#龙泉寺多语种# 2017年7月21日【ご来訪】一昨日、日本黄檗宗の近藤博道管長が京都黄檗宗萬福寺友好訪中団を率いて北京龍泉寺に到着し、中国仏教協会常任副会長の演覚法師と龍泉寺監院の悟光法師が心より歓待しました。訪問団一行は三慧堂、龍泉寺書画展と図書館を見物してから、龍泉寺アニメセンターが製作した賢二くんアニメシリーズの日本語版を鑑賞し、ロボット小僧賢二くんとの会話もしました。
最も厄介な敵は失うものがない人間です。もし君が、みんなが幸せになる世界を築きたいと本気で思うのなら、方法は一つだ。醜さを愛せ。しかし、もし誇りある生き方を取り戻したいのなら。見たくない現実を見なければならない。深い傷を負う覚悟で前に進まなければならない。戦うということはそういうことだ。愚痴なら、墓場で言えばいい。金が全てではない?金なんですよ。あなた方が、相手に一矢報い、意気地を見せつける方法は。奪われたものと、踏みにじられた尊厳にふさわしい対価を...〜いつか、必ず倒します。〜ユーモアとしては100点だ。〜遅れて、申し訳ありません。分け目はなかなか決まらなかったものだ。[微风][微风][微风]
では、今夜の『ダンまち』10巻・11巻振り返り会はここまでです。
今年に入って二回目の振り返り会になりますが、新しく得たものがありました。12巻を読む中、ベル君の覚悟、あえて偽善者となろうという意志についての描写が何度も目に入り、それで気になりました。むしろ気づきました。
実は、『ダンまち』という作品の世界において、人が善であり怪物が悪である、というのが社会の共通認識です。しかし、善悪は簡単に二元論で分けられるものではないと、ベル君は今回のゼノス事件を通して世界のもう一面を知ることになりました。
それによって、ベル君は悩み、もがき、苦しみながらも決断を迫られることになりました。人を取るのか、怪物を取るのか、この両者を天秤にかけてしまいました。
私的には、この両者を天秤にかけた瞬間に、ベル君は迷いを捨てきれなかったということになります。それは、善を貫く心を失ったことと同義です。だからこそ、彼は12巻で当時のことを振り返り、悔やんでいました。同時に、もう二度と迷わないと、天秤にかけないと、異端児たちを守るためならあえて偽善者となろうと、決意を新たにしました。
そして、ここからは、『サクラダリセット』という作品の善に対する定義も混ぜながら、偽善者という言葉をもっと踏み込んで議論してみたいと思います。
前述の通り、『ダンまち』では、人が善であり怪物が悪であると定義されています。故に、人も怪物も、困っているなら、助けを求めているなら、助けようというベル君の行動は偽善と罵られました。しかし、『サクラダリセット』では、メリットもリスクも考えずに無心に困っているものを助けることこそが、善であると。明らかに、ここでおもしろい定義の違いがはっきりと明らかになりました。
私としては、素直に『サクラダリセット』の定義に一票です。人であれ怪物であれ、助けを求めているなら手を差し伸べる決断をし、そのように行動したベル君は、紛れもなく善の体現者です。なので、偽善者と罵倒される謂れなどまったくもってないと、私は思います。
とはいえ、ならばアイズたんの選択——怪物であれば容赦なく殺すという選択が間違っているのでしょうか?私はそうも思えません。ここで、『すかすか』のキャラクターであるレンの言葉を引用したいと思います。
「きっと、誰が悪いわけでも、間違えたわけでもない。みんな、ただ一所懸命なだけ」
まさにその通りではないでしょうか。誰も間違ってはいません。ただただ、自分にとっての正解を選んだだけです。そして、この世には、正解なんて一つではないのです。みんなは、ただそれぞれの正義を貫こうとしただけ、別に誰かが悪いわけでも、間違っているわけでもないのですよ。
本当に、この世界は日笠陽子さんが歌うように、美しくも残酷です。それぞれの決意を、正義を貫けるところが美しい一面であり、それでいて、時に互いの正義が相反し激突してしまうところがなによりも残酷であると思えてなりません。それでも、私は、ベル君が決断してくれたことが何よりも嬉しく思います、本当に。
愚かな選択で、偽善で救われた命もある、愚者であれ、ベル・クラネル!という愚者フェルズの言葉をもって振り返り会の感想を締めくくらせて頂きます。
今年に入って二回目の振り返り会になりますが、新しく得たものがありました。12巻を読む中、ベル君の覚悟、あえて偽善者となろうという意志についての描写が何度も目に入り、それで気になりました。むしろ気づきました。
実は、『ダンまち』という作品の世界において、人が善であり怪物が悪である、というのが社会の共通認識です。しかし、善悪は簡単に二元論で分けられるものではないと、ベル君は今回のゼノス事件を通して世界のもう一面を知ることになりました。
それによって、ベル君は悩み、もがき、苦しみながらも決断を迫られることになりました。人を取るのか、怪物を取るのか、この両者を天秤にかけてしまいました。
私的には、この両者を天秤にかけた瞬間に、ベル君は迷いを捨てきれなかったということになります。それは、善を貫く心を失ったことと同義です。だからこそ、彼は12巻で当時のことを振り返り、悔やんでいました。同時に、もう二度と迷わないと、天秤にかけないと、異端児たちを守るためならあえて偽善者となろうと、決意を新たにしました。
そして、ここからは、『サクラダリセット』という作品の善に対する定義も混ぜながら、偽善者という言葉をもっと踏み込んで議論してみたいと思います。
前述の通り、『ダンまち』では、人が善であり怪物が悪であると定義されています。故に、人も怪物も、困っているなら、助けを求めているなら、助けようというベル君の行動は偽善と罵られました。しかし、『サクラダリセット』では、メリットもリスクも考えずに無心に困っているものを助けることこそが、善であると。明らかに、ここでおもしろい定義の違いがはっきりと明らかになりました。
私としては、素直に『サクラダリセット』の定義に一票です。人であれ怪物であれ、助けを求めているなら手を差し伸べる決断をし、そのように行動したベル君は、紛れもなく善の体現者です。なので、偽善者と罵倒される謂れなどまったくもってないと、私は思います。
とはいえ、ならばアイズたんの選択——怪物であれば容赦なく殺すという選択が間違っているのでしょうか?私はそうも思えません。ここで、『すかすか』のキャラクターであるレンの言葉を引用したいと思います。
「きっと、誰が悪いわけでも、間違えたわけでもない。みんな、ただ一所懸命なだけ」
まさにその通りではないでしょうか。誰も間違ってはいません。ただただ、自分にとっての正解を選んだだけです。そして、この世には、正解なんて一つではないのです。みんなは、ただそれぞれの正義を貫こうとしただけ、別に誰かが悪いわけでも、間違っているわけでもないのですよ。
本当に、この世界は日笠陽子さんが歌うように、美しくも残酷です。それぞれの決意を、正義を貫けるところが美しい一面であり、それでいて、時に互いの正義が相反し激突してしまうところがなによりも残酷であると思えてなりません。それでも、私は、ベル君が決断してくれたことが何よりも嬉しく思います、本当に。
愚かな選択で、偽善で救われた命もある、愚者であれ、ベル・クラネル!という愚者フェルズの言葉をもって振り返り会の感想を締めくくらせて頂きます。
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