。ラストシーンについて少しだけヒントをもらう。この感覚懐かしい。加藤さんがくれるわずかなヒントを手繰り寄せて、深淵に辿り着きたい。
生姜焼きを作る。
稽古四日目
稽古場の待合室でする雑談が幸せ。初めて劇団た組に出演した時の稽古場に比べると目に見えて美しく贅沢な稽古場。でもあの頃の稽古場も少し恋しい。今日から立ち稽古が始まる。疲労はするけど楽しい。ドードーが落下するが立ち上がる。落下しながら立ち上がる。夏目さんの台詞を聞きながら思うことがある。この戯曲を読んだ人たちは、それぞれの夏目さんを語る。「引きずられる」「負の感情」そんな色々な言葉も聞いた。僕は劇中にも登場するようなその言葉を聞きながら信也の気持ちを想像する。周囲の人が夏目さんを語った時、彼は何を思っていたんだろう。理解し合えない人たちは友人でいられるのか。僕はこの劇で答えを追ってみたい。
頭の中でずっと台詞が聞こえて深夜まで眠れない。
稽古5日目
昼、あんかけ焼きそばを作る。
稽古場に向かう。Wikipediaでドードーを検索する。
のろますぎて絶滅した動物と出てくる。
人類によって絶滅した動物。
ポルトガル語でのろま。
アメリカ英語でdodoは滅びてしまった存在の代名詞。
警戒心が薄く人間が近づいても逃げないため素手で捕まえられたそう。
空を飛べない。
ドードーが落下する。
それは、捕まえられるのかな。
帰り道、訳もわからず寂しい。みんなとご飯に行きたい。信也についてアドバイスをくれた求一郎の言葉。
「信也、難しいよね。
寄り添い切るわけでもなく、
突き放し切るでもなく、
笑い物にし切るわけでもなく」
この劇の稽古に入ってから、一人の時間が耐え難く寂しい。
稽古6日目
書き忘れる。カルボナーラを作る。
稽古7日目
けっこうガッツリ稽古をして疲れる。加藤さんの脚本は台詞のニュアンスが曖昧なところへ向かうほど面白い。何度も体験している演出なのに劇団た組に参加する頃にはいつもそれを忘れている。つい一つの感情で台詞を表現しがちになってしまう。その度にこの場所に引き戻してもらってる。破壊と再生。
帰りの車内、古田新太さんのインタビューを読む。喫煙や飲酒によるコミュニケーションが減ったと。それが良い悪いの話ではなく、良い悪いの中間地点の話、つまり余白が大事だと。その余白を良くないからと切り捨てるのはどうかと。なるほど。
そう考えるとこの稽古場には、稽古場の外に休憩スペースのソファやらがあって、そこで皆が雑談できるのがありがたい。これは余白か。でもやっぱりまだ発言しづらい人もいるんだろうな。僕はそういうことを忘れがち。共演者の声を聞きたい。稽古終わりのご飯があればいいのに。きっとこの芝居は座組のコミュニケーションが深まるほど、良くなる、気がする。かぼちゃの煮物つくる。
稽古8日目
けっこう夏目さんの台詞が俺に侵食してくるなあ。
「ちょっと死にます」と電話をかけたくなる夏目の気持ちを想像してしまう。世界とのズレね。埋まらない孤独ね。どうして自分はこんなに孤独なんだろう?という純粋な疑問が襲ってくる夜ね。信也を演じながらずっと夏目さんの台詞聞いてるからなあ。
そっかあ。そう考えると、こんなとき夏目が電話をかけられるのは信也なのか。
肉豆腐つくる。夜、台詞にうなされて眠れない。明け方、クエンティンタランティーノに太極拳を教える夢を見る。
稽古9日目
帰りの電車。加藤さんと秋元と求一郎と。この電車の時間もいいよなあ。昨日、一昨日と一人で帰ってみて、やっぱり一緒に帰りたいなと。
今日は「ドードーが落下する」のあらすじを。
たくさんの人に見て欲しいな。
9月21日が初日なんだけど、その日はちょうど9年前に僕がオフィス作のオーディションを受けた日。松田美由紀さんと出会った日。僕にとっては忘れられない日なんだけど、その日に10年目の初日を迎えられることが嬉しい。
かぼちゃ煮物の残りでクリームパスタつくる。
「見えなかったら大丈夫と思ってたのに。実は価値が無いものは見えない方が世間はすごく良くなるんですよ。だから僕をそうしてもらったんですね、こいつに 」
イベント制作会社に勤める信也(藤原季節)と芸人の庄田(秋元龍太朗)は芸人仲間である夏目(平原テツ)からの電話に胸騒ぎを覚える。三年前、夏目は信也や友人達に飛び降りると電話をかけ、その後に失踪していた。しかしその二年後、再び信也に夏目から連絡がある。夏目は「とある事情」が原因で警察病院に入院していたそうで、その「とある事情」を説明する。それから信也達と夏目は再び集まるようになったものの、その「とある事情」は夏目と友人達の関係を変えてしまっていた。信也達と夏目との三年間を巡る青春失踪劇。
稽古10日目。書き忘れる。
湖で泳ぐ夢を見る。湖の底に落ちているビーサンを潜って取ろうとするけど取れない。
稽古11日目。書き忘れる。
体力の限界まで稽古をして、翌日は稽古やすみ。
稽古12日目。
台本を開くのが辛い。劇団た組の稽古をしていると確かにこの時間を通過する。膨大な台詞の反復と稽古場での台詞忘れを繰り返し続けていると、やがて夢に出てきてうなされるようになる。電車の中で台本を握りしめるけれどページを開くことが出来ない。
いよいよラストシーンの稽古が始まった。テツさんに圧倒されて台詞が出てこなくなる。悔しいし情けない。今まで演じた役の中で最も複雑な演技を求められている気がする。難しい。明日は頑張ろうという言葉すら出てこない。稽古場で諦めにも近い感情になったのは初めてのこと。稽古はいつもより早く17時半に終わる。
横浜駅まで歩いて帰ろうとしたら何人かがついてきてくれる。駅まで喋りながら帰る。楽しかった。みんなドードーがとにかく面白いと言っていて、それぞれの物語を語り合う。求一郎が通りがかった公園でいきなり鉄棒をし始める。誰も触れない。誰も観ていないところでポケットからスマホが落ちて画面が割れたらしい。
夜眠れないだろうなと思っていたらやっぱり全然眠れない。映画をかけてみたら最後まで観てしまう。毎日みんなと一緒にいるのに孤独を感じる。物語の持つ力せいか、演劇の持つ力のせいか。これまでもこんなに苦しかった?思い出せない。ただ、加藤拓也が書く物語の魔力、のようなものは確実に増していると思う。
稽古13日目。
細かい演出とシーンの反復が始まる。何度も何度も繰り返して細かい台詞のニュアンスや空白を詰めていく。20時近くまでみっちり稽古。加藤さんには珍しく長い時間稽古をしている。楽しくて時間が過ぎるのが早い。最後はみんながハイになって笑いが止まらなくなって、終了。
帰りの電車で加藤さんと話す。ラストに向かっていくヒントをもらう。少しずつ。
今週末に予定している通し稽古で何が見えるか。
夜はプリズムの放送。余韻を引きずりながら布団に入る。明日も稽古頑張ろう。
稽古14日目
後半の通し稽古。演じていてたまらなくなる。どうしようもない。楽しくて苦しい。
そのあと休憩を入れて返し稽古をするも疲れで全く台詞が出てこなくなる。
自分の体力のなさにショック。
今は夜中の3時。頭がハイになって眠れない日々が続く。演劇ってこんなに大変だったか?明日やれるのか自分。笑うしかない。
稽古15日目
今日から9月が始まった。
少し朦朧とした頭のまま、全力で返し稽古。
後半のシーンを繰り返し詰めていく。まだまだやることは沢山あるなあ。それでも少しずつ物語や関係性の輪郭が見えてきた気がする。輪郭が見えたらあとは中身を詰めていくだけ。
共演者とのコミュニケーションが深まってきた気がする。山脇辰哉がインスタで劇のことを書いていて嬉しくなる。みんなそれぞれドードーに対する思いがあるんだな。そう考えると、演じる底力が沸いてくる。
明日は初の全編、通し稽古。スタッフさんが来てくれるらしい。がんばろう。
稽古16日目
映画も見ない。本も読まない。ご飯も作らない。
芝居のことだけ考えて、だんだん無欲になっていく自分がいる。稽古終わり、加藤さんに連れられて足ツボマッサージに行く。足ツボを押されながら、そういえば新しい靴が欲しいなあとか、明日は日用品を買わなきゃとか、色んなことを思い出していく。
今日の通し稽古は大失敗だった。言われたことできてないし、早口だし、力んでるし。でも、まあ、失敗しておいて良かった。とにかく身も心もリラックスしてフラットな状態で挑む大切さを知ることが出来た。おやすみ。
https://t.cn/A6SA0w14
https://t.cn/A6S0b0dr
ドードーの落下日誌(前編)
稽古中の日誌です。
観に行くか迷っている人や、劇のことをもっと知りたい人の助けになればと、日誌を書いてみました。
劇の内容に触れている箇所などあります。
「ドードーが落下する」を観に行く予定の方で、まだ読みたくない、読まずに観たいという方がいたらまだ読まないでくださいね。
稽古初日
本読み。
反省しかない。
加藤さんの言葉で「理解し合えない二人が友達でいれるのか」という言葉が印象に残る。
それから、信也(僕)が夏目(平原テツ)をどう受け取っていくかが大事と言われる。おそらくこの劇で最も大切なのがそれで、僕はそれが丁寧にできていなかった。
稽古終、取材。この劇について聞かれ、まだぼんやりしている中で答える。加藤さんがこの劇を立ち上げるということがどういうことか、信也がその瞬間や過去のことをどう見つめていたか、そういうことが全部つながっている。信也の心にはあの頃のことが刻まれている。忘れられない。忘れたくない。そんな劇を立ち上げたい。
稽古二日目
座組のみんながリラックスしていて本読みも昨日よりは良い感じ。加藤さんの、脚本や役柄の説明が入りながら全員で認識のすり合わせをして、ひたすら本読みをする。帰りの電車、加藤さんと二人きり。俺喋りっぱなし。浮かれてるなあ。
鶏肉を焼く。映画ムーンライトシャドウを見ながら眠る。
稽古三日目
加藤さんが「ドードーが落下する」について話してくれる時間がめっちゃ楽しいと気づく。何より本人が一番楽しそう。でも思えば劇団た組の公演の時、加藤さんはいつも楽しそうだ。緊張感もあるけど。三日目だけどとても疲労している。どうしてだろう。この脚本の持つ魔力、ポテンシャルを読めば読むほど感じる。ラストシーンについて少しだけヒントをもらう。この感覚懐かしい。加藤さんがくれるわずかなヒントを手繰り寄せて、深淵に辿り着きたい。
生姜焼きを作る。
稽古四日目
稽古場の待合室でする雑談が幸せ。初めて劇団た組に出演した時の稽古場に比べると目に見えて美しく贅沢な稽古場。でもあの頃の稽古場も少し恋しい。今日から立ち稽古が始まる。疲労はするけど楽しい。ドードーが落下するが立ち上がる。落下しながら立ち上がる。夏目さんの台詞を聞きながら思うことがある。この戯曲を読んだ人たちは、それぞれの夏目さんを語る。「引きずられる」「負の感情」そんな色々な言葉も聞いた。僕は劇中にも登場するようなその言葉を聞きながら信也の気持ちを想像する。周囲の人が夏目さんを語った時、彼は何を思っていたんだろう。理解し合えない人たちは友人でいられるのか。僕はこの劇で答えを追ってみたい。
頭の中でずっと台詞が聞こえて深夜まで眠れない。
稽古5日目
昼、あんかけ焼きそばを作る。
稽古場に向かう。Wikipediaでドードーを検索する。
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人類によって絶滅した動物。
ポルトガル語でのろま。
アメリカ英語でdodoは滅びてしまった存在の代名詞。
警戒心が薄く人間が近づいても逃げないため素手で捕まえられたそう。
空を飛べない。
ドードーが落下する。
それは、捕まえられるのかな。
帰り道、訳もわからず寂しい。みんなとご飯に行きたい。信也についてアドバイスをくれた求一郎の言葉。
「信也、難しいよね。
寄り添い切るわけでもなく、
突き放し切るでもなく、
笑い物にし切るわけでもなく」
この劇の稽古に入ってから、一人の時間が耐え難く寂しい。
稽古6日目
書き忘れる。カルボナーラを作る。
稽古7日目
けっこうガッツリ稽古をして疲れる。加藤さんの脚本は台詞のニュアンスが曖昧なところへ向かうほど面白い。何度も体験している演出なのに劇団た組に参加する頃にはいつもそれを忘れている。つい一つの感情で台詞を表現しがちになってしまう。その度にこの場所に引き戻してもらってる。破壊と再生。
帰りの車内、古田新太さんのインタビューを読む。喫煙や飲酒によるコミュニケーションが減ったと。それが良い悪いの話ではなく、良い悪いの中間地点の話、つまり余白が大事だと。その余白を良くないからと切り捨てるのはどうかと。なるほど。
そう考えるとこの稽古場には、稽古場の外に休憩スペースのソファやらがあって、そこで皆が雑談できるのがありがたい。これは余白か。でもやっぱりまだ発言しづらい人もいるんだろうな。僕はそういうことを忘れがち。共演者の声を聞きたい。稽古終わりのご飯があればいいのに。きっとこの芝居は座組のコミュニケーションが深まるほど、良くなる、気がする。かぼちゃの煮物つくる。
稽古8日目
けっこう夏目さんの台詞が俺に侵食してくるなあ。
「ちょっと死にます」と電話をかけたくなる夏目の気持ちを想像してしまう。世界とのズレね。埋まらない孤独ね。どうして自分はこんなに孤独なんだろう?という純粋な疑問が襲ってくる夜ね。信也を演じながらずっと夏目さんの台詞聞いてるからなあ。
そっかあ。そう考えると、こんなとき夏目が電話をかけられるのは信也なのか。
肉豆腐つくる。夜、台詞にうなされて眠れない。明け方、クエンティンタランティーノに太極拳を教える夢を見る。
稽古9日目
帰りの電車。加藤さんと秋元と求一郎と。この電車の時間もいいよなあ。昨日、一昨日と一人で帰ってみて、やっぱり一緒に帰りたいなと。
今日は「ドードーが落下する」のあらすじを。
たくさんの人に見て欲しいな。
9月21日が初日なんだけど、その日はちょうど9年前に僕がオフィス作のオーディションを受けた日。松田美由紀さんと出会った日。僕にとっては忘れられない日なんだけど、その日に10年目の初日を迎えられることが嬉しい。
かぼちゃ煮物の残りでクリームパスタつくる。
「見えなかったら大丈夫と思ってたのに。実は価値が無いものは見えない方が世間はすごく良くなるんですよ。だから僕をそうしてもらったんですね、こいつに 」
イベント制作会社に勤める信也(藤原季節)と芸人の庄田(秋元龍太朗)は芸人仲間である夏目(平原テツ)からの電話に胸騒ぎを覚える。三年前、夏目は信也や友人達に飛び降りると電話をかけ、その後に失踪していた。しかしその二年後、再び信也に夏目から連絡がある。夏目は「とある事情」が原因で警察病院に入院していたそうで、その「とある事情」を説明する。それから信也達と夏目は再び集まるようになったものの、その「とある事情」は夏目と友人達の関係を変えてしまっていた。信也達と夏目との三年間を巡る青春失踪劇。
稽古10日目。書き忘れる。
湖で泳ぐ夢を見る。湖の底に落ちているビーサンを潜って取ろうとするけど取れない。
稽古11日目。書き忘れる。
体力の限界まで稽古をして、翌日は稽古やすみ。
稽古12日目。
台本を開くのが辛い。劇団た組の稽古をしていると確かにこの時間を通過する。膨大な台詞の反復と稽古場での台詞忘れを繰り返し続けていると、やがて夢に出てきてうなされるようになる。電車の中で台本を握りしめるけれどページを開くことが出来ない。
いよいよラストシーンの稽古が始まった。テツさんに圧倒されて台詞が出てこなくなる。悔しいし情けない。今まで演じた役の中で最も複雑な演技を求められている気がする。難しい。明日は頑張ろうという言葉すら出てこない。稽古場で諦めにも近い感情になったのは初めてのこと。稽古はいつもより早く17時半に終わる。
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王一博超话≥9
打怪≥285页
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曲奇是我本人纯手工制作,所以工作不忙的时候会边制作边寄出。2022.08.05开奖,承诺开奖后30天内寄出,有翡自理。 https://t.cn/A6aDyxlK
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#你也爱穿针织衫吗# 《没人能拒绝针织衫的诱惑》文 |达达
在《了不起的盖茨比》中,对盖茨比衣橱里的衬衫有这样的描述,“像砖头一样12个一摞叠起来⋯⋯纯亚麻的,厚蚕丝的,细法兰绒的,⋯⋯条纹的,涡卷纹的,都有印度蓝的姓名花押。”
显然他有点囤积过度了,但无可否认,成叠的衬衫看在眼里是一大快慰。没有男人会嫌衬衫太多,那是一年四季的份额。而无论男女,专属于秋天的份额必须算针织衫一个:针织马甲、针织开衫、针织短裙,甚至是奶奶风编织包,没人能拒绝针织的诱惑。
为什么有点传统,时不时有点土气的针织衫总在时尚的轮盘里徘徊?学术一些的解释说,针织衫熨贴、柔软的质感给予人的心理慰藉,是其他服装无法比拟的(出自《历史的针脚》作者、时装史研究者露西·阿德灵顿)。感性一些的解释说,针织衫在编制一个关于身体的梦,在梦里,自由的身体正在形成:它有臂膀、有双腿、有腹部、有足尖……它伴随着大海的气息,伴随着空间的浩渺(出自法国小说家埃莱娜·西苏)。
有人称针织衫就像第二层肌肤,如此紧密地贴合身体,穿上身有种感知自由的过程。正是如此,1924年,香奈儿女士在为芭蕾舞剧《蓝色列车》设计戏服时贯穿了针织元素。这部芭蕾舞剧的其他“主创”也颇有来头,编剧是法国诗人尚·考克多,舞台背幕与节目单的绘制是毕加索。在最后的彩排阶段,香奈儿直接在舞者身上给戏服做“减法”,以便让他们的肢体毫无顾忌地伸展。就像她曾说过的,“永远摘除,绝不添加……没有什么比身体的自由更美……”。
针织衫的拥趸里有不少风格偶像,有轶闻称奥黛丽·赫本曾一口气买了14件各种颜色的针织衫,并在1966年在为美国版《Vogue》拍摄杂志封面的时候,选了一件海军蓝色的。
近期一点的男士代表则是英国演员丹尼尔·戴-刘易斯爵士。丹尼尔因演出《魅影缝匠》被提名2017年奥斯卡最佳男主角,接受《W》杂志采访时,他穿了一件深蓝色针织衫,那是一件根据父辈传下来的甘希(Gansey)毛衣织法的复刻品。穿着“朴素”针织衫上封面的他们仿佛在说“我不是在扮演任何人”。
疫情之后,针织衫再度回潮又伴随了一些情感因素。去年英国男星哈利·史泰尔斯所穿的花格拼接毛线开衫引发了全球年轻人织毛衣的狂潮,随即他的毛衣被伦敦V&A博物馆收藏。有评论人称,那件拼接毛线开衫结合了时下两种最被需要的情绪,乐观和抚慰。
英国跳水王子汤姆·戴利也是织毛衣狂潮中的一员,他专门为晒作品开设了Instagram账号,那些花花绿绿的针织品有为他为4岁的儿子织的毛线帽、有为母亲的猫织的猫沙发,也有为自己织的开衫、背心甚至泳裤……它们都是戴利传达爱意的媒介。在戴利看来,跳水压力太大了,针织让人感到身心放松。难怪针织衫成为近年来chill(轻松、自在)风格的主打单品。
符号语言
在古希腊神话中,阿里阿德涅的线团帮助雅典王子忒修斯杀死怪物之后走出迷宫,虽然线团的成分和原本的用途不得而知,但从只言片语中可以推测针织技法由来已久。
伦敦博物馆馆藏中有一件查尔斯一世被处刑时穿的针织外套(1649年),由锦缎按平针法织成,并带有流苏装饰,技艺相当成熟。在中世纪和文艺复兴时期,男性需要经过漫长的学徒生涯才能获准加入针织的相关学会。随着针织技艺的普及,女人们则把一边针织一边闲聊当成了聚会形式,并贡献了很多与法国大革命相关的小说片段。狄更斯笔下人物还会将被处刑的人的名字变换成某种密码,织在衣服里。
现实中是否真有人把密码编织进毛衣不得而知,不过据说爱尔兰阿伦群岛的每一个家族编织的手法都不尽相同,如此一来,遇到罹难的人可以从毛衣的编织手法来区分出是谁家的渔民惨遭不幸。
对于针织衫来说,最有趣的不是具体织些什么图案,而是特定样式所反映的历史。比如,渔民最先把它当作内衣穿着,后来才慢慢变成外露服装,这导致水手式的设计和构造方式,无一不与功能息息相关。它首先利用了羊毛脂的保暖性,通过最传统而古老的方式增强防水——用精纺、强捻的五股羊毛线,密密实实织起来。特殊的起针、贴身的松紧度、微微开叉的下摆、微卷但仍能包紧的领口,都为了让水手式毛衣防风保暖,同时便于海上活动。
战争改变了人们对于服装性别和阶级的定义,香奈儿女士最早看中了针织面料的性能,设计出现代感的裙装、外套和夹克。加之夏帕瑞丽等设计师的努力,穿针织衫的女士被认为比穿毛衣的男士时尚多了。
电视剧《广告狂人》还原了上世纪60年代职业女性的装束——铅笔裙、圆领衬衫,再搭上一件开襟毛衫,两件式的搭配不仅传达出Jackie O式的简洁大方,如若突遇降温,外衫也能御寒。正是这种风格使欧洲针织衫进入了黄金年代,包括格蕾丝·凯莉在内的女明星都爱穿两件式菱形格纹开衫现身。
男士的高领毛衣则比开衫更具时尚话语权。加拿大摄影师尤瑟夫·卡希(Yousuf Karsh)为海明威拍摄的肖像看起来和当代维京冒险家十分相似,同样的浓密络腮胡和粗放的高领毛衣,不过海明威本人就喜欢这么穿。
在电影《大逃亡》中,史蒂夫·麦奎因在德瑞边境中骑着摩托车风驰电掣,被他裹在纯黑皮夹克之下的阿兰式毛衣从此进入潮流漩涡。和马龙·白兰度、詹姆斯·迪恩一样,麦奎因曾作为年轻人的风格偶像受尽追捧,他那件高领针织衫也成为了继白T恤、机车夹克之后的符号性单品。
在过去,时尚的传导都是自上而下的,男士高领毛衣则反其道而行,从“平民”出身跻身高阶时尚。后来的牛仔裤、法兰绒村衫、派克大衣和工装靴的都是如此。Ermenegildo Zegna和Berluti这种以取悦商务男士为使命的男装让高领针织衫取代衬衫,直接与商务西装搭配,即便没有了严谨的领带,依旧不乏正式感。难怪007詹姆斯·邦德总是用高领针织衫打底,脱下夹克换上西装,就能消失在写字楼中,对于特工来说,变装都方便了。
女士针织衫的审美变革则离不开“针织女王”索尼亚·里基尔。她的“穷男孩”针织衫——高袖窿的罗纹套头衫,重新定义的了针织衫的轮廓。“五月风暴”一边让她的店铺暂停营业,一边让她的设计走出了橱窗。1968年的《Vogue》评论道,索尼亚·里基尔体现了“曲线毕露的、贴身的伟大线条”。那些在过去看来离经叛道的衣服,成了鼓励人们追逐自由的表达。伦敦设计师玛丽·官也是同道中人,她在同一时期忙于制作热裤和迷你裙,让女性不受服装的限制。
索尼亚喜欢让服装跟随身体移动,她在设计中引入大量引入条纹,因为贴身条纹能跟随身体的运动增强视觉效果。与圣罗兰表达性感的方式(透明衬衫配无尾晚礼服)不同,索尼亚的性感来自女性的视角,让人穿着舒适。她的设计比日本设计师更早地运用了极简主义,比比利时设计师更早地想到了空间的反转。在她之后,针织作为一种语言被麦昆用来演绎柔顺和撕裂,被阿莱亚引入高级定制。
如今,新世代的设计师承袭了这种语言。中国设计师Rui Zhou(本届LVMH青年设计师大赛中Karl Lagerfeld Prize得主)让柔软的针织面料呈现出不规则的镂空设计,宣扬无差别的美感;Chet Lo表现的则是怪诞,将极细的半透明鱼线通过3D打印塑造出,身上长满了尖刺,酷似海胆和榴莲的外形,加上霓虹色系透出Y2K 的千禧年复古调。
就像那些总是是画同一主题的画家们,他们一直画,一直画,每一张都是不同的样子。同样是针织衫,在不同的时代的空气里,呈现出截然不同的情绪。
在《了不起的盖茨比》中,对盖茨比衣橱里的衬衫有这样的描述,“像砖头一样12个一摞叠起来⋯⋯纯亚麻的,厚蚕丝的,细法兰绒的,⋯⋯条纹的,涡卷纹的,都有印度蓝的姓名花押。”
显然他有点囤积过度了,但无可否认,成叠的衬衫看在眼里是一大快慰。没有男人会嫌衬衫太多,那是一年四季的份额。而无论男女,专属于秋天的份额必须算针织衫一个:针织马甲、针织开衫、针织短裙,甚至是奶奶风编织包,没人能拒绝针织的诱惑。
为什么有点传统,时不时有点土气的针织衫总在时尚的轮盘里徘徊?学术一些的解释说,针织衫熨贴、柔软的质感给予人的心理慰藉,是其他服装无法比拟的(出自《历史的针脚》作者、时装史研究者露西·阿德灵顿)。感性一些的解释说,针织衫在编制一个关于身体的梦,在梦里,自由的身体正在形成:它有臂膀、有双腿、有腹部、有足尖……它伴随着大海的气息,伴随着空间的浩渺(出自法国小说家埃莱娜·西苏)。
有人称针织衫就像第二层肌肤,如此紧密地贴合身体,穿上身有种感知自由的过程。正是如此,1924年,香奈儿女士在为芭蕾舞剧《蓝色列车》设计戏服时贯穿了针织元素。这部芭蕾舞剧的其他“主创”也颇有来头,编剧是法国诗人尚·考克多,舞台背幕与节目单的绘制是毕加索。在最后的彩排阶段,香奈儿直接在舞者身上给戏服做“减法”,以便让他们的肢体毫无顾忌地伸展。就像她曾说过的,“永远摘除,绝不添加……没有什么比身体的自由更美……”。
针织衫的拥趸里有不少风格偶像,有轶闻称奥黛丽·赫本曾一口气买了14件各种颜色的针织衫,并在1966年在为美国版《Vogue》拍摄杂志封面的时候,选了一件海军蓝色的。
近期一点的男士代表则是英国演员丹尼尔·戴-刘易斯爵士。丹尼尔因演出《魅影缝匠》被提名2017年奥斯卡最佳男主角,接受《W》杂志采访时,他穿了一件深蓝色针织衫,那是一件根据父辈传下来的甘希(Gansey)毛衣织法的复刻品。穿着“朴素”针织衫上封面的他们仿佛在说“我不是在扮演任何人”。
疫情之后,针织衫再度回潮又伴随了一些情感因素。去年英国男星哈利·史泰尔斯所穿的花格拼接毛线开衫引发了全球年轻人织毛衣的狂潮,随即他的毛衣被伦敦V&A博物馆收藏。有评论人称,那件拼接毛线开衫结合了时下两种最被需要的情绪,乐观和抚慰。
英国跳水王子汤姆·戴利也是织毛衣狂潮中的一员,他专门为晒作品开设了Instagram账号,那些花花绿绿的针织品有为他为4岁的儿子织的毛线帽、有为母亲的猫织的猫沙发,也有为自己织的开衫、背心甚至泳裤……它们都是戴利传达爱意的媒介。在戴利看来,跳水压力太大了,针织让人感到身心放松。难怪针织衫成为近年来chill(轻松、自在)风格的主打单品。
符号语言
在古希腊神话中,阿里阿德涅的线团帮助雅典王子忒修斯杀死怪物之后走出迷宫,虽然线团的成分和原本的用途不得而知,但从只言片语中可以推测针织技法由来已久。
伦敦博物馆馆藏中有一件查尔斯一世被处刑时穿的针织外套(1649年),由锦缎按平针法织成,并带有流苏装饰,技艺相当成熟。在中世纪和文艺复兴时期,男性需要经过漫长的学徒生涯才能获准加入针织的相关学会。随着针织技艺的普及,女人们则把一边针织一边闲聊当成了聚会形式,并贡献了很多与法国大革命相关的小说片段。狄更斯笔下人物还会将被处刑的人的名字变换成某种密码,织在衣服里。
现实中是否真有人把密码编织进毛衣不得而知,不过据说爱尔兰阿伦群岛的每一个家族编织的手法都不尽相同,如此一来,遇到罹难的人可以从毛衣的编织手法来区分出是谁家的渔民惨遭不幸。
对于针织衫来说,最有趣的不是具体织些什么图案,而是特定样式所反映的历史。比如,渔民最先把它当作内衣穿着,后来才慢慢变成外露服装,这导致水手式的设计和构造方式,无一不与功能息息相关。它首先利用了羊毛脂的保暖性,通过最传统而古老的方式增强防水——用精纺、强捻的五股羊毛线,密密实实织起来。特殊的起针、贴身的松紧度、微微开叉的下摆、微卷但仍能包紧的领口,都为了让水手式毛衣防风保暖,同时便于海上活动。
战争改变了人们对于服装性别和阶级的定义,香奈儿女士最早看中了针织面料的性能,设计出现代感的裙装、外套和夹克。加之夏帕瑞丽等设计师的努力,穿针织衫的女士被认为比穿毛衣的男士时尚多了。
电视剧《广告狂人》还原了上世纪60年代职业女性的装束——铅笔裙、圆领衬衫,再搭上一件开襟毛衫,两件式的搭配不仅传达出Jackie O式的简洁大方,如若突遇降温,外衫也能御寒。正是这种风格使欧洲针织衫进入了黄金年代,包括格蕾丝·凯莉在内的女明星都爱穿两件式菱形格纹开衫现身。
男士的高领毛衣则比开衫更具时尚话语权。加拿大摄影师尤瑟夫·卡希(Yousuf Karsh)为海明威拍摄的肖像看起来和当代维京冒险家十分相似,同样的浓密络腮胡和粗放的高领毛衣,不过海明威本人就喜欢这么穿。
在电影《大逃亡》中,史蒂夫·麦奎因在德瑞边境中骑着摩托车风驰电掣,被他裹在纯黑皮夹克之下的阿兰式毛衣从此进入潮流漩涡。和马龙·白兰度、詹姆斯·迪恩一样,麦奎因曾作为年轻人的风格偶像受尽追捧,他那件高领针织衫也成为了继白T恤、机车夹克之后的符号性单品。
在过去,时尚的传导都是自上而下的,男士高领毛衣则反其道而行,从“平民”出身跻身高阶时尚。后来的牛仔裤、法兰绒村衫、派克大衣和工装靴的都是如此。Ermenegildo Zegna和Berluti这种以取悦商务男士为使命的男装让高领针织衫取代衬衫,直接与商务西装搭配,即便没有了严谨的领带,依旧不乏正式感。难怪007詹姆斯·邦德总是用高领针织衫打底,脱下夹克换上西装,就能消失在写字楼中,对于特工来说,变装都方便了。
女士针织衫的审美变革则离不开“针织女王”索尼亚·里基尔。她的“穷男孩”针织衫——高袖窿的罗纹套头衫,重新定义的了针织衫的轮廓。“五月风暴”一边让她的店铺暂停营业,一边让她的设计走出了橱窗。1968年的《Vogue》评论道,索尼亚·里基尔体现了“曲线毕露的、贴身的伟大线条”。那些在过去看来离经叛道的衣服,成了鼓励人们追逐自由的表达。伦敦设计师玛丽·官也是同道中人,她在同一时期忙于制作热裤和迷你裙,让女性不受服装的限制。
索尼亚喜欢让服装跟随身体移动,她在设计中引入大量引入条纹,因为贴身条纹能跟随身体的运动增强视觉效果。与圣罗兰表达性感的方式(透明衬衫配无尾晚礼服)不同,索尼亚的性感来自女性的视角,让人穿着舒适。她的设计比日本设计师更早地运用了极简主义,比比利时设计师更早地想到了空间的反转。在她之后,针织作为一种语言被麦昆用来演绎柔顺和撕裂,被阿莱亚引入高级定制。
如今,新世代的设计师承袭了这种语言。中国设计师Rui Zhou(本届LVMH青年设计师大赛中Karl Lagerfeld Prize得主)让柔软的针织面料呈现出不规则的镂空设计,宣扬无差别的美感;Chet Lo表现的则是怪诞,将极细的半透明鱼线通过3D打印塑造出,身上长满了尖刺,酷似海胆和榴莲的外形,加上霓虹色系透出Y2K 的千禧年复古调。
就像那些总是是画同一主题的画家们,他们一直画,一直画,每一张都是不同的样子。同样是针织衫,在不同的时代的空气里,呈现出截然不同的情绪。
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