「抗原検査キット」 需要増で入手困難なケースも
試薬不足 学校などでの濃厚接触者検査を当面見合わせ 名古屋
2022年1月24日 18時57分
新型コロナウイルスの感染の急拡大で需要が高まる抗原検査。薬局や診療所の中には、短時間で結果が分かる「抗原検査キット」が不足するところも出てきています。
こうした中、検査キットのメーカーは、国からの増産の要請を受けて、夜間も操業するなど生産体制を強化しています。
検査キットの不足に直面している現場はどのような状況に置かれているのか。そして政府やメーカーの対応は。
東京 中央区にある薬局では、去年の秋以降、医療用の抗原検査キットを販売しています。
抗原検査キットはその場で15分から30分ほどで結果が分かるのが特徴で、この薬局では、感染が拡大した今月中旬ごろから買い求める人が増え始め、ことしに入ってからおよそ30回分を販売したということです。
しかし、先週半ば以降、業者に追加の注文をしても確保できない状態になっていて、24日の時点でも今後の入荷の見通しは立っていないということです。
薬局では24日も朝から抗原検査キットの購入を求める電話が相次いでいて、対応したスタッフが現状を説明していました。
越前堀薬局の薬剤師の犬伏洋夫さんは「自分も感染しているのではないかという不安がかなり強いのではないかと思います。不安を払拭(ふっしょく)するための検査もしてもらいたいという思いもありますが、この状況では本当に必要な人のところに検査キットが回らないのではないかと不安に思っています。私たちも適切に説明をして、本当に必要な方に行き渡るようにしたいです」と話しています。
【診療所でも底をつく状況が】
千葉市の診療所でも、キットが底をつく状況が起きています。
千葉市稲毛区にある診療所の発熱外来では抗原検査を行って、患者の治療方針などを決めています。
この診療所では、先週はじめの時点で400人分の抗原検査キットを用意していましたが、先週半ばから患者が急増し、23日は100人余りの患者が訪れたため、患者が70人を超えたところで検査キットがなくなったということです。
残りの30人余りについては採取した検体を民間のPCR検査に回し、1日から2日の間、結果を待ってもらっています。
24日朝、以前から注文していた200人分の抗原検査キットが届きましたが、今後の供給のめどは立っておらず、このままのペースだと2日で足りなくなる見込みだということです。
24日も午前中だけで59人に検査し、20人が陽性だったということで、診療所の河内文雄医師は「PCR検査では結果が出るのに時間がかかり、その間に感染を拡散させるおそれがあるし、治療が難しくなることもある。正直とても不安ですが多くの患者が来るので対応せざるをえない」と話していました。
名古屋市は、PCR検査の試薬が不足し始めているとして、学校や事業所などで新型コロナウイルスの感染者が出た場合に行っていた濃厚接触者の検査を当面見合わせると発表しました。
市は濃厚接触者と疑われ症状が出ていない場合は自宅に待機して様子を見るよう呼びかけています。
名古屋市は、新型コロナウイルスへの対応について24日午後、緊急の記者会見を開き、PCR検査の試薬や抗原検査キットが不足し始めているとして、学校や事業所などで感染者が出た場合に行っていた濃厚接触者のスクリーニング検査を当面見合わせると発表しました。
この中で、名古屋市健康福祉局の浅井清文医監は「検査試薬がしっかりあれば濃厚接触者で無症状の人も検査するのが理想だが現実はそうはいかない。無症状の人はなるべく自宅で待機し、資源を症状がある人に振り向けてほしい」と述べ、濃厚接触者と疑われる場合でも症状が出ていなければ検査を控えるよう協力を求めました。
そのうえで、そうした人に対し感染者と最後に接触した日から10日間は自宅に待機して外出を自粛し、症状が出た場合には医療機関に連絡して受診するよう呼びかけました。
市ではこうした措置により、重症化のリスクが高い基礎疾患のある人や高齢者などへの検査態勢を確保したいとしています。
試薬不足 学校などでの濃厚接触者検査を当面見合わせ 名古屋
2022年1月24日 18時57分
新型コロナウイルスの感染の急拡大で需要が高まる抗原検査。薬局や診療所の中には、短時間で結果が分かる「抗原検査キット」が不足するところも出てきています。
こうした中、検査キットのメーカーは、国からの増産の要請を受けて、夜間も操業するなど生産体制を強化しています。
検査キットの不足に直面している現場はどのような状況に置かれているのか。そして政府やメーカーの対応は。
東京 中央区にある薬局では、去年の秋以降、医療用の抗原検査キットを販売しています。
抗原検査キットはその場で15分から30分ほどで結果が分かるのが特徴で、この薬局では、感染が拡大した今月中旬ごろから買い求める人が増え始め、ことしに入ってからおよそ30回分を販売したということです。
しかし、先週半ば以降、業者に追加の注文をしても確保できない状態になっていて、24日の時点でも今後の入荷の見通しは立っていないということです。
薬局では24日も朝から抗原検査キットの購入を求める電話が相次いでいて、対応したスタッフが現状を説明していました。
越前堀薬局の薬剤師の犬伏洋夫さんは「自分も感染しているのではないかという不安がかなり強いのではないかと思います。不安を払拭(ふっしょく)するための検査もしてもらいたいという思いもありますが、この状況では本当に必要な人のところに検査キットが回らないのではないかと不安に思っています。私たちも適切に説明をして、本当に必要な方に行き渡るようにしたいです」と話しています。
【診療所でも底をつく状況が】
千葉市の診療所でも、キットが底をつく状況が起きています。
千葉市稲毛区にある診療所の発熱外来では抗原検査を行って、患者の治療方針などを決めています。
この診療所では、先週はじめの時点で400人分の抗原検査キットを用意していましたが、先週半ばから患者が急増し、23日は100人余りの患者が訪れたため、患者が70人を超えたところで検査キットがなくなったということです。
残りの30人余りについては採取した検体を民間のPCR検査に回し、1日から2日の間、結果を待ってもらっています。
24日朝、以前から注文していた200人分の抗原検査キットが届きましたが、今後の供給のめどは立っておらず、このままのペースだと2日で足りなくなる見込みだということです。
24日も午前中だけで59人に検査し、20人が陽性だったということで、診療所の河内文雄医師は「PCR検査では結果が出るのに時間がかかり、その間に感染を拡散させるおそれがあるし、治療が難しくなることもある。正直とても不安ですが多くの患者が来るので対応せざるをえない」と話していました。
名古屋市は、PCR検査の試薬が不足し始めているとして、学校や事業所などで新型コロナウイルスの感染者が出た場合に行っていた濃厚接触者の検査を当面見合わせると発表しました。
市は濃厚接触者と疑われ症状が出ていない場合は自宅に待機して様子を見るよう呼びかけています。
名古屋市は、新型コロナウイルスへの対応について24日午後、緊急の記者会見を開き、PCR検査の試薬や抗原検査キットが不足し始めているとして、学校や事業所などで感染者が出た場合に行っていた濃厚接触者のスクリーニング検査を当面見合わせると発表しました。
この中で、名古屋市健康福祉局の浅井清文医監は「検査試薬がしっかりあれば濃厚接触者で無症状の人も検査するのが理想だが現実はそうはいかない。無症状の人はなるべく自宅で待機し、資源を症状がある人に振り向けてほしい」と述べ、濃厚接触者と疑われる場合でも症状が出ていなければ検査を控えるよう協力を求めました。
そのうえで、そうした人に対し感染者と最後に接触した日から10日間は自宅に待機して外出を自粛し、症状が出た場合には医療機関に連絡して受診するよう呼びかけました。
市ではこうした措置により、重症化のリスクが高い基礎疾患のある人や高齢者などへの検査態勢を確保したいとしています。
《五灯会元·卷第十二》南岳下十世◎汾阳昭禅师法嗣○潭州石霜楚圆慈明禅师(一)
全州李氏子。少为书生,年二十二,依湘山隐静寺出家。其母有贤行,使之游方。闻汾阳道望,遂往谒焉。阳顾而默器之。经二年,未许入室。每见必骂诟,或毁诋诸方,及有所训,皆流俗鄙事。一夕诉曰:“自至法席已再夏,不蒙指示,但增世俗尘劳,念岁月飘忽,己事不明,失出家之利。”语未卒,阳熟视,骂曰:“是恶知识,敢裨贩我!”怒举杖逐之。师拟伸救,阳掩师口,乃大悟曰:“是知临济道出常情。”
服役七年,辞去,依唐明嵩禅师。嵩谓师曰:“杨大年内翰知见高,入道稳实,子不可不见。”师乃往见大年。年问曰:“对面不相识,千里却同风。”师曰:“近奉山门请。”年曰:“真个脱空。”师曰:“前月离唐明。”年曰:“适来悔相问。”师曰:“作家。”年便喝。师曰:“恰是。”年复喝。师以手划一划。年吐舌曰:“真是龙象。”师曰:“是何言欤?”年唤客司:“点茶来,元来是屋里人。”师曰:“也不消得。”茶罢又问:“如何是上座为人一句?”师曰:“切。”年曰:“与么,则长裙新妇拖泥走。”师曰:“谁得似内翰?”年曰:“作家,作家。”师曰:“放你二十棒。”年拊膝曰:“这里是甚么所在?”师拍掌曰:“也不得放过。”年大笑。又问:“记得唐明当时悟底因缘么?”师曰:“唐明问首山:‘如何是佛法的的大意?’山曰:‘楚王城畔,汝水东流。‘”年曰:“祇如此语,意旨如何?”师曰:“水上挂灯毬。”年曰:“与么则孤负古人去也。”师曰:“内翰疑则别参。”年曰:“三脚虾蟆跳上天。”师曰:“一任跳。”年乃大笑,馆于斋中,日夕质疑智证,因闻前言往行,恨见之晚。
朝中见驸马都尉李公遵勖曰:“近得一道人,真西河师子。”李曰:“我以拘文,不能就谒,奈何?”年默然。归语师曰:“李公佛法中人,闻道风远至,有愿见之心,政以法不得与侍从过从。”师于是迟明谒李公。公阅谒使童子问曰:“道得即与上座相见。”师曰:“今日特来相看。”又令童子曰:“碑文刊白字,当道种青松。”师曰:“不因今日节,余日定难逢。”童又出曰:“都尉言,与么则与上座相见去也?”师曰:“脚头脚底。”公乃出。坐定问曰:“我闻西河有金毛狮子,是否?”师曰:“甚么处得者消息?”公便喝。师曰:“野干鸣。”公又喝。师曰:“恰是。”公大笑。师辞。公问:“如何是上座临行一句?”师曰:“好将息。”公曰:“何异诸方?”师曰:“都尉又作么生?”公曰:“放上座二十棒。”师曰:“专为流通。”公又喝。师曰:“瞎。”公曰:“好去。”师应喏喏。自是往来杨李之门,以法为友。
久之,辞还河东。年曰:“有一语寄与唐明,得么?”师曰:“明月照见夜行人。”年曰:“却不相当。”师曰:“更深犹自可,午后更愁人。”年曰:“开宝寺前金刚,近日因甚么汗出?”师曰:“知。”年曰:“上座临行,岂无为人底句?”师曰:“重叠关山路。”年曰:“与么则随上座去也。”师嘘一声。年曰:“真师子儿,大师子吼。”师曰:“放去又收来。”年曰:“适来失脚踏倒,又得家童扶起。”师曰:“有甚么了期?”年大笑。
师还唐明。李公遣两僧讯师,师于书尾画双足,写来僧名以寄之。公作偈曰:“黑毫千里余,金椁示双趺。人天浑莫测,珍重赤须胡。”
师以母老,南归至瑞州,首众于洞山,时聪禅师居焉。先是,汾阳谓师曰:“我遍参云门儿孙,特以未见聪为恨。”故师依止三年,乃游仰山。
杨大年以书抵宜春太守黄宗旦,使请师出世说法。守以南源致师,师不赴,旋特谒守愿行。守问其故,对曰:“始为让,今偶欲之耳。”守大贤之。
住后。上堂:“一切诸佛、及诸佛阿耨多罗三藐三菩提法,皆从此经出。”乃竖起拄杖曰:“这个是南源拄杖子,阿那个是经?”良久曰:“向下文长,付在来日。”喝一喝,下座。
上堂。良久曰:“无为无事人,犹是金锁难。”喝一喝,下座。问:“如何是佛?”师曰:“水出高原。”问:“如何是南源境。”师曰:“黄河九曲,水出昆仑。”曰:“如何是境中人。”师曰:“随流人不顾,斫手望扶桑。”
上堂:“云收雾卷,杲日当空。不落明暗,如何通信?”僧问:“山深觅不得时如何。”师曰:“口能招祸。”问:“如何是佛法大意?”师曰:“洞庭湖里浪滔天。”问:“东涌西没时如何?”师曰:“寻。”问:“夜静独行时如何?”师曰:“三把茆。”问:“宝剑未出匣时如何?”师曰:“响。”曰:“出匣后如何?”师嘘一声。问:“闹中取静时如何?”师曰:“头枕布袋。”问:“牛头未见四祖时如何?”师曰:“堆堆地。”曰:“见后如何?”师曰:“堆堆地。”问:“一得永得时如何?”师曰:“抱石投河。”问:“仗镆鎁剑,拟取师头时如何?”师曰:“斩将去。”僧拟议,师便打。
#禅##五灯会元##石霜楚圆禅师##杨亿##李遵勖#
全州李氏子。少为书生,年二十二,依湘山隐静寺出家。其母有贤行,使之游方。闻汾阳道望,遂往谒焉。阳顾而默器之。经二年,未许入室。每见必骂诟,或毁诋诸方,及有所训,皆流俗鄙事。一夕诉曰:“自至法席已再夏,不蒙指示,但增世俗尘劳,念岁月飘忽,己事不明,失出家之利。”语未卒,阳熟视,骂曰:“是恶知识,敢裨贩我!”怒举杖逐之。师拟伸救,阳掩师口,乃大悟曰:“是知临济道出常情。”
服役七年,辞去,依唐明嵩禅师。嵩谓师曰:“杨大年内翰知见高,入道稳实,子不可不见。”师乃往见大年。年问曰:“对面不相识,千里却同风。”师曰:“近奉山门请。”年曰:“真个脱空。”师曰:“前月离唐明。”年曰:“适来悔相问。”师曰:“作家。”年便喝。师曰:“恰是。”年复喝。师以手划一划。年吐舌曰:“真是龙象。”师曰:“是何言欤?”年唤客司:“点茶来,元来是屋里人。”师曰:“也不消得。”茶罢又问:“如何是上座为人一句?”师曰:“切。”年曰:“与么,则长裙新妇拖泥走。”师曰:“谁得似内翰?”年曰:“作家,作家。”师曰:“放你二十棒。”年拊膝曰:“这里是甚么所在?”师拍掌曰:“也不得放过。”年大笑。又问:“记得唐明当时悟底因缘么?”师曰:“唐明问首山:‘如何是佛法的的大意?’山曰:‘楚王城畔,汝水东流。‘”年曰:“祇如此语,意旨如何?”师曰:“水上挂灯毬。”年曰:“与么则孤负古人去也。”师曰:“内翰疑则别参。”年曰:“三脚虾蟆跳上天。”师曰:“一任跳。”年乃大笑,馆于斋中,日夕质疑智证,因闻前言往行,恨见之晚。
朝中见驸马都尉李公遵勖曰:“近得一道人,真西河师子。”李曰:“我以拘文,不能就谒,奈何?”年默然。归语师曰:“李公佛法中人,闻道风远至,有愿见之心,政以法不得与侍从过从。”师于是迟明谒李公。公阅谒使童子问曰:“道得即与上座相见。”师曰:“今日特来相看。”又令童子曰:“碑文刊白字,当道种青松。”师曰:“不因今日节,余日定难逢。”童又出曰:“都尉言,与么则与上座相见去也?”师曰:“脚头脚底。”公乃出。坐定问曰:“我闻西河有金毛狮子,是否?”师曰:“甚么处得者消息?”公便喝。师曰:“野干鸣。”公又喝。师曰:“恰是。”公大笑。师辞。公问:“如何是上座临行一句?”师曰:“好将息。”公曰:“何异诸方?”师曰:“都尉又作么生?”公曰:“放上座二十棒。”师曰:“专为流通。”公又喝。师曰:“瞎。”公曰:“好去。”师应喏喏。自是往来杨李之门,以法为友。
久之,辞还河东。年曰:“有一语寄与唐明,得么?”师曰:“明月照见夜行人。”年曰:“却不相当。”师曰:“更深犹自可,午后更愁人。”年曰:“开宝寺前金刚,近日因甚么汗出?”师曰:“知。”年曰:“上座临行,岂无为人底句?”师曰:“重叠关山路。”年曰:“与么则随上座去也。”师嘘一声。年曰:“真师子儿,大师子吼。”师曰:“放去又收来。”年曰:“适来失脚踏倒,又得家童扶起。”师曰:“有甚么了期?”年大笑。
师还唐明。李公遣两僧讯师,师于书尾画双足,写来僧名以寄之。公作偈曰:“黑毫千里余,金椁示双趺。人天浑莫测,珍重赤须胡。”
师以母老,南归至瑞州,首众于洞山,时聪禅师居焉。先是,汾阳谓师曰:“我遍参云门儿孙,特以未见聪为恨。”故师依止三年,乃游仰山。
杨大年以书抵宜春太守黄宗旦,使请师出世说法。守以南源致师,师不赴,旋特谒守愿行。守问其故,对曰:“始为让,今偶欲之耳。”守大贤之。
住后。上堂:“一切诸佛、及诸佛阿耨多罗三藐三菩提法,皆从此经出。”乃竖起拄杖曰:“这个是南源拄杖子,阿那个是经?”良久曰:“向下文长,付在来日。”喝一喝,下座。
上堂。良久曰:“无为无事人,犹是金锁难。”喝一喝,下座。问:“如何是佛?”师曰:“水出高原。”问:“如何是南源境。”师曰:“黄河九曲,水出昆仑。”曰:“如何是境中人。”师曰:“随流人不顾,斫手望扶桑。”
上堂:“云收雾卷,杲日当空。不落明暗,如何通信?”僧问:“山深觅不得时如何。”师曰:“口能招祸。”问:“如何是佛法大意?”师曰:“洞庭湖里浪滔天。”问:“东涌西没时如何?”师曰:“寻。”问:“夜静独行时如何?”师曰:“三把茆。”问:“宝剑未出匣时如何?”师曰:“响。”曰:“出匣后如何?”师嘘一声。问:“闹中取静时如何?”师曰:“头枕布袋。”问:“牛头未见四祖时如何?”师曰:“堆堆地。”曰:“见后如何?”师曰:“堆堆地。”问:“一得永得时如何?”师曰:“抱石投河。”问:“仗镆鎁剑,拟取师头时如何?”师曰:“斩将去。”僧拟议,师便打。
#禅##五灯会元##石霜楚圆禅师##杨亿##李遵勖#
刘备一生错失4大帅才,有这些人在,他有可能一统三国
喜欢读《三国演义》的人都知道,三国堪称是中国历史上最为精彩的时期之一。
之所以说它精彩,是因为这个时代英雄辈出,比如义薄云天的关羽、粗中有细的张飞、忠肝义胆的赵云、足智多谋的诸葛亮,以及那个被称为“治世之能臣,乱世之枭雄”的曹操等等。
这段历史,因为有了这些人物的存在而变得精彩纷呈,引人注目。当然了,在这些英雄人物中,也有那么几个充满着悲情。比如蜀汉政权的创建者刘备,就是典型的例子之一。
刘备虽然出生于皇亲贵胄之家,但生逢乱世的他,只能跟母亲以织席贩履为业,生活过得非常艰苦。
不过,刘备也比较幸运,一次偶然的机会,让他遇到了关羽和张飞,三人桃园结义,成为了生死与共的异姓兄弟。之后,刘备又在公孙瓒那里得到了赵云,从此刘关张赵四兄弟东征西讨,患难与共。
然而尽管如此,刘备手下还是人才不足,尤其在后期更是如此。
其实,真实历史中的刘备,在四处征战的时候的确错失了不少人才,尤其错失了四位帅才。事实上如果刘备能够得到或者重用这四人,也许就能够一统三国,不至于后来在夷陵战败后悲愤地死去。
那么,这四人分别是谁呢?
第一位:陈群
陈群出身于名门望族颍川陈氏,祖父是东汉太丘长陈寔,父亲是大鸿胪陈纪。
兴平元年,刘备时为豫州刺史,以陈群为别驾。当时,徐州牧陶谦已经去世,徐州举州欢迎刘备继领。刘备正想要前往徐州接任,但陈群却劝刘备说:“现在袁术的力量还很强大,如果现在就进驻徐州,一定会与袁术发生争斗。如果这个时候吕布乘机袭击我军后方的话,那么即便是得到徐州,事情也不一定会有圆满的结局。”
但刘备压根听不进去,执意要进驻徐州,结果与袁术发生激战。而这时吕布又突然兵袭下邳,导致刘备大败。之后,陈群失望而去,改投曹魏。
陈群改投曹魏后,得到了曹操的重用。曹操入主徐州时,便将其提拔为参丞相军事;曹操封为魏王后,陈群又被提拔为御史中丞,封昌武亭侯。曹魏建国后,陈群则先后被提拔为尚书令、镇军大将军、中护军、录尚书事等。
陈群历经曹操、曹丕、曹叡三代,以其突出的治世之才,尽忠职守,为曹魏政权的建立与发展立下了汗马功劳。当然,如果陈群能一直待在刘备身边,并得以重用的话,那么刘备的状况势必要好很多。
第二位:田豫
刘备在落魄的时候投奔了公孙瓒,当时公孙瓒手下的一个小官田豫注意到了刘备,觉得刘备是一个有仁德之心的人才,于是和刘备打好关系,说出了自己心中的雄途伟业,刘备也很看中他,觉得田豫也是一个可以发掘的人才。
但是田豫要回家照看母亲,因为当时的世子家族情怀都很重,所以哪怕有再大的雄心,也得等母亲去世或身体转好,才能回来。刘备哭着和他告别,说只恨不能和田豫一起共建大业。由于田豫没有等到刘备的归来,二人就此错过。
后来,田豫在魏国边境做镇守边关的太守,平定了各种反叛,将周围的游牧民族治理得服服帖帖,在边关的经济发展方面也是做出了很大的贡献。尽管他家中贫寒,却依然把朝廷的封赏发给手下将领,把北方民族的贡品上交给朝廷。
田豫在位几十年功勋卓著,算得上一代规略明练、用兵如神的俊才,他最后结局也不错,活了82岁。假如刘备等到了田豫的归来,二者联合便可以将蜀国的边界打造得固若金汤,让蜀国更加繁荣稳定。甚至,以田豫的文武双全,最后能位居蜀汉的“五虎将”也说不定。
第三位:太史慈
太史慈第一次来找刘备是为了救孔融而来的,当刘备等人听说他一人突破黄巾大军时,都大吃一惊,因为当时的城池被数千黄巾军所围,凭一人之力实在很难突破。当张飞关羽等人带着三千兵马去解围的时候,看到太史慈箭无虚发,敌人应声倒地,方才相信太史慈是一个有勇有谋的将领。
太史慈的战力还不止于此,他在扬州刺史刘繇手下任职的时候,与孙策打了一架,当时他的身边只有几个小卒,而孙策身边却有黄盖等大将。但是两个人打的不分伯仲,在当时能和小霸王孙策打得有来有往的又有几个人呢?
而当时刘备要想太史慈归入麾下,就要付出真心,认真的去礼贤下士,让太史慈看到自己的能力和诚心,就像当年去招聘诸葛亮一样,三顾茅庐。让太史慈知道刘备的实力,而且让他看到自己的军事实力,手下的赵云、张飞、关羽等人的实力是多么强力,还有军师诸葛亮,让太史慈能在自己身上看到前途。
太史慈年仅四十一岁就病逝了,在去世前说:如今所志未从,奈何却要死啊。假如太史慈和刘备能一起共事,那么五虎将中一定有他的位置,此人忠肝义胆,孔武有力,并且有自己的想法和谋略,一员智将就可以在刘备的带领下,开拓出自己的功业,发挥出自己应有的能力,让自己的一生不留下遗憾。
第四位:黄权
刘备夺了西川后,黄权作为刘璋的旧臣,归顺了刘备。谁料,最后他竟成了刘备临终前最大的痛点。
事实上,若黄权还在,托孤重臣是轮不到李严的,因为黄权的才华不在法正之下。甚至相比法正,刘备更信任和重用黄权。如著名的汉中之战,都说法正是第一功,但实则却是“杀夏侯渊,据汉中,皆(黄)权本谋也”。(《三国志》)
其次,夷陵之败刘备本可以避免。战前,黄权曾提出了一条谋略:“吴人悍战,又水军顺流,进易退难,臣请为先驱以当寇,陛下宜为后镇。”意思是说,要水陆并进阻挡吴军,让刘备负责督后总揽全局。
结果刘备不听,导致兵败夷陵,黄权则被东吴水军分割,无法返回蜀汉,便投降了曹丕。然而,黄权投降后,凡是涉及到蜀汉和刘备、诸葛亮的事,却一句话不说,所谓“进曹营,一言不发”。
有人曾向刘备表示,黄权投降,应杀他的家属。刘备却拒绝道:“是我对不起黄权,不是黄权对不起我。”后来,黄权的儿子黄崇也忠心耿耿,在蜀汉灭亡之时随诸葛瞻一并战死在绵竹。
黄权跟诸葛亮关系很亲密,不像后来的李严一样跟诸葛亮争夺权力。如果黄权还在的话,他很有可能成为托孤重臣,跟诸葛亮配合着治理蜀汉,那样的话,蜀汉的内耗会小很多,或许诸葛亮也能多活几年,甚至北伐成功。
总的来说,如果刘备真的能掌握好这四人,那么其结局势必要好得多。但不可否认的是,历史本身就是不完美的,真正的历史是没有“如果”之说的。也正是由于历史的不完美,才能让我们看到这一幕幕跌宕起伏的精彩故事,才能引以为戒,更好地教育后人。
#历史那些事#
喜欢读《三国演义》的人都知道,三国堪称是中国历史上最为精彩的时期之一。
之所以说它精彩,是因为这个时代英雄辈出,比如义薄云天的关羽、粗中有细的张飞、忠肝义胆的赵云、足智多谋的诸葛亮,以及那个被称为“治世之能臣,乱世之枭雄”的曹操等等。
这段历史,因为有了这些人物的存在而变得精彩纷呈,引人注目。当然了,在这些英雄人物中,也有那么几个充满着悲情。比如蜀汉政权的创建者刘备,就是典型的例子之一。
刘备虽然出生于皇亲贵胄之家,但生逢乱世的他,只能跟母亲以织席贩履为业,生活过得非常艰苦。
不过,刘备也比较幸运,一次偶然的机会,让他遇到了关羽和张飞,三人桃园结义,成为了生死与共的异姓兄弟。之后,刘备又在公孙瓒那里得到了赵云,从此刘关张赵四兄弟东征西讨,患难与共。
然而尽管如此,刘备手下还是人才不足,尤其在后期更是如此。
其实,真实历史中的刘备,在四处征战的时候的确错失了不少人才,尤其错失了四位帅才。事实上如果刘备能够得到或者重用这四人,也许就能够一统三国,不至于后来在夷陵战败后悲愤地死去。
那么,这四人分别是谁呢?
第一位:陈群
陈群出身于名门望族颍川陈氏,祖父是东汉太丘长陈寔,父亲是大鸿胪陈纪。
兴平元年,刘备时为豫州刺史,以陈群为别驾。当时,徐州牧陶谦已经去世,徐州举州欢迎刘备继领。刘备正想要前往徐州接任,但陈群却劝刘备说:“现在袁术的力量还很强大,如果现在就进驻徐州,一定会与袁术发生争斗。如果这个时候吕布乘机袭击我军后方的话,那么即便是得到徐州,事情也不一定会有圆满的结局。”
但刘备压根听不进去,执意要进驻徐州,结果与袁术发生激战。而这时吕布又突然兵袭下邳,导致刘备大败。之后,陈群失望而去,改投曹魏。
陈群改投曹魏后,得到了曹操的重用。曹操入主徐州时,便将其提拔为参丞相军事;曹操封为魏王后,陈群又被提拔为御史中丞,封昌武亭侯。曹魏建国后,陈群则先后被提拔为尚书令、镇军大将军、中护军、录尚书事等。
陈群历经曹操、曹丕、曹叡三代,以其突出的治世之才,尽忠职守,为曹魏政权的建立与发展立下了汗马功劳。当然,如果陈群能一直待在刘备身边,并得以重用的话,那么刘备的状况势必要好很多。
第二位:田豫
刘备在落魄的时候投奔了公孙瓒,当时公孙瓒手下的一个小官田豫注意到了刘备,觉得刘备是一个有仁德之心的人才,于是和刘备打好关系,说出了自己心中的雄途伟业,刘备也很看中他,觉得田豫也是一个可以发掘的人才。
但是田豫要回家照看母亲,因为当时的世子家族情怀都很重,所以哪怕有再大的雄心,也得等母亲去世或身体转好,才能回来。刘备哭着和他告别,说只恨不能和田豫一起共建大业。由于田豫没有等到刘备的归来,二人就此错过。
后来,田豫在魏国边境做镇守边关的太守,平定了各种反叛,将周围的游牧民族治理得服服帖帖,在边关的经济发展方面也是做出了很大的贡献。尽管他家中贫寒,却依然把朝廷的封赏发给手下将领,把北方民族的贡品上交给朝廷。
田豫在位几十年功勋卓著,算得上一代规略明练、用兵如神的俊才,他最后结局也不错,活了82岁。假如刘备等到了田豫的归来,二者联合便可以将蜀国的边界打造得固若金汤,让蜀国更加繁荣稳定。甚至,以田豫的文武双全,最后能位居蜀汉的“五虎将”也说不定。
第三位:太史慈
太史慈第一次来找刘备是为了救孔融而来的,当刘备等人听说他一人突破黄巾大军时,都大吃一惊,因为当时的城池被数千黄巾军所围,凭一人之力实在很难突破。当张飞关羽等人带着三千兵马去解围的时候,看到太史慈箭无虚发,敌人应声倒地,方才相信太史慈是一个有勇有谋的将领。
太史慈的战力还不止于此,他在扬州刺史刘繇手下任职的时候,与孙策打了一架,当时他的身边只有几个小卒,而孙策身边却有黄盖等大将。但是两个人打的不分伯仲,在当时能和小霸王孙策打得有来有往的又有几个人呢?
而当时刘备要想太史慈归入麾下,就要付出真心,认真的去礼贤下士,让太史慈看到自己的能力和诚心,就像当年去招聘诸葛亮一样,三顾茅庐。让太史慈知道刘备的实力,而且让他看到自己的军事实力,手下的赵云、张飞、关羽等人的实力是多么强力,还有军师诸葛亮,让太史慈能在自己身上看到前途。
太史慈年仅四十一岁就病逝了,在去世前说:如今所志未从,奈何却要死啊。假如太史慈和刘备能一起共事,那么五虎将中一定有他的位置,此人忠肝义胆,孔武有力,并且有自己的想法和谋略,一员智将就可以在刘备的带领下,开拓出自己的功业,发挥出自己应有的能力,让自己的一生不留下遗憾。
第四位:黄权
刘备夺了西川后,黄权作为刘璋的旧臣,归顺了刘备。谁料,最后他竟成了刘备临终前最大的痛点。
事实上,若黄权还在,托孤重臣是轮不到李严的,因为黄权的才华不在法正之下。甚至相比法正,刘备更信任和重用黄权。如著名的汉中之战,都说法正是第一功,但实则却是“杀夏侯渊,据汉中,皆(黄)权本谋也”。(《三国志》)
其次,夷陵之败刘备本可以避免。战前,黄权曾提出了一条谋略:“吴人悍战,又水军顺流,进易退难,臣请为先驱以当寇,陛下宜为后镇。”意思是说,要水陆并进阻挡吴军,让刘备负责督后总揽全局。
结果刘备不听,导致兵败夷陵,黄权则被东吴水军分割,无法返回蜀汉,便投降了曹丕。然而,黄权投降后,凡是涉及到蜀汉和刘备、诸葛亮的事,却一句话不说,所谓“进曹营,一言不发”。
有人曾向刘备表示,黄权投降,应杀他的家属。刘备却拒绝道:“是我对不起黄权,不是黄权对不起我。”后来,黄权的儿子黄崇也忠心耿耿,在蜀汉灭亡之时随诸葛瞻一并战死在绵竹。
黄权跟诸葛亮关系很亲密,不像后来的李严一样跟诸葛亮争夺权力。如果黄权还在的话,他很有可能成为托孤重臣,跟诸葛亮配合着治理蜀汉,那样的话,蜀汉的内耗会小很多,或许诸葛亮也能多活几年,甚至北伐成功。
总的来说,如果刘备真的能掌握好这四人,那么其结局势必要好得多。但不可否认的是,历史本身就是不完美的,真正的历史是没有“如果”之说的。也正是由于历史的不完美,才能让我们看到这一幕幕跌宕起伏的精彩故事,才能引以为戒,更好地教育后人。
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