#历史上的今日#
1944年7 月 1 4 日 会 见 中 外 记 者 西 北 参 观 团 成 员 , 美 联 社 、 英 国 《 曼 彻 斯 特 卫 报 》 、 美 国 《 基 督 教 科 学 箴 言 报 》 记 者 斯 坦 因 , 回 答 他 提 出 的 问 题 , 会 见 从 下 午 三 时 持 续 到 十 五 日 凌 晨 三 时 。 关 于 中 国 共 产 党 所 信 仰 的 马 克 思 主 义 的 政 治 思 想 方 法 问 题 , 毛 泽 东 说 : 各 国 的 共 产 党 只 有 一 件 共 同 的 东 西 , 那 就 是 马 克 思 主 义 的 政 治 思 想 方 法 。 中 国 共 产 党 特 别 需 要 严 格 地 把 共 产主 义观 察 、 研 究 、 解 决 社 会 问 题 的 方 法 , 和 新 民 主 主 义 的 实 际 政 策 相 区 别 。 没 有 共 产 主 义 的 思 想 方 法 , 我 们 将 不 能 指 导 中 国 社 会 革 命 的 民 主 阶 段 ; 没 有 新 民 主 主 义 政 治 制 度 , 我 们 就 不 能 把 共 产 主 义 哲 学 正 确 地 适 用 于 中 国 社 会 。 中 国 现 在 所 需 要 的 是 民 主 , 不 是 社 会 主 义 。 关 于 什 么 是 新 民 主 主 义 的 主 要 社 会 经 济 内 容 的 问 题 , 毛 泽 东 说 : 新 民 主 主 义 的 中 心 经 济 特 点 是 土 地 革 命 , 就 是 在 当 前 , 对 日 作 战 是 我 们 的 主 要 任 务 时 , 也 是 如 此 。 农 民 是 我 们 战 争 努 力 的 基 础 。将 来 的 新 民 主 主 义 不 能 建 立 在 分 散 的 落 后 的 农 业 经 济 基 础 上 。 中 国 社 会 的 发 展 主 要 地 要 依 靠 工 业 的 发 展 , 因 此 , 工 业 必 须 是 新 民 主 主 义 的 主 要 基 础 。 只 有 工 业 社 会 才 能 成 为 完 全 民 主 的 社 会 。 但 是 为 了 发 展 工 业 , 土 地 问 题 必 须 首 先 解 决 。 关 于 中 国 共 产 党 的 土 地 革 命 政 策 问 题 , 毛 泽 东 说 : 在 抗 日 战 争 时 期 , 我 们 实 行 减 租 减 息 政 策 , 我 们 的 减 租 政 策 ( 不 是 土 地 没 收 ) 具 有 两 重 利 益 , 一 方 面 改 善 农 民 生 活 , 一 方 面 吸 引 地 主 留 在 乡 村 , 参 加 抗 日 战 争 。 关 于 中 国 共 产 党 战 后 对 中 国 工 商 业 资 本 采 取 的 态 度 问 题 , 毛 泽 东 说 : 中 国 的 私 人 资 本 及 外 国 的 私 人 资 本 , 在 战 后 都 必 须 给 以 宽 大 的 机 会 , 以 便 扩 大 发 展 , 因 为 中 国 需 要 发 展 工 业 。 在 战 后 中 国 与 世 界 的 商 业 关 系 上 , 我 们 要 以 与 一 切 国 家 自 由 平 等 的 贸 易 政 策 来 代 替 日 本 把 中 国 做 为 殖 民 地 的 政 策 。 铁 路 、 矿 山 等 等 能 够 操 纵 国 民 经 济 的 主 要 产 业 , 最 好 由 国 家 经 营 , 其 他 工 业 必 须 由 私 人 资 本 来 发 展 。 为 了 利 用 我 们 在 手 工 业 及 农 村 小 规 模 工 场 手 工 业 方 面 巨 大 的 潜 力 , 我 们 必 须 依 靠 强 大 的 民 主 的 合 作 社 。 关 于 共 产 党 如 何 注 意 听 取 群 众 意 见 的 问 题 , 毛 泽 东 说 : 这 是 重 要 的 一 点 。 假 若 一 个 党 的领 --袖 人 物 真 是 为 广 大 人 民 的 利 益 而 工 作 , 忠 实 地 为 此 而 努 力 着 , 他 们 就 有 听 取 人 民 群 众 意 见 的 许 多 机 会 。 经 过 乡 、 镇 、 区 、 县 的 人 民 会 议 , 经 过 党 员 和 各 阶 层 人 民 的 交 谈 , 经 过 其 他 的 会 议 、 报 纸 和 人 民 的 来 信 , 我 们 能 够 而 且 常 常 发 现 群 众 的 真 正 的 意 见 。 关 于 “ 中 国 第 一 ” 还 是 “ 共 产 党 第 一 ” 的 问 题 , 毛 泽 东 说 : 没 有 中 国 , 就 没 有 中 国 共 产 党 。 你 提 的 问 题 等 于 是 问 是 先 有 孩 子 还 是 先 有 父 亲 , 这 不 是 一 个 理 论 问 题 , 而 是 一 个 实 际 问 题 。 我 们 相 信 马 克 思 主 义 是 正 确 的 思 想 方 法 , 并 不 是 说 我 们 就 忽 略 了 中 国 文 化 遗 产 及 非 马 克 思 主 义 的 思 想 的 价 值 。 接 受 中 国 古 代 思 想 或 外 国 思 想 , 并 不 是 无 条 件 地 接 受 过 来 , 它 们 必 须 和 中 国 实 际 情 形 结 合 , 根 据 实 际 情 形 而 实 行 。 我 们 的 态 度 是 批 判 地 接 受 中 国 历 史 遗 产 和 外 国 思 想 , 盲 目 地 接 受 和 盲 目 地 拒 绝 , 我 们 都 反 对 。 我 们 中 国 人 必 须 以 自 己 的 头 脑 来 思 想 , 并 决 定 什 么 东 西 能 在 中 国 土 地 上 生 长 起 来。
1944年7 月 1 4 日 会 见 中 外 记 者 西 北 参 观 团 成 员 , 美 联 社 、 英 国 《 曼 彻 斯 特 卫 报 》 、 美 国 《 基 督 教 科 学 箴 言 报 》 记 者 斯 坦 因 , 回 答 他 提 出 的 问 题 , 会 见 从 下 午 三 时 持 续 到 十 五 日 凌 晨 三 时 。 关 于 中 国 共 产 党 所 信 仰 的 马 克 思 主 义 的 政 治 思 想 方 法 问 题 , 毛 泽 东 说 : 各 国 的 共 产 党 只 有 一 件 共 同 的 东 西 , 那 就 是 马 克 思 主 义 的 政 治 思 想 方 法 。 中 国 共 产 党 特 别 需 要 严 格 地 把 共 产主 义观 察 、 研 究 、 解 决 社 会 问 题 的 方 法 , 和 新 民 主 主 义 的 实 际 政 策 相 区 别 。 没 有 共 产 主 义 的 思 想 方 法 , 我 们 将 不 能 指 导 中 国 社 会 革 命 的 民 主 阶 段 ; 没 有 新 民 主 主 义 政 治 制 度 , 我 们 就 不 能 把 共 产 主 义 哲 学 正 确 地 适 用 于 中 国 社 会 。 中 国 现 在 所 需 要 的 是 民 主 , 不 是 社 会 主 义 。 关 于 什 么 是 新 民 主 主 义 的 主 要 社 会 经 济 内 容 的 问 题 , 毛 泽 东 说 : 新 民 主 主 义 的 中 心 经 济 特 点 是 土 地 革 命 , 就 是 在 当 前 , 对 日 作 战 是 我 们 的 主 要 任 务 时 , 也 是 如 此 。 农 民 是 我 们 战 争 努 力 的 基 础 。将 来 的 新 民 主 主 义 不 能 建 立 在 分 散 的 落 后 的 农 业 经 济 基 础 上 。 中 国 社 会 的 发 展 主 要 地 要 依 靠 工 业 的 发 展 , 因 此 , 工 业 必 须 是 新 民 主 主 义 的 主 要 基 础 。 只 有 工 业 社 会 才 能 成 为 完 全 民 主 的 社 会 。 但 是 为 了 发 展 工 业 , 土 地 问 题 必 须 首 先 解 决 。 关 于 中 国 共 产 党 的 土 地 革 命 政 策 问 题 , 毛 泽 东 说 : 在 抗 日 战 争 时 期 , 我 们 实 行 减 租 减 息 政 策 , 我 们 的 减 租 政 策 ( 不 是 土 地 没 收 ) 具 有 两 重 利 益 , 一 方 面 改 善 农 民 生 活 , 一 方 面 吸 引 地 主 留 在 乡 村 , 参 加 抗 日 战 争 。 关 于 中 国 共 产 党 战 后 对 中 国 工 商 业 资 本 采 取 的 态 度 问 题 , 毛 泽 东 说 : 中 国 的 私 人 资 本 及 外 国 的 私 人 资 本 , 在 战 后 都 必 须 给 以 宽 大 的 机 会 , 以 便 扩 大 发 展 , 因 为 中 国 需 要 发 展 工 业 。 在 战 后 中 国 与 世 界 的 商 业 关 系 上 , 我 们 要 以 与 一 切 国 家 自 由 平 等 的 贸 易 政 策 来 代 替 日 本 把 中 国 做 为 殖 民 地 的 政 策 。 铁 路 、 矿 山 等 等 能 够 操 纵 国 民 经 济 的 主 要 产 业 , 最 好 由 国 家 经 营 , 其 他 工 业 必 须 由 私 人 资 本 来 发 展 。 为 了 利 用 我 们 在 手 工 业 及 农 村 小 规 模 工 场 手 工 业 方 面 巨 大 的 潜 力 , 我 们 必 须 依 靠 强 大 的 民 主 的 合 作 社 。 关 于 共 产 党 如 何 注 意 听 取 群 众 意 见 的 问 题 , 毛 泽 东 说 : 这 是 重 要 的 一 点 。 假 若 一 个 党 的领 --袖 人 物 真 是 为 广 大 人 民 的 利 益 而 工 作 , 忠 实 地 为 此 而 努 力 着 , 他 们 就 有 听 取 人 民 群 众 意 见 的 许 多 机 会 。 经 过 乡 、 镇 、 区 、 县 的 人 民 会 议 , 经 过 党 员 和 各 阶 层 人 民 的 交 谈 , 经 过 其 他 的 会 议 、 报 纸 和 人 民 的 来 信 , 我 们 能 够 而 且 常 常 发 现 群 众 的 真 正 的 意 见 。 关 于 “ 中 国 第 一 ” 还 是 “ 共 产 党 第 一 ” 的 问 题 , 毛 泽 东 说 : 没 有 中 国 , 就 没 有 中 国 共 产 党 。 你 提 的 问 题 等 于 是 问 是 先 有 孩 子 还 是 先 有 父 亲 , 这 不 是 一 个 理 论 问 题 , 而 是 一 个 实 际 问 题 。 我 们 相 信 马 克 思 主 义 是 正 确 的 思 想 方 法 , 并 不 是 说 我 们 就 忽 略 了 中 国 文 化 遗 产 及 非 马 克 思 主 义 的 思 想 的 价 值 。 接 受 中 国 古 代 思 想 或 外 国 思 想 , 并 不 是 无 条 件 地 接 受 过 来 , 它 们 必 须 和 中 国 实 际 情 形 结 合 , 根 据 实 际 情 形 而 实 行 。 我 们 的 态 度 是 批 判 地 接 受 中 国 历 史 遗 产 和 外 国 思 想 , 盲 目 地 接 受 和 盲 目 地 拒 绝 , 我 们 都 反 对 。 我 们 中 国 人 必 须 以 自 己 的 头 脑 来 思 想 , 并 决 定 什 么 东 西 能 在 中 国 土 地 上 生 长 起 来。
【わたし達はおとな】web MAGAZINE
Ginza
木竜麻生×藤原季節×加藤拓也監督 『わたし達はおとな』にのぞき見る、20代の恋と日常。
──加藤さんとは舞台を含め五度目のタッグとなる藤原さんと、今回初めてのタッグとなる木竜さん。加藤さん脚本、演出についての感想をお伺いできますか?
藤原: 僕が初めて加藤さんの演出する舞台『まゆをひそめて、僕を笑って』(17)に出たのは、23歳くらいのときで、それも恋愛の話だったんです。「好き」を言葉にしない、付き合う約束の一歩前という曖昧な関係の物語で。なので、今回脚本を読ませてもらったときに、「あ、また恋愛きたな」と思いました。30歳近くになった加藤さんと僕のひとつの到達点であり、始まりでもある感じがしたんですよね。
木竜: 私はここまで普段の自分たちが話す会話に近い言葉が文章になって、脚本化されていること自体がすごく新鮮でした。リハーサルも何度もしたんですが、これまで加藤さんと藤原さんが作り上げてきた共通言語や共通理解みたいなものがあって、いい意味でそこに巻き込んでいただいたなと思います。新しい体験ばかりで、面白く感じました。
──確かに、加藤さんの書くセリフは、すごく口語的ですよね。綺麗すぎる言葉に対して、違和感を感じたりすることもあるからなのでしょうか。
加藤: ありません。そういったものに対するカウンターではなくて、台詞やお芝居と思われないものが好みなので、このスタイルになっています。僕の言語感覚で書いているということですね。
──男女どちらの性もフラットに甘やかさずに描かれているのが印象的でした。もちろん、表現する人によりますが、無意識のバイアスから同性のジェンダーに甘くなったり、厳しくなったりしてしまうことは起きなくはないことだと思うので。
加藤: そもそも僕は男性が書いているから、女性が書いているからといって、どちらかの性別をよく見せようという意図が作家にあるとは思ってません。ただ、僕は性別を既に公表しているので、男性が書いた作品というバイアスがかかった状態で観客には届きます。もし僕が性別を隠して活動している人間だったら、女性監督、男性監督という前提なしに見られる立場だったら、どういうふうに捉えられたのかな、とは考えます。
藤原: 俳優である僕は、基本的に人が書いた物語に乗っかるので、もし前衛的な役ならそれを演じますし、旧来的な役だったらそれを演じています。ただ男性、女性というものに対してなるべくフラットに考えたいとは思いつつ、自分の中にジェンダーに対する価値観やバイアスが根強く残っているなというのはけっこう感じていて。それを完全に消すのは難しいかもしれないけれど、ちょっと悩んだりすると加藤さんに相談するんです。目線がすごくフラットですし、人間として先輩だと思ってるんで。
木竜: 自分が今まで生きてきたなかで、女の子とのほうが馴染めることもあれば男の子と話しているほうが楽だったこともありますが、例えば「男性脳」や「女性脳」といった表現を使ってしまう感覚をわかってしまう自分はいるんです。だから、読むものに対しても見るものに対しても、自分の視点には若干偏りがあるなと思います。どうしても自分の基準を通して物を見てしまうというか。ただ、今回加藤さんとご一緒してから、男女や性差についてもう少し距離感を意識して、自分から離してみたり、逆に近づけてみたり、ということをしたいなと思うようになりましたし、考えるきっかけをもらったような気がします。
──加藤さんの脚本や芝居は、エモーショナルな部分で戦うことを求められるので、いつもボロボロになるけれど、本作はいつも以上にボロボロになったと藤原さんがコメントされていましたが、木竜さんはいかがでしたか?
木竜: 撮影が終わった後に藤原さんのコメントを読んで、「確かに!」と思いました。リハーサルの前に、加藤さんから、「今回はどれだけ隠すかだから」というお話があったんです。言いたいけど言わないこと、言わないと決めたことをどれだけ隠すかを考えたときに、言葉に頼ることなく、発しない言葉のその奥で彼女は本当は何を思っていて、どういうことが積み重なっていて、という部分に自分が集中していくんだなということを実感して。氷山の一角しか見えていないんだったら、その覆われた下の部分を見つめることになるんだなと。
──言いたいことを我慢して飲み込むことが内面化している優実を見ていて、こういう子、身近にいるなと思ったんですよね。木竜さんは、ご自身にもそういう部分を見出したりしますか?
木竜: 優実は上手に言いたいことを隠せている気がします。私の場合は顔に出たり、様子が違うと気づかれてしまうことのほうが多いので。以前はそれがすごく嫌だったんですが、もうしょうがないとやっと最近腹をくくれるようになってきました。なので、優実は言わないんだなとか、言わないことに気づかない人を選ぶんだなと感じましたし、もし気づく人がいたらどうやって答えるのか、どういう選択をするのかといったことを想像しました。
──藤原さんが演じる直哉の言葉の選び方も、こういう人いる!というリアリティがあってイライラしました。所属している大学の劇団を「サークル」と呼ばれたら、即「カンパニーね」と言い直したり、あと「わかるわかる」ってすぐ言う感じとか。
藤原: わかるわかる(笑)。
──どんな人でも何かしら我慢をしている部分はあると思うのですが、藤原さんが日々我慢していることはありますか?
藤原: 身近な話でいうと、俳優は食べたいものを食べたりできないじゃないですか。寒さもそうですけど、現場は基本我慢ですよね。辞めたいなと思うときもありますし、何のために我慢してるんだろうって思うときもあるんですけど、公開したくらいのタイミングでその辛さを忘れちゃうんですよね。それで、またやっちゃう(笑)。
──本当の自分が出せない、という我慢もあったり?
藤原: 本当の自分は全開ですね、僕は。
──そんな気がしてました(笑)。舞台でも映像でも、加藤さんの描く人物は、それぞれが何かを我慢しているような印象があるんですよね。
加藤: 登場人物がそれを我慢と認識しているかも場面によって違うと思います。認識して、我慢しようと選択したなら、もう少し違う物語展開になっていくのかもしれない。ストレスを感じないために我慢じゃないものに変換して、その場を凌いでしまっているけれど、それ本当は我慢だよね、というところからちょっとずつ歯車が狂っていくというか、気持ちがズレていくみたいなことを書いている話は多いかもしれません。
──この作品の中で起きていることに対しての距離感や、された側、した側といった立場によっても感想が変わりそうなので、語り合い甲斐があって面白いですよね。笑えるという人もいれば、笑えないという人もいるというか。
加藤: どうなんですかね。僕はフィクションをフィクションとして見てしまうところがありますが、もっと自分に近いものとして感じてしまうと辛かったりするのかもしれないですよね。直哉の変なマウントの取り方に対して、「まだそんなことやってるんだね」という引いた目線で観れると面白かったりするかもしれないですし、反応はさまざまだろうなという気がします。
──大人だけど大人じゃない、ヤングアダルトの時期に優実と直哉がいることから、『わたし達はおとな』というタイトルが付けられたそうですが、何をもって大人であると測るのかはすごく難しいですよね。
加藤: 大人って言葉自体、社会機能が生まれて人間が後からつけた区別なので、体の能力や脳の発達具合で、どこから大人かと線引きをするのはなかなか難しいですけど、この映画でいうと、一人の人間が子どもを宿す、というところで一つ線を引いているとは思います。
藤原: さっき加藤さんが、フィクションをフィクションとして享受する、と言ってましたが、それが大人になるということなのかもしれない。子どものときは、自分がファンタジー映画の主人公だと思って観ているわけじゃないですか。それがいつしか、クオリティ高けぇと俯瞰して観ている自分がいるわけですから。そういう視点の違いがあるのかもしれないですね。
木竜: 年齢を重ねて、出会う人も増えて、親や友達からしてもらうことが減って、逆に自分でできることが増えて、そういうことから大人になってるなと感じることはありますが、私の場合、その揺り戻しも同じだけあるんですよね。まだこんなことでジタバタしていると自分に対して思ったりもするので、それの繰り返しで、自分を大人だと認識できるときは来ないような気がしています。今のところはですけどね。
──邦画や日本のドラマで、避妊しないで性行為をした場合に用いるアフターピルを服用する描写や、ピルを常用している描写を見る機会はあまりなかった気がするのですが、本作では出てきますよね。これはあえて入れているわけではなく、生活の延長線上にあるごく自然な行為として描写されているのでしょうか。
加藤: そうですね。そこに対して、「みなさん、(避妊)大事ですよ」という意識は全くしてないです。
藤原: この間、ある作品を観ていて、ワンナイトラブの描写があったんですよ。流れでそういう関係になっちゃったというお話だったんですが、避妊具は全く映ってなくて。翌朝起きたら、綺麗な朝日が差し込んできて、二人で「おはよう」とか言い合ってるんですけど、観ているこっちは「あれ? 避妊具どうしたんだろう?」って思うじゃないですか。加藤さんは、映されていない部分のやり取りを書く人だから、それが僕は観たいなと思ってます。
──「大事ですよ」という意識はそこになくても、結果的に、セックス・エデュケーションの役割も果たしているなと思いました。女の子たちだけが集まるシーンで性に関してオープンな会話が繰り広げられるのも、同性コミュニティにおけるリアリティを感じさせましたし。
木竜: 私は女子大に行っていたんですけど、そういう会話をするグループと全然しないグループがどちらもあったんですよね。やっぱり、経験が多かったり知っている子の周りにはそういう子が集まるし、集まっているなかで知らない子がいたら、映画に出てくるような会話になるというか。そういう話題に触れたくなくて、朝日が差す描写でいいと思っている子たちももちろんいるので、その時々でグループの空気に合わせていくようなところはあるのかなと。ただ、女の子たちだけのときの会話がなかなかエグくなるというタイミングは現実でも絶対にあるので、そこを加藤さんは逃さずに描いていると思います。
加藤: エグさはないけど、そのようなシーンは1つ丸ごとオールカットになってしまいました。
木竜: 本当はもっといろいろな会話があったんですよね。
藤原: ヤバかったですよ。
木竜: でも実際そんな会話をしたことないのに、できてしまうのはなぜだろう? 面白いと思いながらやってました(笑)。
──実際にいる誰かが言っていた言葉だったりするのかなと想像をしていたのですが、全て加藤さんご自身から出てくるセリフなんですね。
加藤: こういう人いると思ってもらえるといいな、と思いながら書いてます。
Photo:Koichi Tanoue Styling:Momomi Kanda (Kiryu)、Hironori Yagi(Fujiwara) Hair&Make-up:Miki Nushiro (Kiryu)、Motoko Suga(Fujiwara) Text & Edit:Tomoko Ogawa
衣装:(木竜さん)パンツ¥48,500 malamute(ブランドニュース) 靴¥33,000 trippen(トリッペン原宿店) ネックレス¥15,400、イヤリング¥11,000(ともにpetite robe noire) 他スタイリスト私物
衣装:(藤原さん)ジャケット¥31,900、ベスト¥19,800(ともにRANDT) ハイネックニットTシャツ¥20,900、パンツ¥20,900ともにニードルズ(ネペンテス) ブレスレット¥30,800エンド(ギャラリー・オブ・オーセンティック) スニーカー スタイリスト私物
Ginza
木竜麻生×藤原季節×加藤拓也監督 『わたし達はおとな』にのぞき見る、20代の恋と日常。
──加藤さんとは舞台を含め五度目のタッグとなる藤原さんと、今回初めてのタッグとなる木竜さん。加藤さん脚本、演出についての感想をお伺いできますか?
藤原: 僕が初めて加藤さんの演出する舞台『まゆをひそめて、僕を笑って』(17)に出たのは、23歳くらいのときで、それも恋愛の話だったんです。「好き」を言葉にしない、付き合う約束の一歩前という曖昧な関係の物語で。なので、今回脚本を読ませてもらったときに、「あ、また恋愛きたな」と思いました。30歳近くになった加藤さんと僕のひとつの到達点であり、始まりでもある感じがしたんですよね。
木竜: 私はここまで普段の自分たちが話す会話に近い言葉が文章になって、脚本化されていること自体がすごく新鮮でした。リハーサルも何度もしたんですが、これまで加藤さんと藤原さんが作り上げてきた共通言語や共通理解みたいなものがあって、いい意味でそこに巻き込んでいただいたなと思います。新しい体験ばかりで、面白く感じました。
──確かに、加藤さんの書くセリフは、すごく口語的ですよね。綺麗すぎる言葉に対して、違和感を感じたりすることもあるからなのでしょうか。
加藤: ありません。そういったものに対するカウンターではなくて、台詞やお芝居と思われないものが好みなので、このスタイルになっています。僕の言語感覚で書いているということですね。
──男女どちらの性もフラットに甘やかさずに描かれているのが印象的でした。もちろん、表現する人によりますが、無意識のバイアスから同性のジェンダーに甘くなったり、厳しくなったりしてしまうことは起きなくはないことだと思うので。
加藤: そもそも僕は男性が書いているから、女性が書いているからといって、どちらかの性別をよく見せようという意図が作家にあるとは思ってません。ただ、僕は性別を既に公表しているので、男性が書いた作品というバイアスがかかった状態で観客には届きます。もし僕が性別を隠して活動している人間だったら、女性監督、男性監督という前提なしに見られる立場だったら、どういうふうに捉えられたのかな、とは考えます。
藤原: 俳優である僕は、基本的に人が書いた物語に乗っかるので、もし前衛的な役ならそれを演じますし、旧来的な役だったらそれを演じています。ただ男性、女性というものに対してなるべくフラットに考えたいとは思いつつ、自分の中にジェンダーに対する価値観やバイアスが根強く残っているなというのはけっこう感じていて。それを完全に消すのは難しいかもしれないけれど、ちょっと悩んだりすると加藤さんに相談するんです。目線がすごくフラットですし、人間として先輩だと思ってるんで。
木竜: 自分が今まで生きてきたなかで、女の子とのほうが馴染めることもあれば男の子と話しているほうが楽だったこともありますが、例えば「男性脳」や「女性脳」といった表現を使ってしまう感覚をわかってしまう自分はいるんです。だから、読むものに対しても見るものに対しても、自分の視点には若干偏りがあるなと思います。どうしても自分の基準を通して物を見てしまうというか。ただ、今回加藤さんとご一緒してから、男女や性差についてもう少し距離感を意識して、自分から離してみたり、逆に近づけてみたり、ということをしたいなと思うようになりましたし、考えるきっかけをもらったような気がします。
──加藤さんの脚本や芝居は、エモーショナルな部分で戦うことを求められるので、いつもボロボロになるけれど、本作はいつも以上にボロボロになったと藤原さんがコメントされていましたが、木竜さんはいかがでしたか?
木竜: 撮影が終わった後に藤原さんのコメントを読んで、「確かに!」と思いました。リハーサルの前に、加藤さんから、「今回はどれだけ隠すかだから」というお話があったんです。言いたいけど言わないこと、言わないと決めたことをどれだけ隠すかを考えたときに、言葉に頼ることなく、発しない言葉のその奥で彼女は本当は何を思っていて、どういうことが積み重なっていて、という部分に自分が集中していくんだなということを実感して。氷山の一角しか見えていないんだったら、その覆われた下の部分を見つめることになるんだなと。
──言いたいことを我慢して飲み込むことが内面化している優実を見ていて、こういう子、身近にいるなと思ったんですよね。木竜さんは、ご自身にもそういう部分を見出したりしますか?
木竜: 優実は上手に言いたいことを隠せている気がします。私の場合は顔に出たり、様子が違うと気づかれてしまうことのほうが多いので。以前はそれがすごく嫌だったんですが、もうしょうがないとやっと最近腹をくくれるようになってきました。なので、優実は言わないんだなとか、言わないことに気づかない人を選ぶんだなと感じましたし、もし気づく人がいたらどうやって答えるのか、どういう選択をするのかといったことを想像しました。
──藤原さんが演じる直哉の言葉の選び方も、こういう人いる!というリアリティがあってイライラしました。所属している大学の劇団を「サークル」と呼ばれたら、即「カンパニーね」と言い直したり、あと「わかるわかる」ってすぐ言う感じとか。
藤原: わかるわかる(笑)。
──どんな人でも何かしら我慢をしている部分はあると思うのですが、藤原さんが日々我慢していることはありますか?
藤原: 身近な話でいうと、俳優は食べたいものを食べたりできないじゃないですか。寒さもそうですけど、現場は基本我慢ですよね。辞めたいなと思うときもありますし、何のために我慢してるんだろうって思うときもあるんですけど、公開したくらいのタイミングでその辛さを忘れちゃうんですよね。それで、またやっちゃう(笑)。
──本当の自分が出せない、という我慢もあったり?
藤原: 本当の自分は全開ですね、僕は。
──そんな気がしてました(笑)。舞台でも映像でも、加藤さんの描く人物は、それぞれが何かを我慢しているような印象があるんですよね。
加藤: 登場人物がそれを我慢と認識しているかも場面によって違うと思います。認識して、我慢しようと選択したなら、もう少し違う物語展開になっていくのかもしれない。ストレスを感じないために我慢じゃないものに変換して、その場を凌いでしまっているけれど、それ本当は我慢だよね、というところからちょっとずつ歯車が狂っていくというか、気持ちがズレていくみたいなことを書いている話は多いかもしれません。
──この作品の中で起きていることに対しての距離感や、された側、した側といった立場によっても感想が変わりそうなので、語り合い甲斐があって面白いですよね。笑えるという人もいれば、笑えないという人もいるというか。
加藤: どうなんですかね。僕はフィクションをフィクションとして見てしまうところがありますが、もっと自分に近いものとして感じてしまうと辛かったりするのかもしれないですよね。直哉の変なマウントの取り方に対して、「まだそんなことやってるんだね」という引いた目線で観れると面白かったりするかもしれないですし、反応はさまざまだろうなという気がします。
──大人だけど大人じゃない、ヤングアダルトの時期に優実と直哉がいることから、『わたし達はおとな』というタイトルが付けられたそうですが、何をもって大人であると測るのかはすごく難しいですよね。
加藤: 大人って言葉自体、社会機能が生まれて人間が後からつけた区別なので、体の能力や脳の発達具合で、どこから大人かと線引きをするのはなかなか難しいですけど、この映画でいうと、一人の人間が子どもを宿す、というところで一つ線を引いているとは思います。
藤原: さっき加藤さんが、フィクションをフィクションとして享受する、と言ってましたが、それが大人になるということなのかもしれない。子どものときは、自分がファンタジー映画の主人公だと思って観ているわけじゃないですか。それがいつしか、クオリティ高けぇと俯瞰して観ている自分がいるわけですから。そういう視点の違いがあるのかもしれないですね。
木竜: 年齢を重ねて、出会う人も増えて、親や友達からしてもらうことが減って、逆に自分でできることが増えて、そういうことから大人になってるなと感じることはありますが、私の場合、その揺り戻しも同じだけあるんですよね。まだこんなことでジタバタしていると自分に対して思ったりもするので、それの繰り返しで、自分を大人だと認識できるときは来ないような気がしています。今のところはですけどね。
──邦画や日本のドラマで、避妊しないで性行為をした場合に用いるアフターピルを服用する描写や、ピルを常用している描写を見る機会はあまりなかった気がするのですが、本作では出てきますよね。これはあえて入れているわけではなく、生活の延長線上にあるごく自然な行為として描写されているのでしょうか。
加藤: そうですね。そこに対して、「みなさん、(避妊)大事ですよ」という意識は全くしてないです。
藤原: この間、ある作品を観ていて、ワンナイトラブの描写があったんですよ。流れでそういう関係になっちゃったというお話だったんですが、避妊具は全く映ってなくて。翌朝起きたら、綺麗な朝日が差し込んできて、二人で「おはよう」とか言い合ってるんですけど、観ているこっちは「あれ? 避妊具どうしたんだろう?」って思うじゃないですか。加藤さんは、映されていない部分のやり取りを書く人だから、それが僕は観たいなと思ってます。
──「大事ですよ」という意識はそこになくても、結果的に、セックス・エデュケーションの役割も果たしているなと思いました。女の子たちだけが集まるシーンで性に関してオープンな会話が繰り広げられるのも、同性コミュニティにおけるリアリティを感じさせましたし。
木竜: 私は女子大に行っていたんですけど、そういう会話をするグループと全然しないグループがどちらもあったんですよね。やっぱり、経験が多かったり知っている子の周りにはそういう子が集まるし、集まっているなかで知らない子がいたら、映画に出てくるような会話になるというか。そういう話題に触れたくなくて、朝日が差す描写でいいと思っている子たちももちろんいるので、その時々でグループの空気に合わせていくようなところはあるのかなと。ただ、女の子たちだけのときの会話がなかなかエグくなるというタイミングは現実でも絶対にあるので、そこを加藤さんは逃さずに描いていると思います。
加藤: エグさはないけど、そのようなシーンは1つ丸ごとオールカットになってしまいました。
木竜: 本当はもっといろいろな会話があったんですよね。
藤原: ヤバかったですよ。
木竜: でも実際そんな会話をしたことないのに、できてしまうのはなぜだろう? 面白いと思いながらやってました(笑)。
──実際にいる誰かが言っていた言葉だったりするのかなと想像をしていたのですが、全て加藤さんご自身から出てくるセリフなんですね。
加藤: こういう人いると思ってもらえるといいな、と思いながら書いてます。
Photo:Koichi Tanoue Styling:Momomi Kanda (Kiryu)、Hironori Yagi(Fujiwara) Hair&Make-up:Miki Nushiro (Kiryu)、Motoko Suga(Fujiwara) Text & Edit:Tomoko Ogawa
衣装:(木竜さん)パンツ¥48,500 malamute(ブランドニュース) 靴¥33,000 trippen(トリッペン原宿店) ネックレス¥15,400、イヤリング¥11,000(ともにpetite robe noire) 他スタイリスト私物
衣装:(藤原さん)ジャケット¥31,900、ベスト¥19,800(ともにRANDT) ハイネックニットTシャツ¥20,900、パンツ¥20,900ともにニードルズ(ネペンテス) ブレスレット¥30,800エンド(ギャラリー・オブ・オーセンティック) スニーカー スタイリスト私物
【わたし達はおとな】
インタビュー:藤原季節と木竜麻生「1割が嫌う」かつてない恋愛映画 「わたし達はおとな」
「新たな恋愛映画」とは使い古された言葉だが、あえてそう言う。演劇界で今、最も注目を浴びている若手劇作家・演出家、加藤拓也のオリジナル脚本による長編映画監督デビュー作。生々しさと切迫感、リアリズムに徹した描写力に息をのむ。「菊とギロチン」の木竜麻生と「空白」の藤原季節と、若手実力派俳優2人が恋愛の危うさを体現。これまでの恋愛映画の限界をやすやすと超えた。
同せい中の大学生、妊娠が発覚して……
優実(木竜麻生)はデザインを学んでいる大学生。知人の演劇サークルのチラシ作りをきっかけに知り合った直哉(藤原季節)という恋人がいて、2人は半ば一緒に暮らしている。ある日、優実は自分が妊娠していることに気づくが、父親が直哉だと確信できずにいた。その事実を打ち明けられた直哉は現実を受け入れようとするが、2人の関係はしだいにきしみ、やがて崩れていく。
木竜が脚本を読んだときに感じたのは「知っている人がいっぱい(脚本の中に)いる。こういう人たちを知っている」という感覚だ。「セリフが、最初から最後までずっと面白い。こういう会話をさせるんだ」と感心し、できあがった作品を見て「良さが一段と際立っている。(セリフに)匂いがする」と独特の言葉で表現した。
藤原は23歳で加藤に出会ってから、作・演出の舞台の常連だが「初の長編映画が恋愛なんだー」と思ったという。加藤はこれまでの作品でも「父親や母親という呼び名が付く人たちの〝一つ前〟をずっと描いている」と説明する。
リハーサルにカメラも入れてしっかり時間をかける手法も加藤流で、現場に入ったら撮影は「一瞬で終わるほど」と2人は口をそろえる。アドリブはなし。「加藤さんは描きたいものを100%自分で決めているので、俳優に選択肢を与えることはほとんどない。現場で監督と話すことはわずか」と藤原が言えば、加藤演出は初めての木竜も「相手に集中するとか、役者本来のことをすれば帳尻が合う」と次第に慣れていった。
「この作品は、いつもとちがう」
優実から妊娠を告げられた直哉は、現実を理解したように取り繕うが本音は異なる。多くの女性は直哉の言葉や向き合い方に嫌悪感を募らせるだろう。
「自分たちの臆病さからあいまいな関係性を持続する、という人は多いかもしれない。ただ、役者としては女性から『何て男なのか』と大いに言われたい」と藤原は役柄に徹している。木竜も「分かることも分からないことも、どっちも面白い。100人見て100人面白いものより、10人は嫌い、という方が豊かだと思う」
藤原の役へのスタンスが個性的だ。「(役を)理解できないとテンションが上がるし、キャラクターとか十分に解釈できなくてもそのまま演じてしまう。演じながら少し理解する時もある」。不安はあるが「『分からないものは分からないままのほうがいい』というセリフが過去の加藤作品にあった。ある意味、理解しないまま現場に立つことを許容するようにしている。理解してもなお不安。フリをするのも怖いし、書かれてあることをまず言ってみる」と明快だ。
木竜の本作でのアプローチは「どうして今こういう流れになっているか、この脚本はそれがちゃんと落ちてくる」。2人は声をそろえるように語った。「この作品は、いつも(の作品)と違う」
あいまいな関係性が今っぽい
今の若者の多彩な面が矢継ぎ早に描かれているのも魅力の一つだ。藤原が解説してくれた。
「2人があいまいな関係に逃げ込んでしまうのは、あまり言いたくないが、今っぽい。他者への責任を恐れて、人と深く関わらない人は実際に多い。誰かと深く関わることは、本音で話したり傷つけ合ったりすること。でも、本音をぶちまける場所は、匿名のネットなどたくさんある。デモに行かなくても戦争反対の声はあげられるように。友人といても本音で話さなくていいし、意見のぶつかり合いも避けようとする」。恋愛もストレートに「僕とお付き合いしてください」と言わず、「あいまいに続けていくこともできる」。
優実と3人の女友達の関係性もそれに近い。「優実は話すことを1回のみこんでから言葉を発する。本音を言わずに話を合わせたほうが楽」と木竜も理解する。彼ら、彼女らの〝今っぽい〟距離感が垣間見える。「それでも連絡が来たらうれしいし、デートの約束にそわそわする」と木竜が口にすると、「だから、みんなメチャクチャさみしいんだと思う」と藤原が続ける。木竜もすかさず「その通り」と応じた。
優実と直哉は避妊についての会話もする。「コンドームをつける」とか「ピルを飲む」といった言葉も普通に出てくる。木竜が言う。「一瞬ドキッとするかもしれないが、そうした事実をちゃんと分かるように描いている」。脚本からは、大人になりきれない男女に対して、性についてきちんと向き合うべきだという主張が伝わってくる。
見る側、演じる側 双方に集中力
終盤の2人の演技は格闘技のような迫力だ。それでいて、別れる間際の駆け引きをする男女の会話が、リアリティーを持って、だらだらぐだぐだとスクリーンからあふれてくる。一連のやりとりは本作の白眉(はくび)だ。木竜は「カメラがあったことを覚えていない」と言い、藤原も「存在すら全く忘れていた。そんな状態になるのはめったにない」と語った。
「見る側も集中力がいる作品」と藤原が言えば、「演じる側の私も集中力が必要だった」と木竜。藤原は撮影を振り返って「青春ができる職業って最高です」と満足げに言い放った。ただ、今回は「役に入り込んでいいのは木竜さんで、僕は客観的にシーンを見ていることがあった。僕は入り込む役割ではない。意識的に半分は役に入り込んで、半分は冷静だった」。
木竜が反応する。「藤原さんは今まで共演したことのない(タイプの)役者さん。冷静さや距離感に、こっちが引いてしまうことがない。芝居の流れに乗っかっているのは、絶えず感じられる。初めて共演させてもらって体感した」。「ほめ言葉です」とにやり。
藤原が呼応する。「ラストの優実がご飯を食べているシーンとか、木竜さんは繊細さと強さを併せ持っている。優実が生きていこうとする姿がきっちり映っていた。これまでの作品もすごかったけど、今回さらにすごい。稀有(けう)な女優さんだ」
東京・新宿武蔵野館ほかで公開。
インタビュー:藤原季節と木竜麻生「1割が嫌う」かつてない恋愛映画 「わたし達はおとな」
「新たな恋愛映画」とは使い古された言葉だが、あえてそう言う。演劇界で今、最も注目を浴びている若手劇作家・演出家、加藤拓也のオリジナル脚本による長編映画監督デビュー作。生々しさと切迫感、リアリズムに徹した描写力に息をのむ。「菊とギロチン」の木竜麻生と「空白」の藤原季節と、若手実力派俳優2人が恋愛の危うさを体現。これまでの恋愛映画の限界をやすやすと超えた。
同せい中の大学生、妊娠が発覚して……
優実(木竜麻生)はデザインを学んでいる大学生。知人の演劇サークルのチラシ作りをきっかけに知り合った直哉(藤原季節)という恋人がいて、2人は半ば一緒に暮らしている。ある日、優実は自分が妊娠していることに気づくが、父親が直哉だと確信できずにいた。その事実を打ち明けられた直哉は現実を受け入れようとするが、2人の関係はしだいにきしみ、やがて崩れていく。
木竜が脚本を読んだときに感じたのは「知っている人がいっぱい(脚本の中に)いる。こういう人たちを知っている」という感覚だ。「セリフが、最初から最後までずっと面白い。こういう会話をさせるんだ」と感心し、できあがった作品を見て「良さが一段と際立っている。(セリフに)匂いがする」と独特の言葉で表現した。
藤原は23歳で加藤に出会ってから、作・演出の舞台の常連だが「初の長編映画が恋愛なんだー」と思ったという。加藤はこれまでの作品でも「父親や母親という呼び名が付く人たちの〝一つ前〟をずっと描いている」と説明する。
リハーサルにカメラも入れてしっかり時間をかける手法も加藤流で、現場に入ったら撮影は「一瞬で終わるほど」と2人は口をそろえる。アドリブはなし。「加藤さんは描きたいものを100%自分で決めているので、俳優に選択肢を与えることはほとんどない。現場で監督と話すことはわずか」と藤原が言えば、加藤演出は初めての木竜も「相手に集中するとか、役者本来のことをすれば帳尻が合う」と次第に慣れていった。
「この作品は、いつもとちがう」
優実から妊娠を告げられた直哉は、現実を理解したように取り繕うが本音は異なる。多くの女性は直哉の言葉や向き合い方に嫌悪感を募らせるだろう。
「自分たちの臆病さからあいまいな関係性を持続する、という人は多いかもしれない。ただ、役者としては女性から『何て男なのか』と大いに言われたい」と藤原は役柄に徹している。木竜も「分かることも分からないことも、どっちも面白い。100人見て100人面白いものより、10人は嫌い、という方が豊かだと思う」
藤原の役へのスタンスが個性的だ。「(役を)理解できないとテンションが上がるし、キャラクターとか十分に解釈できなくてもそのまま演じてしまう。演じながら少し理解する時もある」。不安はあるが「『分からないものは分からないままのほうがいい』というセリフが過去の加藤作品にあった。ある意味、理解しないまま現場に立つことを許容するようにしている。理解してもなお不安。フリをするのも怖いし、書かれてあることをまず言ってみる」と明快だ。
木竜の本作でのアプローチは「どうして今こういう流れになっているか、この脚本はそれがちゃんと落ちてくる」。2人は声をそろえるように語った。「この作品は、いつも(の作品)と違う」
あいまいな関係性が今っぽい
今の若者の多彩な面が矢継ぎ早に描かれているのも魅力の一つだ。藤原が解説してくれた。
「2人があいまいな関係に逃げ込んでしまうのは、あまり言いたくないが、今っぽい。他者への責任を恐れて、人と深く関わらない人は実際に多い。誰かと深く関わることは、本音で話したり傷つけ合ったりすること。でも、本音をぶちまける場所は、匿名のネットなどたくさんある。デモに行かなくても戦争反対の声はあげられるように。友人といても本音で話さなくていいし、意見のぶつかり合いも避けようとする」。恋愛もストレートに「僕とお付き合いしてください」と言わず、「あいまいに続けていくこともできる」。
優実と3人の女友達の関係性もそれに近い。「優実は話すことを1回のみこんでから言葉を発する。本音を言わずに話を合わせたほうが楽」と木竜も理解する。彼ら、彼女らの〝今っぽい〟距離感が垣間見える。「それでも連絡が来たらうれしいし、デートの約束にそわそわする」と木竜が口にすると、「だから、みんなメチャクチャさみしいんだと思う」と藤原が続ける。木竜もすかさず「その通り」と応じた。
優実と直哉は避妊についての会話もする。「コンドームをつける」とか「ピルを飲む」といった言葉も普通に出てくる。木竜が言う。「一瞬ドキッとするかもしれないが、そうした事実をちゃんと分かるように描いている」。脚本からは、大人になりきれない男女に対して、性についてきちんと向き合うべきだという主張が伝わってくる。
見る側、演じる側 双方に集中力
終盤の2人の演技は格闘技のような迫力だ。それでいて、別れる間際の駆け引きをする男女の会話が、リアリティーを持って、だらだらぐだぐだとスクリーンからあふれてくる。一連のやりとりは本作の白眉(はくび)だ。木竜は「カメラがあったことを覚えていない」と言い、藤原も「存在すら全く忘れていた。そんな状態になるのはめったにない」と語った。
「見る側も集中力がいる作品」と藤原が言えば、「演じる側の私も集中力が必要だった」と木竜。藤原は撮影を振り返って「青春ができる職業って最高です」と満足げに言い放った。ただ、今回は「役に入り込んでいいのは木竜さんで、僕は客観的にシーンを見ていることがあった。僕は入り込む役割ではない。意識的に半分は役に入り込んで、半分は冷静だった」。
木竜が反応する。「藤原さんは今まで共演したことのない(タイプの)役者さん。冷静さや距離感に、こっちが引いてしまうことがない。芝居の流れに乗っかっているのは、絶えず感じられる。初めて共演させてもらって体感した」。「ほめ言葉です」とにやり。
藤原が呼応する。「ラストの優実がご飯を食べているシーンとか、木竜さんは繊細さと強さを併せ持っている。優実が生きていこうとする姿がきっちり映っていた。これまでの作品もすごかったけど、今回さらにすごい。稀有(けう)な女優さんだ」
東京・新宿武蔵野館ほかで公開。
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