末法時代の衆生は往々にしていいかげんに持戒しているが、不持戒よりはましだ。菩薩戒を授けられた念仏者であるということを忘れずに、その持戒の功徳を西方極楽世界に回向して、往生の資糧とする心構えが必要である。「今日戒律を破ってしまった、明日も破るかもしれない、きっと地獄に堕ちてしまう」などという本末転倒の思い込みをすべきでない。毎日そうすると、本当に堕ちてしまうかも知れない。一切の法は、心の想いによって生じるものだ。
『論語』には「仁に里(お)るを、美(よ)しと為す。択んで仁に処(よ)らずんば、焉んぞ知なることを得ん」という。即ち、孔子は住居を選ぶ場合、仁者や君子の住んでいる所を選ぶほうが一番良いと強調なさっている。若し仁徳のない人を隣人とするならば、如何にして智慧があると言えようか?世間での住居選びに際してさえ、「仁に里るを、美しと為す」の必要があるのに、ましてや来世に住むためによい場所を選ぼうとすれば、なおさら注意が必要である。故に、極楽世界を来世の最適な居場所と定めるのは最良の選択なのである。
仏法は心法である。心法というものについて言えば、つまり、我々現前における一念心の体性は、十方三世一切諸仏と平等・不二であり、この平等・不二の心性の中に、具足している能覚の智慧が心法であり、これこそが即ち、自性の仏宝なのである。一方、「所覚法性」の理というものが、原則・規範・道徳・良知などに相当するものである。
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