搜《明日もし君が壊れても》找到的文章,作者估计只是词作者的粉,应该对牌的角色和剧情并不知情,是一个非常有趣(?)的解读角度。原网址早挂了也找不到作者,只好把原文都贴上来了。节选了一些机翻(强调)[哆啦A梦汗]推荐看原文不被误导((
「明日もし君が壊れても」
これは作者の诗の中で、彼女の作词家としての天才をうかがうことができる最も深い诗のひとつだと思う。しかし、この诗は难解で、正直に言うと、私はなかなか理解できなかった。あまり难しい诗を书いてくれるなという、ファンとし ての率直な気持ちも持った(笑)。
画家はさりげなく配置した小道具に意味をこめる。絵画がそれを読み解くことを要求するように、坂井さんの诗は深く聴くことを要求する。ストレートにわかる诗も多いのだが、何度も聴き、自分でも歌ったりするうち、「あ、そうか」とわかる瞬间が来る、そんな曲もかなりある。つっかえていたものがストンと落ちるときの醍醐味はたまらないものがあるが、ポピュラー音楽としてはハンデになりかねないことをファンとしては危惧しないでもない。
坂井さんの诗の中心的なテーマは「爱」である。そして、爱の様々な、しばしば屈折した相貌(かたち)を纺ぎ出す彼女の诗には、「时间」という重要な脇役が存在する。「时间」は彼女の诗の中に通奏低音のように响いている。「时间(とき)の翼」というZARDのアルバム・タイトルは、过去・现在・未来を自在に翔ける翼という彼女の自己イメージを表しているのかも知れない(なお、「明日もし君が壊れても」はこのアルバムに収录されている。)。
「明日もし君が壊れても」の难解さは、ひとつにはこの诗が単纯にひとつの「时」を表しているのではなく、あたかもドラマのように 「时」の进行を表现していることにあるのだが、それぞれの「时」の転换は言叶では直接示されないので文脉から読み取らなければなら ない。また、「时」の进行を理解したとしても、依然この诗は难解であり、様々な解釈が可能であろう。断るまでもないことだが、以下 はあくまで私の解釈である。
(1)第1幕(冒头から「君の微笑みよ」まで)
第1幕で描かれるのは绝望である。「明日もし君が壊れても」とは、明日もし君が死んでもという意味である。曲の主人公「仆」は、死ぬ べき运命にある「君」を恋してしまい、「深い悲しみ」に沈む。「朝が访れるのを待つだけ」という绝望の中で、「君の微笑み」がかろ うじて愈しを与えてくれる、そんな状况が描かれる。
(2)第2幕(「Lonly heart」から「失う怖さを」まで)
第2幕では运命との葛藤が描かれる。「仆」は恋人の死すべき运命に迷うが、出逢ったころ、「君」が「あの恋を忘れられない」と言って いたのは、何とか自分を谛めさせようとする「本心を隠した表情(かお)」だったのだと知り、彼女の真の爱情に気づく。
CDではこの第2幕の终わりに「G线上のアリア」が(「爱して初めて知った 失う怖さを」の后に)静かに挿入されるのだが、これはレクイエムであろう。つまり、「君」の死がここで暗 示されるのである(なお、私の知る限りでは、小泽征尔は「G线上のアリア」をたびたびレクイエムとして使っている。最近では朝比奈隆 への追悼として。)。
G线上のアリアのmidiはこちら
(このmidiのあるサイトは Respect ZARD と関系ありません)
(3)第3幕(「明日もし君が壊れても 何も见えなくなっても」から最后まで)
最后に描かれるのは、恋人の死を乗り越える爱である。既に绝望も运命との葛藤も消え、「安らかな时の中で仆らは歩き出す」と歌われる。ここで「仆ら」と歌われているので、あたかもハッピーエンドのようにも取れるが、その直后の「君のまぼろしよ」という呼びかけから、「君」は既に死んでいることが明らかになる(「G线上のアリア」がレクイエムであるという理解もここから出てくる。)。つま り、「仆らは歩き出す」とは「仆」の中で「君」は生き続ける、爱し続けるということであり、死を乗り越える强い爱が歌われているの である。それは、江藤淳が「君の生命が绝えても、自分に意识がある限り、君は私の记忆の中に生きつづけて行くのだ」(江藤淳、「妻と私」。なお、Essays on ZARD 「永远という事态」も参照ください。)と死に濒した妻に无言で呼びかけたのと全く同质の深い爱に他ならない。
(4)幕が闭じてから~死せる恋人との会话(2004.8.20追加)
ここまでの文章をアップしてからだいぶ経ったある日のこと、この歌を聴いていてハッとした。この曲の末尾には、歌词カードに书かれていない泉水さんの语りかけが入っている。そのことは知っていたのだが、それまであまり気にとめずにいた。
Call my name
Who are you?
Call my name
独り言のような英语のつぶやきを坂井さんが挿入することはよくあるが、これはそうではない。无声音でありながら、もっとはっきりした呼びかけるような口调だ。そうか! これはこういう意味なんだ。
Who are you (that) call my name?
「私の名を呼ぶのはだれ?」
この言叶は「仆」と「君」のどちらが言っているのだろう?なぜ坂井さんは「无声音」で语りかけているのだろう?・・・そうだ、この时点では「君」は既に死んでいるのだ。ということは、坂井さんは、死者からの応答を「无声音」で表现しようとしたのではないか?
つまり、私の理解では、ここでは「君」は死后の世界から「仆」に対して呼びかけているのだ。歌词カードの最后の、「君のまぼろしよ」という部分は、死んでしまった「君」、しかし「仆」の心の中で生き続ける「君」に対する「仆」の呼びかけであった。それに対して、君が「私の名を呼ぶのはだれ?」と応えているのである。凄まじい迫力のある会话だ。
このように、この诗はとてもドラマチックな内容なのだが、坂井さんはあえて静かな口调で淡々と歌う。それがかえって鸟肌が立つような紧迫感を生み、「G线上のアリア」の効果的な挿入を経て、最后の「君のまぼろしよ」という死せる恋人への呼びかけが强く胸に迫ってくる。その上に无声音による恋人からの応答の表现が重ねられているのだ。
坂井さんの作品で、それまで理解していた内容より更に奥があると気付くことはしばしばである。それが坂井作品の魅力のひとつだとわかっていても、これほどまでに奥の深い作品に接すると、作者の力量にあらためて圧倒されてしまう。言叶を曲に合わせた上、短い诗にしなければならないという制约の中で、奥の深い复雑なドラマを表现する作者の力は天才的としか言いようがないと私は思う。
「明日もし君が壊れても」
これは作者の诗の中で、彼女の作词家としての天才をうかがうことができる最も深い诗のひとつだと思う。しかし、この诗は难解で、正直に言うと、私はなかなか理解できなかった。あまり难しい诗を书いてくれるなという、ファンとし ての率直な気持ちも持った(笑)。
画家はさりげなく配置した小道具に意味をこめる。絵画がそれを読み解くことを要求するように、坂井さんの诗は深く聴くことを要求する。ストレートにわかる诗も多いのだが、何度も聴き、自分でも歌ったりするうち、「あ、そうか」とわかる瞬间が来る、そんな曲もかなりある。つっかえていたものがストンと落ちるときの醍醐味はたまらないものがあるが、ポピュラー音楽としてはハンデになりかねないことをファンとしては危惧しないでもない。
坂井さんの诗の中心的なテーマは「爱」である。そして、爱の様々な、しばしば屈折した相貌(かたち)を纺ぎ出す彼女の诗には、「时间」という重要な脇役が存在する。「时间」は彼女の诗の中に通奏低音のように响いている。「时间(とき)の翼」というZARDのアルバム・タイトルは、过去・现在・未来を自在に翔ける翼という彼女の自己イメージを表しているのかも知れない(なお、「明日もし君が壊れても」はこのアルバムに収录されている。)。
「明日もし君が壊れても」の难解さは、ひとつにはこの诗が単纯にひとつの「时」を表しているのではなく、あたかもドラマのように 「时」の进行を表现していることにあるのだが、それぞれの「时」の転换は言叶では直接示されないので文脉から読み取らなければなら ない。また、「时」の进行を理解したとしても、依然この诗は难解であり、様々な解釈が可能であろう。断るまでもないことだが、以下 はあくまで私の解釈である。
(1)第1幕(冒头から「君の微笑みよ」まで)
第1幕で描かれるのは绝望である。「明日もし君が壊れても」とは、明日もし君が死んでもという意味である。曲の主人公「仆」は、死ぬ べき运命にある「君」を恋してしまい、「深い悲しみ」に沈む。「朝が访れるのを待つだけ」という绝望の中で、「君の微笑み」がかろ うじて愈しを与えてくれる、そんな状况が描かれる。
(2)第2幕(「Lonly heart」から「失う怖さを」まで)
第2幕では运命との葛藤が描かれる。「仆」は恋人の死すべき运命に迷うが、出逢ったころ、「君」が「あの恋を忘れられない」と言って いたのは、何とか自分を谛めさせようとする「本心を隠した表情(かお)」だったのだと知り、彼女の真の爱情に気づく。
CDではこの第2幕の终わりに「G线上のアリア」が(「爱して初めて知った 失う怖さを」の后に)静かに挿入されるのだが、これはレクイエムであろう。つまり、「君」の死がここで暗 示されるのである(なお、私の知る限りでは、小泽征尔は「G线上のアリア」をたびたびレクイエムとして使っている。最近では朝比奈隆 への追悼として。)。
G线上のアリアのmidiはこちら
(このmidiのあるサイトは Respect ZARD と関系ありません)
(3)第3幕(「明日もし君が壊れても 何も见えなくなっても」から最后まで)
最后に描かれるのは、恋人の死を乗り越える爱である。既に绝望も运命との葛藤も消え、「安らかな时の中で仆らは歩き出す」と歌われる。ここで「仆ら」と歌われているので、あたかもハッピーエンドのようにも取れるが、その直后の「君のまぼろしよ」という呼びかけから、「君」は既に死んでいることが明らかになる(「G线上のアリア」がレクイエムであるという理解もここから出てくる。)。つま り、「仆らは歩き出す」とは「仆」の中で「君」は生き続ける、爱し続けるということであり、死を乗り越える强い爱が歌われているの である。それは、江藤淳が「君の生命が绝えても、自分に意识がある限り、君は私の记忆の中に生きつづけて行くのだ」(江藤淳、「妻と私」。なお、Essays on ZARD 「永远という事态」も参照ください。)と死に濒した妻に无言で呼びかけたのと全く同质の深い爱に他ならない。
(4)幕が闭じてから~死せる恋人との会话(2004.8.20追加)
ここまでの文章をアップしてからだいぶ経ったある日のこと、この歌を聴いていてハッとした。この曲の末尾には、歌词カードに书かれていない泉水さんの语りかけが入っている。そのことは知っていたのだが、それまであまり気にとめずにいた。
Call my name
Who are you?
Call my name
独り言のような英语のつぶやきを坂井さんが挿入することはよくあるが、これはそうではない。无声音でありながら、もっとはっきりした呼びかけるような口调だ。そうか! これはこういう意味なんだ。
Who are you (that) call my name?
「私の名を呼ぶのはだれ?」
この言叶は「仆」と「君」のどちらが言っているのだろう?なぜ坂井さんは「无声音」で语りかけているのだろう?・・・そうだ、この时点では「君」は既に死んでいるのだ。ということは、坂井さんは、死者からの応答を「无声音」で表现しようとしたのではないか?
つまり、私の理解では、ここでは「君」は死后の世界から「仆」に対して呼びかけているのだ。歌词カードの最后の、「君のまぼろしよ」という部分は、死んでしまった「君」、しかし「仆」の心の中で生き続ける「君」に対する「仆」の呼びかけであった。それに対して、君が「私の名を呼ぶのはだれ?」と応えているのである。凄まじい迫力のある会话だ。
このように、この诗はとてもドラマチックな内容なのだが、坂井さんはあえて静かな口调で淡々と歌う。それがかえって鸟肌が立つような紧迫感を生み、「G线上のアリア」の効果的な挿入を経て、最后の「君のまぼろしよ」という死せる恋人への呼びかけが强く胸に迫ってくる。その上に无声音による恋人からの応答の表现が重ねられているのだ。
坂井さんの作品で、それまで理解していた内容より更に奥があると気付くことはしばしばである。それが坂井作品の魅力のひとつだとわかっていても、これほどまでに奥の深い作品に接すると、作者の力量にあらためて圧倒されてしまう。言叶を曲に合わせた上、短い诗にしなければならないという制约の中で、奥の深い复雑なドラマを表现する作者の力は天才的としか言いようがないと私は思う。
#萬寶竹林[超话]# 【平常语·甘露味】念佛心真不真,勘验关头,直在欢喜烦恼两处取证,其真假之心,历然可辨。大抵真心念佛人,于欢喜烦恼中,必然念念不间断,是以烦恼也动他不得,欢喜也动他不得。烦恼欢喜既不能动,死生境上自然不惊怖。今人念佛,些小喜怒到前,阿弥陀佛便撇在脑后了,如何能得念佛灵验?若依我念佛,果能于憎爱关头,不昧此句阿弥陀佛,而现在日用不得受用,临终不得生西方,我舌根必然破烂。
能海上师:
僧团应该共同遵守的六条原则
文 :能海上师
和合,
就是团结的意思。
我们能将散沙般的佛徒,
共同团结起来,
组织成一个有典次有精神的僧团,
共同卫护三宝,
使三宝久住于世,
无论出家佛子或在家菩萨,
都一心一志地向三宝上着眼,
打破世间一切门户之见和自私自利之心,
这就叫作和合。
所以这和合的意义,
在我们佛教中是很重要的。
换句话说,
佛教的生命存在与否,
全视我们全部僧伽和合如何。
因为僧伽是住持佛教的,
和合又是住持僧伽的。
( 梵语僧伽,
此云
“ 和合众 ” )
没有和合,
即没有僧伽;
没有僧伽,
即没有佛教,
这是一定的道理。
但是这和合要怎样才能成功呢?
不是空口说空话而能成功的,
也不是但凭着各人的理想而能成功的。
要想和合成功,
就是一面我们全部的僧伽,
须要认识自己的立场:
我们即是代表伟大佛教的人,
全部佛教的责任都在我们肩上,
我们应当怎样的和合,
才能负得起这个伟大的责任哪!
一人是这样想,
多人是这样想,
乃至全部的僧伽都是这样想,
这和合也就可以成功了。
但这还是从一方面说话,
再一方面,
我们在各人的意识上,
还要有一种至诚恳切的慈悲心,
因为慈悲即是和合的基础。
有了这种的基础,
彼此能互相推让,
互相容纳,
才可以讲和合,
所以我说和合须建筑在慈悲心之上。
现在有一部分的僧伽,
明白了自己的立场,
终日谈和合,
终日想和合,
而终日不能和合,
或虽有暂时的和合,
而不能彻底的和合,
就是因为慈悲心太薄的原故。
所以我们现在的僧伽,
要想和合成功,
主要的条件,
还是在至诚恳切的慈悲心。
希望在会的大德,
对于此点特别注意!
和合的别体
和合的大义已明,
我们再来研究和合的别体。
和合的别体是怎么样呢?
依经论上说,
共有六种:
一 、身和:
言身和者,
就是对于各人的身业上,
彼此能和合无乖、
易可共住的意思。
如下座对于上座,
则礼拜问讯、
服劳让道及推座承事等恭敬身业。
上座对下座,
亦有慈祥将护等种种身业。
如是乃至上座对上座,
上座对中座等,
亦各有谦让身业。
如是上中下座的身业,
皆能如法亲近,
不相乖反,
是为身和。
( 具戒十九年以上为上座,
九年以上为中座,
九年以下为下座。)
二 、口和:
言口合者,
就是对于各人的语业上,
彼此互相融洽、
没有争执的意思。
这若细说起来,
如称赞有德、
远离恶语哪,
规谏有过哪,
乃至学问互相教授哪,
犯罪互相忏悔哪,
都是口和所摄的。
三 、意和:
意和,
是对各人的意业而说的。
我们各人的意业上,
彼此能谦和诚实,
出离我见我慢,
不固执个人的意思而违逆众心,
使众心和悦同住,
是名意和。
现在的僧伽,
因意见不和而起的是非,
不知有多少。
上下的意见不和,
故清众与班首闹,
执事与和尚闹;
同寮的意见不和,
故司房与客堂闹,
维那与纠察闹;
学教的意见不和,
故此派与彼派闹,
此宗与彼宗闹。
这么一来,
佛教的是非就多了,
佛教的本身也就有了生命的危险了,
希望大家不要这样办。
四 、戒和:
戒和就是对于世尊所制的净戒,
彼此能依法受持、
同修同学的意思。
所谓依法受持者,
最重要的有其两种:
一 、不杂,
二 、不沉。
不杂,
就是不要参杂自己的意见。
戒经是那样,
就是那样,
好好地如法遵行,
就罢了。
不沉,
就是不要离开戒律的范围之外,
更增加种种的仪式。
因为诸佛的净戒,
唯佛能制,
一切菩萨二乘,
但有承奉而无增减,
况余凡愚。
所以这沉的毛病,
是应当极力改除的。
有了这不杂不沉的条件,
然后能如法布萨,
如法羯磨,
如法安居,
大伙都一心一意地安住净戒海中,
就名戒和。
五 、见和:
见有三种,
一 、正见,
二 、真见,
三 、净见。
正见是对倒见而说的。
世间的人,
对于诸法的实相,
不能如实了知,
而妄起种种的分别。
诸法本来无常,
而妄执为常;
本来是苦,
而妄执为乐;
本来无我,
而妄执为我,
颠倒是非,
不称法体,
故名倒见。
与此相反,
即是正见。
真见,
是对妄见而说的。
世间的一切山河等等,
皆是如梦如幻,
皆是无有真实。
愚人不了,
妄认为真,
是名妄见。
离此妄见,
了达诸法皆空之理,
是名真见,
即契合诸法真理之见地。
净见,
是对染污而说的。
我们随起一见,
若不参杂有贪、
等烦恼,
而与一切诸清净法相应,
是名净见。
这三种的见,
是我们学佛法的人应当切实了解的!
其他的事情,
有时还可随顺世间,
唯有此见不可随顺。
因为世间的见,
都不正的。
我们大家若能都安住于自立的正见,
而不为世间一切的邪见所诱,
是名见和。
六 、利和:
凡有利益的事情,
能如法共分,
乃至粒米同餐,
毫不自私,
是名利和。
以上六和,
是戒律中的戒律,
戒律不可少,
六和尤不可少。
戒律,
就好像和梓人的规矩一样;
六和,
就好像和胶漆一样。
有了规矩,
固然可以成器,
但若再加以胶漆,
则更光美可观、
坚固可用了。
今此亦然,
有了戒律,
固然可以成立僧伽,
但若再加以六和,
则僧之作用更大,
僧之团结愈严了。
所以在世界潮流直转的今日,
能海最希望诸位大德提倡戒律,
尤希望全部僧伽完成六和。
僧团应该共同遵守的六条原则
文 :能海上师
和合,
就是团结的意思。
我们能将散沙般的佛徒,
共同团结起来,
组织成一个有典次有精神的僧团,
共同卫护三宝,
使三宝久住于世,
无论出家佛子或在家菩萨,
都一心一志地向三宝上着眼,
打破世间一切门户之见和自私自利之心,
这就叫作和合。
所以这和合的意义,
在我们佛教中是很重要的。
换句话说,
佛教的生命存在与否,
全视我们全部僧伽和合如何。
因为僧伽是住持佛教的,
和合又是住持僧伽的。
( 梵语僧伽,
此云
“ 和合众 ” )
没有和合,
即没有僧伽;
没有僧伽,
即没有佛教,
这是一定的道理。
但是这和合要怎样才能成功呢?
不是空口说空话而能成功的,
也不是但凭着各人的理想而能成功的。
要想和合成功,
就是一面我们全部的僧伽,
须要认识自己的立场:
我们即是代表伟大佛教的人,
全部佛教的责任都在我们肩上,
我们应当怎样的和合,
才能负得起这个伟大的责任哪!
一人是这样想,
多人是这样想,
乃至全部的僧伽都是这样想,
这和合也就可以成功了。
但这还是从一方面说话,
再一方面,
我们在各人的意识上,
还要有一种至诚恳切的慈悲心,
因为慈悲即是和合的基础。
有了这种的基础,
彼此能互相推让,
互相容纳,
才可以讲和合,
所以我说和合须建筑在慈悲心之上。
现在有一部分的僧伽,
明白了自己的立场,
终日谈和合,
终日想和合,
而终日不能和合,
或虽有暂时的和合,
而不能彻底的和合,
就是因为慈悲心太薄的原故。
所以我们现在的僧伽,
要想和合成功,
主要的条件,
还是在至诚恳切的慈悲心。
希望在会的大德,
对于此点特别注意!
和合的别体
和合的大义已明,
我们再来研究和合的别体。
和合的别体是怎么样呢?
依经论上说,
共有六种:
一 、身和:
言身和者,
就是对于各人的身业上,
彼此能和合无乖、
易可共住的意思。
如下座对于上座,
则礼拜问讯、
服劳让道及推座承事等恭敬身业。
上座对下座,
亦有慈祥将护等种种身业。
如是乃至上座对上座,
上座对中座等,
亦各有谦让身业。
如是上中下座的身业,
皆能如法亲近,
不相乖反,
是为身和。
( 具戒十九年以上为上座,
九年以上为中座,
九年以下为下座。)
二 、口和:
言口合者,
就是对于各人的语业上,
彼此互相融洽、
没有争执的意思。
这若细说起来,
如称赞有德、
远离恶语哪,
规谏有过哪,
乃至学问互相教授哪,
犯罪互相忏悔哪,
都是口和所摄的。
三 、意和:
意和,
是对各人的意业而说的。
我们各人的意业上,
彼此能谦和诚实,
出离我见我慢,
不固执个人的意思而违逆众心,
使众心和悦同住,
是名意和。
现在的僧伽,
因意见不和而起的是非,
不知有多少。
上下的意见不和,
故清众与班首闹,
执事与和尚闹;
同寮的意见不和,
故司房与客堂闹,
维那与纠察闹;
学教的意见不和,
故此派与彼派闹,
此宗与彼宗闹。
这么一来,
佛教的是非就多了,
佛教的本身也就有了生命的危险了,
希望大家不要这样办。
四 、戒和:
戒和就是对于世尊所制的净戒,
彼此能依法受持、
同修同学的意思。
所谓依法受持者,
最重要的有其两种:
一 、不杂,
二 、不沉。
不杂,
就是不要参杂自己的意见。
戒经是那样,
就是那样,
好好地如法遵行,
就罢了。
不沉,
就是不要离开戒律的范围之外,
更增加种种的仪式。
因为诸佛的净戒,
唯佛能制,
一切菩萨二乘,
但有承奉而无增减,
况余凡愚。
所以这沉的毛病,
是应当极力改除的。
有了这不杂不沉的条件,
然后能如法布萨,
如法羯磨,
如法安居,
大伙都一心一意地安住净戒海中,
就名戒和。
五 、见和:
见有三种,
一 、正见,
二 、真见,
三 、净见。
正见是对倒见而说的。
世间的人,
对于诸法的实相,
不能如实了知,
而妄起种种的分别。
诸法本来无常,
而妄执为常;
本来是苦,
而妄执为乐;
本来无我,
而妄执为我,
颠倒是非,
不称法体,
故名倒见。
与此相反,
即是正见。
真见,
是对妄见而说的。
世间的一切山河等等,
皆是如梦如幻,
皆是无有真实。
愚人不了,
妄认为真,
是名妄见。
离此妄见,
了达诸法皆空之理,
是名真见,
即契合诸法真理之见地。
净见,
是对染污而说的。
我们随起一见,
若不参杂有贪、
等烦恼,
而与一切诸清净法相应,
是名净见。
这三种的见,
是我们学佛法的人应当切实了解的!
其他的事情,
有时还可随顺世间,
唯有此见不可随顺。
因为世间的见,
都不正的。
我们大家若能都安住于自立的正见,
而不为世间一切的邪见所诱,
是名见和。
六 、利和:
凡有利益的事情,
能如法共分,
乃至粒米同餐,
毫不自私,
是名利和。
以上六和,
是戒律中的戒律,
戒律不可少,
六和尤不可少。
戒律,
就好像和梓人的规矩一样;
六和,
就好像和胶漆一样。
有了规矩,
固然可以成器,
但若再加以胶漆,
则更光美可观、
坚固可用了。
今此亦然,
有了戒律,
固然可以成立僧伽,
但若再加以六和,
则僧之作用更大,
僧之团结愈严了。
所以在世界潮流直转的今日,
能海最希望诸位大德提倡戒律,
尤希望全部僧伽完成六和。
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