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【ロバート キャンベル】「迷惑」と「お互いさま」、かくもグレーな境界
■迷惑とお互いさまの境界線
「迷惑」は、平家物語にも使われている非常に古い日本語ですが、漢字からもわかるとおり、もとは「迷い、惑う」「困惑する」という意味で使われていました。気持ちが揺れ動き、行きつ戻りつしながら「さて、これはどうしたものだろうか」と判断に迷う。そんな時間を凝縮したようなニュアンスが、本来の語源にはあります。いま使われている「迷惑」が、言われたら、はっと身体が硬直し、ぐっと気持ちが固くなるような断定的な響きなのとは、ずいぶん違います。
私は仕事でよく新幹線のグリーン車に乗りますが、移動中は原稿を書いたり、集中して本を読んだりする時間にあてています。料金を支払えばだれでも座れる空間ではあるのですが、グリーン車には、ある不文律が存在している。もちろん、どこかに「何デシベル以下」などと書いてあるわけではないのですが、「この空間が静かであるという価値を、お互いに守っていきましょうね」という空気のようなものです。
家族連れの人は「静かに仕事をしている人もいるから、なるべく静かにしようね」と子どもたちに注意する。一方で、仕事をしている人はイヤホンや耳栓をして、多少の騒がしさは「あすは我が身かもしれない」「10年前は私も子連れだったのだから」とやり過ごす。こうして、お互いが共感できるなかに収まっているとき、その空間には「お互いさま」が成り立っています。
ですが、この「お互いさま」は、ある一線を越えたとき、こぼれて、「迷惑」になります。先日は、新幹線のなかで、中年の男性が2人の子ども連れのお母さんをこっぴどく叱っている場面に居合わせました。わたしも心の中では「かなわないなあ、できたらデッキに連れて行ってほしいなあ」と思ってはいました。
それでも、私のその気持ちは「お互いさま」という容器の中に収まっていました。それは、その時の自分の体調や仕事、ひとりきりで子どもの面倒を見ているお母さんの様子など、さまざまな要素が重なった結果です。でも、別の人にとっては、それは容器に収まらず、「迷惑」として、こぼれだしてしまった。「迷惑」と「お互いさま」の境界線は、非常にグレーなのです。
日本語の「こぼれる」という言葉には「おこぼれをちょうだいする」「こぼれ幸い」のように、いい意味もあります。英語の“overspill”は「あふれる」というだけで、このような余情はありません。「迷惑」も同じかもしれません。迷惑にあたる英語の単語は、“nuisance” や、もう少し強い “harm” や “harassment”などがありますが、どれも悪い意味で、「お互いさま」のような言葉とは二項対立的な関係。「いいこと」と「悪いこと」があらかじめ決まっている欧米社会で、“nuisance” から「お互いさま」に入っていくというのは想像できません。
ところが、日本語の場合は「迷惑」と「お互いさま」は、メビウスの輪のようにつながっている。「いまの迷惑は、あした自分がかける迷惑かもしれない」「昨日自分も同じような迷惑をかけていたかもしれない」。そうやって、その場に身をゆだね、様子を見ながら、公約数的な安定を保つにはどう行動すればいいのか考えるのが、日本社会です。状況により調整できる幅、可動域が与えられているのです。それは、日本特有の「余白」「クッション」のようなもので、社会にとってとても大切なものだと思います。
■なぜ迷惑か、を伝える
ひょっとして日本社会に足りないのかもしれない、と思っていることがあります。それは、誰かの行為に対して「迷惑だなあ」と思ったときに、それを冷静に見直し、相手に「なぜやってはいけないのか」の根拠を示して伝えるリテラシーです。こういう時、日本では「だって、常識でしょ?」と説明を迂回しようとするところがあります。でもそれでは、お互いの思いを知ることはできず、せっかくの可動域をいかすこともできません。
いま、日本の外に目を向けてみても、人種や格差など、さまざまな違いによって人々を分断する力が強くなっています。だからこそ、ある人にとっての不都合を別の人に伝える努力を通じて、お互いに何が起きているのかを確認し、思いや立場を伝え、相手の言葉に聞く耳を持つプロセスが大切だと感じます。
相手は最後まで、自分の意見に賛成しないかもしれない。けんか別れになるかもしれない。それでも、その行為が善か悪かを置いておいても、そのプロセスこそが、この社会で喜怒哀楽をともにする覚悟と希望なのだと思います。特に電子空間でのコミュニケーションが増えている現代社会で、不要な争いを回避し、かつ泣き寝入りしないために、もっと言えば、ものごとをハッピーに運ぶために重要なスキルになると思います。
【ロバート キャンベル】「迷惑」と「お互いさま」、かくもグレーな境界
■迷惑とお互いさまの境界線
「迷惑」は、平家物語にも使われている非常に古い日本語ですが、漢字からもわかるとおり、もとは「迷い、惑う」「困惑する」という意味で使われていました。気持ちが揺れ動き、行きつ戻りつしながら「さて、これはどうしたものだろうか」と判断に迷う。そんな時間を凝縮したようなニュアンスが、本来の語源にはあります。いま使われている「迷惑」が、言われたら、はっと身体が硬直し、ぐっと気持ちが固くなるような断定的な響きなのとは、ずいぶん違います。
私は仕事でよく新幹線のグリーン車に乗りますが、移動中は原稿を書いたり、集中して本を読んだりする時間にあてています。料金を支払えばだれでも座れる空間ではあるのですが、グリーン車には、ある不文律が存在している。もちろん、どこかに「何デシベル以下」などと書いてあるわけではないのですが、「この空間が静かであるという価値を、お互いに守っていきましょうね」という空気のようなものです。
家族連れの人は「静かに仕事をしている人もいるから、なるべく静かにしようね」と子どもたちに注意する。一方で、仕事をしている人はイヤホンや耳栓をして、多少の騒がしさは「あすは我が身かもしれない」「10年前は私も子連れだったのだから」とやり過ごす。こうして、お互いが共感できるなかに収まっているとき、その空間には「お互いさま」が成り立っています。
ですが、この「お互いさま」は、ある一線を越えたとき、こぼれて、「迷惑」になります。先日は、新幹線のなかで、中年の男性が2人の子ども連れのお母さんをこっぴどく叱っている場面に居合わせました。わたしも心の中では「かなわないなあ、できたらデッキに連れて行ってほしいなあ」と思ってはいました。
それでも、私のその気持ちは「お互いさま」という容器の中に収まっていました。それは、その時の自分の体調や仕事、ひとりきりで子どもの面倒を見ているお母さんの様子など、さまざまな要素が重なった結果です。でも、別の人にとっては、それは容器に収まらず、「迷惑」として、こぼれだしてしまった。「迷惑」と「お互いさま」の境界線は、非常にグレーなのです。
日本語の「こぼれる」という言葉には「おこぼれをちょうだいする」「こぼれ幸い」のように、いい意味もあります。英語の“overspill”は「あふれる」というだけで、このような余情はありません。「迷惑」も同じかもしれません。迷惑にあたる英語の単語は、“nuisance” や、もう少し強い “harm” や “harassment”などがありますが、どれも悪い意味で、「お互いさま」のような言葉とは二項対立的な関係。「いいこと」と「悪いこと」があらかじめ決まっている欧米社会で、“nuisance” から「お互いさま」に入っていくというのは想像できません。
ところが、日本語の場合は「迷惑」と「お互いさま」は、メビウスの輪のようにつながっている。「いまの迷惑は、あした自分がかける迷惑かもしれない」「昨日自分も同じような迷惑をかけていたかもしれない」。そうやって、その場に身をゆだね、様子を見ながら、公約数的な安定を保つにはどう行動すればいいのか考えるのが、日本社会です。状況により調整できる幅、可動域が与えられているのです。それは、日本特有の「余白」「クッション」のようなもので、社会にとってとても大切なものだと思います。
■なぜ迷惑か、を伝える
ひょっとして日本社会に足りないのかもしれない、と思っていることがあります。それは、誰かの行為に対して「迷惑だなあ」と思ったときに、それを冷静に見直し、相手に「なぜやってはいけないのか」の根拠を示して伝えるリテラシーです。こういう時、日本では「だって、常識でしょ?」と説明を迂回しようとするところがあります。でもそれでは、お互いの思いを知ることはできず、せっかくの可動域をいかすこともできません。
いま、日本の外に目を向けてみても、人種や格差など、さまざまな違いによって人々を分断する力が強くなっています。だからこそ、ある人にとっての不都合を別の人に伝える努力を通じて、お互いに何が起きているのかを確認し、思いや立場を伝え、相手の言葉に聞く耳を持つプロセスが大切だと感じます。
相手は最後まで、自分の意見に賛成しないかもしれない。けんか別れになるかもしれない。それでも、その行為が善か悪かを置いておいても、そのプロセスこそが、この社会で喜怒哀楽をともにする覚悟と希望なのだと思います。特に電子空間でのコミュニケーションが増えている現代社会で、不要な争いを回避し、かつ泣き寝入りしないために、もっと言えば、ものごとをハッピーに運ぶために重要なスキルになると思います。
【地气有转移,中国文化重新超胜西方文化,只是时间问题】:拉丁文打字机,让近现代中国高级知识精英丧失文化自信心的西方人的法宝。当时,废除汉字,汉语拉丁文字母化,十分流行,是知识精英的共识,并且影响到了国家政策。汉字差点真的被废除!没有想到,中国人发明激光照排技术,让汉语由劣势转为优势!
#汉字与植物命名# p5
…古人心目中花草树木的形象与我们现代人心目中花草树木的形象是不完全相同的。比如,在古人看来,松树和柏树,就是树木中的“公”和“伯”。
而从鬼的“槐”字,则是死去的祖先的象征物,因为古人以为“鬼者,归也”,人死去就回归阴间。上古时代,鬼与神往往相提并论,鬼往往指代祖先。而且,“槐”、“怀”二字音同意通,只要看见槐树,自然就会怀想先人,怀念祖先。
…古人心目中花草树木的形象与我们现代人心目中花草树木的形象是不完全相同的。比如,在古人看来,松树和柏树,就是树木中的“公”和“伯”。
而从鬼的“槐”字,则是死去的祖先的象征物,因为古人以为“鬼者,归也”,人死去就回归阴间。上古时代,鬼与神往往相提并论,鬼往往指代祖先。而且,“槐”、“怀”二字音同意通,只要看见槐树,自然就会怀想先人,怀念祖先。
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